「日本スキー倶楽部」の発展と衰退(1912・13年)

明治45年(1912年)に誕生した「越信スキー倶楽部」は、それからまもなく「日本スキー倶楽部」に改称した。

日本スキー倶楽部は、高田以外にも長野・山形・秋田・青森に支部を置き、冬になるとそれらの地区から多くの人々がスキー習得の為に高田にやってきた。
生徒は主に軍人・先生・営林職員・学生で、高田では鶴見大尉やレルヒ少佐の指導を受けた阿部正量・金井勝三郎・高橋進らが「スキー指導団」を結成して指導に当たる。その生徒の中には、当時学習院(旧宮内省の外局として設置された官立学校)に在籍していた三島弥彦もいた。三島はその時、ストックホルムで開催された第5回オリンピックの日本代表選手(短距離競技)に選ばれたばかりで、この講習会が終わった直後の5月にストックホルムに出国している。ちなみに彼は、金栗四三とともに日本人オリンピック出場第1号選手である。

この日本スキー倶楽部の創設は全国に報道され、当時横浜に在住していた貿易商のエゴン・フォン・クライッツァーが大きな刺激を受け、他の在留外国人を引き連れ新潟県の五色に赴きスキーを滑り、その後「日本アルペンスキー倶楽部」を創設した。

このように日本でのスキーの広がりは大きくなったかに見えたが、大きな転機が訪れた。スキー普及を目指していた長岡外史師団長が、京都師団長に異動となったのである。後任には秋山好固中将が就任したが、彼はスキーへの理解は乏しく、他の軍人達も新しい師団長に遠慮してスキー関係の活動は自粛するようになった。

さらに悪い事に、鶴見大尉を筆頭とする高田13師団は揃って満州守備に出る事になり、日本スキー倶楽部は活動自体が大幅に縮小。そして各支部はそれぞれ独自にスキーの普及を行うようになり、互いの連絡網も途絶えていった。
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by wataridori21 | 2009-07-18 06:32


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