高田裕司さん(元レスリング日本代表選手)

1980年に開催されたモスクワ五輪に、日本は出場しなかった。

当時世の中は米ソ冷戦真っ只中であり、その中でソビエト連邦がアフガニスタンに侵攻した事がアメリカ・西ヨーロッパ諸国の非難を呼び、アメリカをはじめ多くの国々がボイコット運動を展開。そして日本もアメリカに追随する形で不参加を決めた。
この大会に参加予定だった日本選手団は記者会見を開き、無念の会見を行った。その中にいたのが当時レスリング日本代表に選ばれていた高田裕司選手。
高田選手はそれまで1976年モントリオール五輪で金メダル、更に1970年代に開催された世界選手権で4度の優勝、1978年アジア競技大会でも優勝と、このモスクワでは最も油の乗り切った時期だった。それだけにこの不参加は無念だったに違いなく、会見では柔道の山下泰裕選手とともに涙を流した。

1984年発行のNumber103で、高田選手本人がその時の事を語っている(以下、原文のまま抜粋。著者は小林信也氏)

「オレはね、『積木くずし』だよ。あれで全部計算が狂っちまった。モスクワがオレの最後の舞台になるはずだった。どうやってマットにお別れしようかって考えてね、よし、金メダルを獲ったらマットにキスして現役を去ろう…と。引退後はアメリカに留学して、コーチ修行をすることになってた。それが全部、無しになっちゃったんだからね」

その後、引退し3年間少年チームのコーチしていたが、1983年に現役復帰。選考試合を経て1984年のロサンゼルス五輪に出場権を獲得。

「モントリオールの時は責任感が重たくて、正直勝ててホッとしただけ。まだ若かった(22歳)から、モスクワも当然という雰囲気だった。でも今度は…。
日本の為?バカいうんじゃないよ。誰が日本の為になんか戦うもんか。自分の為、そう、自己満足のためでしかない。日の丸のついたユニフォーム着るのだって本当はイヤだ。ムカムカする。
モスクワまではね、日本の為に頑張ろうって気もあったよ。オレ、『日本人』だしね。外国で日の丸の旗を見るっての特別な気分なんだ。あれを経験すると忘れられないね。でもオレ、結局、日本や協会に裏切られたんだからな。もうそんな気はないよ。

今は、ロスが終わったら何をやろうかって、そればかり考えてる。

オレ、常に全力で燃えてないと気がすまない性質だ。仕事は高校の教員。今、教員になるのは難しいから、幸せだと思うよ。けど、つまらない仕事だね。ほら、最近の先生は共産党ばっかりだろ。半分はそうだもん。職員会議で『卒業式で国旗と君が代はどうするか』なんて激論する。日の丸の何がいけないっていうんだ。
ボクら日体大を卒業して、ずっと体育一本で来た運動バカだからね、ハッキリ言って右翼ですよ。もし戦争が始まったら、鉄砲担いで戦いますよ、真っ先にね。それが他の先生ときたら…。だから、先生って職業に執着はないんだ。
ねたみもスゴイしさ。オレに直接言えばいいのに、レスリング部の生徒にいやがらせする。テストで頑張っても、赤点しかくれなかったりとかさ。せこい世界だよ。
自分で商売やりたいなあ。その方が、賭けてるって実感があるじゃない。

若い選手を育てる事?興味ないね。オリンピックがこんな状況なのに、どうやって選手をその気にさせるんだい。世界選手権なんてダメ、オリンピックは特別なんだ。素晴らしい舞台がもう無いのに、選手に『厳しい練習に耐えろ!減量で苦しめ!』なんて言えないよ。だから教える気もしない。

ロスは正真正銘、オレの最後の舞台だ。負けたって別にかまやしない。一週間も家に隠れて寝てればいいだけの話さ。まあ、できれば金メダルを獲って、マットにキスして、それから、マットの上で大の字に寝転んでやりたいね」


一見全てに投げやりな言葉を投げ続けているように感じられるが、その後彼は、見事にロス五輪で銅メダルを獲得した。

更にそれでは終わらず、今度は山梨学院大学の教授に就任し、同大レスリング部監督、そして日本レスリング協会専務理事、日本オリンピアンズ協会の監事を歴任。 現在は日本総合格闘技協会の理事長に就き、日本格闘技界の重鎮として活躍を続けている。
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by wataridori21 | 2009-07-07 20:29


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