第1回全日本スキー選手権大会(1923年)

大正12年(1923年)2月10日、北海道小樽市緑ヶ丘にて「第1回全日本スキー選手権大会」が開催された。

10・11日の2日間の日程で、種目は距離が1km、4km、10km、8kmリレー、ジャンプ、クリスチャニア、テレマークの7つ。
各地区の選手達のスキー用具は、それぞれの地域で使用されていたものを身につけていたが、信越・東北・関東はケヤキ材にリリエンフェルト式締具、北海道がイタヤ材にフィットフェルト式締具、樺太が桜庭留三郎オリジナルの軽量のイタヤ材フィットフェルト式締具を使用していた。この用具の違いは距離種目では天地の差が出た。
そして何よりも、本州の各地区では滑降コースが主流であるのに対し、北海道・樺太では平坦なクロスカントリーのコースが主流、そして小樽で開催となった為にほぼすべての距離で北海道・樺太勢で上位を独占した。更にジャンプ競技では、本州の選手達はジャンプ台から飛ぶという経験がそれまで皆無だった為に大敗を喫する結果となった。さすがにスラローム競技では高田勢が数人上位を勝ち取ったが、それ以外の種目では競技前から「不公平だ」として、大会責任者と選手達とで悶着が起きたという。

この時の模様を「日本スキー発達史」で著者・小川勝次が、こう語っている。

かくして私達は東京スキー倶楽部の鷲田成男氏を監督とし、関東選手として小樽へ乗込んだ。地元の小樽選手と桜庭主将以下の樺太勢は既に練習をやっている。練習をしている相手を見ると私達にも闘志がわいてきた。
ところが走るコースを知り、緑ヶ丘に高く雪で積み上げられたジャンプ台を見るにおよんでビックリしてしまった。私達の距離滑走に対する知識というものは、高田のレルヒコースの知識であり、スキーの性能を生かすためには当然滑降コースであることを信じていたのに、小樽の予定されたコースは1キロ競争だけがやや高所から出発する以外、4キロ、8キロ(継走)、10キロ、の3競争とも出発とゴールが同一地点に設置された1週コースである。それにこの1週コース中にはろくに登行も滑降もない、道路競争のような平凡なコースである。つまりノールウェー式なコースだったのである。
さらに高田育ちの私には、お恥ずかしい次第であるが、スキーのジャンプ競技とは、雪で作った台にせよ、このような大きいシャンツェ(ジャンプ台)で飛ぶという事も初めて知り、かつ見たのであった。そして北海道の4,5名の選手が大胆にもこの台で飛び、転倒もせずに滑り去っていくのには驚いた。「スキーの驚異」にもこんな場面はなかっただけに驚きは一層大きい。「これは大変な事になった」と思った。


結果は距離が、1kmで上野秀麿(北海道小樽中学)、4kmで秋山広治(樺太)、10kmで島本孫一(樺太)、8kmリレーで北海道小樽商業(野中十郎・畠山一二三・金田芳雄・児島小一)、ジャンプで讃岐梅二(北海道小樽商)、テレマークで深沢謙吾(信越高田師範)、クリスチャニアでは船津肇(北海道小樽高商)。

地区の総合順位では、北海道が総合優勝、樺太が2位、信越が3位、関東が4位、東北が5位となった。この大会をもって北海道・樺太の強さが実証される事となり、本州勢は惨敗を糧に次大会に向けて対策をとることになった。それまでのアルペンスキー向きのリリエンフェルト式締具から、ノルディックスキー向きのフィットフェルト式締具への切り替え、そしてジャンプ競技選手の育成に励んだ。

ともあれ、名実ともに全国をあげて行われた初のスキー選手権大会である「第1回全日本スキー選手権大会」は、多くの課題を残しつつも、成功する形で終了した。
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by wataridori21 | 2009-07-24 06:01


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