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広田戸七郎と「スキージャムピング」(1923年)

1923年(大正12年)頃になると、北海道の札幌・小樽周辺では次々とシャンツェ(ジャンプ台)が作られていった。

もともとシャンツェの建設は、非常に手が掛かる上に、専門的な土木工学の知識が必要である。当時の北海道大学では、前述の遠藤吉三郎教授が伝えたジャンプ競技の知識の影響で、その魅力にとりつかれた学生が続出した。
まず大正6年に北大生の大矢敏範が遠藤教授とジャンプ台の研究を始め、小樽商業の裏山で木組みの台を手作りで建設し、大矢本人が飛んだところ18mの距離がでた。その後緑ヶ丘でジャンプ台ができてそこで第1回全日本スキー選手権大会が行われ、小樽商業の讃岐梅二が18.1mを飛んだ(ちなみに非公式だが東北地区代表として参加していた長尾惣助少佐が試しに飛んだ所20mの距離を出している)。

その後、北大生の木原均が中心となって更なるジャンプ台の研究が進められ、札幌の三角山周辺に飛距離30数mの当時としては巨大なシャンツェが作られた。そして木原の指導した門下生から登場したのが広田戸七郎である。

広田戸七郎とは、後に設立される「全日本スキー連盟」の初代常務理事で、日本選手の冬季五輪初参加となるサンモリッツ五輪の日本選手団の総監督となる人物。その彼が大正12年12月に出版したのが「スキージャムピング」。

この本では、スキージャンプの起原から始まり、技術発展の歴史、ジャンプ台の建設方法、服装・スキー板の説明、テクニック、練習方法、審判規定がまとめられている。特にジャンプ台の建設の項目では多くのページを割いて説明しており、作り方だけでなく作る場所がどんな環境が望ましいか、どのような調査をしてから建設場所を選ばなければならないかを細かく記している。

「スキージャムピング」は、その後の日本のジャンプ台建設の際の「虎の巻」となり、後の昭和4年に猪谷六合雄が赤城山にシャンツェを作る際には、貴重な手引書となった。
by wataridori21 | 2009-08-01 06:20


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