鶴見宜信「スキー術」と「越信スキー倶楽部」「北海道スキー倶楽部」の創設(1912年)

明治45年(1912年)1月、高田58連隊の鶴見宜信大尉は、スキーの民間への普及を進めるため、「スキー術」という冊子を発表した。

この本は、同じ月に新潟県小千谷で開催された軍隊・民間の合同でのスキー講習会の為に準備したテキストで、前年にレルヒ少佐から受けた指導をもとに鶴見大尉自ら書いた。
3篇に分けた構成で、第1章が平地における動作、第2章は緩傾斜地における動作、第3章は急傾斜における動作となっている。スキーの着脱、経ち方、歩き方、止まり方、斜面の登り方、滑降の仕方、キックターンの仕方、更にスキーでの冬山登山の方法や自身の登山体験記(彼は直前に、スキーでの冬の妙高登山を実行している)が書かれており、この本が講習会で配られ、参加者はこれを参考に講習を受けた。
「スキー術」はその後話題を呼び、早稲田大学を初めとする各大学の山岳部で、スキーによる冬山登山を行うようになった。

同じ年の2月、新潟県高田で「越信スキー倶楽部」が誕生した。

「越信スキー倶楽部」とは、前年から高田で急速に普及していったスキーを、日本の積雪地帯全域に広める目的で作られた団体で、長岡外史師団長の呼びかけで誕生したのである。
前年3月に東京の宮中で行われた全国師団長会議で、長岡師団長が、スキーの軍事上とともに日本の雪国での生活手段として重要である事を唱え、スキー倶楽部の創設を予定している事を発表していた。その時に出席していた明治天皇を初め、多くの師団長らは強い興味を示し、翌年2月の発会式では各地の名士や名代が続々と参加してきた。その中には明治天皇の名代として山根侍従武官、さらに乃木大将も参列した。

当日は、午前は旭山から射撃場までの遠距離競争、午後は金谷山での発会式が行われ、式ではレルヒ少佐の指導を受けた鶴見大尉以下の専修員が模範滑降を披露した。数日前から地元新聞は大きく報道していた為、大勢の人々で金谷山は大変な賑わいだったという。

この頃、高田ではスキー用具の発達が急速に進み、家具商や車大工の多くはスキー製造業に転業し、製造された用具は、高田や新潟県下にとどまらず、内地はもちろん、遠く北海道や当時日本の領地だった樺太まで広く出回り、当時の高田の主要産業に発達した。明治の時代にあって運動具がこれほどの需要を生み出す事は、大変異例だったに違いない。

一方、同じ年、レルヒ少佐は転任先の北海道・旭川で軍部内でスキー指導を行った。しかし現地の軍隊を統括していた旭川第7師団の林中将は、スキーの軍事的価値をあまり感じる事がなく、スキー講習は僅か1回に留まり、民間人への開放もあまり積極的に行わなかった。
この講習に参加した民間人は地元の3人の郵便局員だけだったが、その中にいた旭川郵便局長・松田秀太郎はスキーに強い関心を持った。豪雪地である旭川での郵便業務で役に立つと考え、局員にスキー技術を伝え、局内でスキー愛好家が多く誕生した。さらに局外の一般人にも広まり、その後、松田らを中心とした「北海道スキー倶楽部」が創設されたのである。
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by wataridori21 | 2009-07-16 06:05


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