スキー講習会とスキーブームの到来(1911年)

1月12日から始まった高田58連隊のスキー訓練の模様は、連日地元の新聞で報道された。

高田の町では、竹を使ったスキーを自前で作り、スキーを楽しむ者が次々と現れた。竹を細長く削り、先端を日で炙って曲げ、それを古下駄を打ち付けたものだったが、さすがに竹製とあって旨く操作できない。
それからまもなく木製のスキーが売り出されるようになった。最初は軍隊による軍事用に考えられたスキーの導入だったが、ものの数日で一般市民の間にスキーが広まったのである。

レルヒ少佐の指導はおよそ1ヶ月にわたり高田周辺の各地で行われ、連隊の営庭から、学校の校庭、練兵場、金谷山、旭山、南葉山、さらに関山、妙高山麓にまで足を運んだ。指導は過酷ではあったが、この第1回専修員はこの訓練の結果、全員がスキー技術の習得を成し遂げた。

この結果を受けて長岡師団長は、翌2月15日から第2回スキー講習会の開催を行う事とした。この時は軍人だけではなく、新潟県下の学校教師らの参加も認めた。長岡師団長は、豪雪地帯の新潟県にあって、スキーを大衆娯楽として広める事の意義を考えたのである。当時の世情を考えれば画期的であり、長岡師団長には先見の明があった。

この第2回スキー講習会は5日間で行われた。参加したメンバーには、後に全日本選手権等で活躍し指導者としても活躍した阿部正量・金井勝三郎、さらに佐藤サイ・大内文子ら高女の女性講師も含まれていた。指導するレルヒ少佐の補佐には、第1回講習会の専修員だった若手将校がついた。

講習会終了後、レルヒ少佐は北海道・旭川へ転任する事となったので、将校や生徒が参加する「レルヒ少佐送別競技会」が開催された。軍人も民間人も一緒になっての競技会である(これについては、僕自身少し驚いた。軍人と一般人との距離は、当時は以外に近かったのだろうか)。

その後、金谷山では、日曜といえばスキー客で賑わいを見せるようになった。大人も子供も、男女問わずスキーを楽しみ、滑る者もいれば、見物も訪れる者も大勢集まり、一大スキーブームが巻き起こった。

その後、スキーブームの広がりは日本各地に広まっていく事となる。
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by wataridori21 | 2009-07-14 05:56


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