オラフ・ヘルセット中尉の来日と猪谷六合雄(1929年)

昭和3年(1928年)12月31日、ノルウェーのヘルセット中尉が来日した。

彼が来日したいきさつは同年2月にさかのぼる。秩父宮親王が北海道へスキー旅行へ行った際、札幌のスキー環境の良さに着目し、帰京後に大倉喜七郎(当時帝国ホテル会長、後の「ホテルオークラ」創業者)にジャンプ台を作る事を進言。
大倉は私財を投入して札幌にシャンツェの建設を決意し、全日本スキー連盟と協議、ノルウェーにジャンプ台の権威者の紹介を依頼した。そしてノルウェーからは、当時同国スキー連盟副会長のオラフ・ヘルセット中尉とオウレ・コルテルード、ヨオン・スネルスルードの2選手を派遣。ヘルセットは陸軍参謀本部附の肩書きを持ち、サンモリッツ五輪では日本選手団と親交をもっていた。

一行はまず1月4日に札幌へ移動、小樽を経て青森県大鰐、新潟県高田、長野県野沢、飯山、志賀高原、福島県沼尻と渡った。

途中高田では第7回全日本スキー選手権大会が開催される事になっていたので、ヘルセット中尉はここでジャンプ台はもちろん、距離コースの大規模改造まで着手した。

その時の模様を「日本スキー発達史」では、こう記されている。

一行が高田に乗込むや、その日から猛烈な頑張りで高田の雪と取り組み始めた。第一に着手したのはジャンプ台で、ヘルセット中尉自らシャベルを持って役員や人夫を指揮し、雪を積立てて大改造工事が開始された。着陸斜面を堅く踏みつけることの必要を私たちは初めて知った。またこの急斜面を踏みつけるに便利なため、台下から斜面に一本のロープを垂らし、それに掴まって雪を踏みつけるようにした。このうまい仕掛けに私たちも感心してしまった。
丸一日かかってようやく完成させることができた。高田の台の記録は28mである。中尉は「これでコルテルードなら、40m飛ぶことができるだろう」と予言した。みんなヘトヘトになって宿に戻り、明日の晴天を祈った。大会を前に集まっている選手達も、台の改造で飛ぶ事ができなかったが、明日は飛ばせたい。そしてコルデルードとスネルスルードのジャンプを見ることも楽しみだ。疲れてはいたが私たちは明日の希望で明るかった。

ところが夜中から雪が降り出した。朝起きてみると一尺からの新雪が積もっているではないか、私たちはガッカリしてしまった。あれほど努力して固めた斜面も新しいそして深い雪に覆われているに相違ない。しかしヘルセット中尉の表情は変わらなかった。私たちも、その日も山へ出かけシャベルを握り、黙々と中尉の指揮に従い、ジャンプ台の雪を固めた。
そして午後になってようやくプロフイルが定まり、コルテルードが飛んだ。測尺標がなかったので、正確な記録は不明だったが、40m近い距離がでた。

距離競争のコースは、中尉が自分で滑って指標となる赤布のつけ方や、コースの採り方をいちいち手に取るように教えながらコースを廻った。


しかしせっかく改造した距離コースやジャンプ台も、選手権大会の開催直前に大雪が降り、改造の効果を発揮する事ができず、ノルウェーの2選手も距離18kmに特別参加したが6位・8位となった。
ちなみに大会の結果は、距離40kmは1位が上石巌(高田、4時間1分34秒)、2位が宮下義明(妙高)。18kmは1位が後藤五一郎(妙高、1時間42分16秒)、2位が松橋朝一(妙高)。今大会から初めて導入された複合競技では1位が神沢謙三(北大)、2位が長田光男(北大)。ジャンプは1位が牧田光武(樺太中央、26m、28m)、2位が村本金弥。28kmリレーは1位が妙高スキー倶楽部(松橋朝一、宮下義明、川久保忠義、後藤五一郎)、2位が北海道大学(山田勝巳、中村新一郎、宮下利三、長田光男)

そして2月、群馬県赤城山のジャンプ台にたどり着いた。そこのジャンプ台は地元に住む猪谷六合雄が独学で作成したもので、その完成度にヘルセット中尉も「なんら工夫しなくても、すぐに使用できるシャンツェ」と賛辞を送った。
このあと、ノルウェー2選手と全日本選手権代表数人によるジャンプ競技大会が、群馬県体育協会主催で開催され、普段は物静かな赤城山中のジャンプ台周辺は、多くの見物客で賑わった。

さらに2月17日、赤城山ジャンプ台でノルウェーの両選手と日本ジャンプ陣4人が模範ジャンプを行った。当日はスキー愛好家でもある秩父宮・高松宮両殿下も臨席。
結果は、スネルスルード53m、コルデルード52m、伴素彦48m、猪谷六合雄46.5m、秋野武夫43m、麻生武夫38.5。当時の日本記録は村本金弥の28mだった為、この大幅な記録更新に関係者は沸き立った。「猪谷六合雄」の名が全国に知れ渡ったのはこの時からである。

この時の模様を、「雪に生きる」(ベースボールマガジン社)の中で猪谷六合雄が語っている。

(ジャンプ競技選手権が終了後)呆気なく大会も済んで、山はまた元の静けさに帰った。私たちが面白かったいろいろな思い出話を繰り返しながら練習を始めたところへ、またさらに思いもかけない吉報がもたらされた。今度は近日中に、秩父宮、高松宮両殿下の台臨(たいりん)を仰いで台覧ジャンプをするという知らせであった。
私たち一同、身に余る光栄に感激したことは、もちろんだった。両陛下お揃いで赤城山へ御成りになるというようなこともまた、開闢(かいびゃく)いらい初めてのことだった。私たちのスキージャンプがこんな結果を生み出そうとは、全く夢想もできないことだった。
私は生前、心配ばかりかけていた七年前に亡くなった母に、せめて今日まで生きていて貰いたかった、としみじみ思った。そしたら、あの生真面目な母が何と言って喜んだだろうと、それを想像すると残念でならなかった。

しかし私たちの喜びはまだそれだけではなかった。この前の大会の時には日帰りにしたノルウェーの選手達が、今度は一両日の余裕をもって泊りがけに来るということであった。
私たちは待ち侘びたその日の夕方、練習が済んでからヘルセットたちを迎えに、みんなして峠の下まで降りていった。もう前に顔馴染みであったし、今度は日本の選手達もわずか三、四人だったので、もう大会などという気分ではなく、言葉こそ通じないがお互いにすっかり親しい気持ちになってしまって、みんなニコニコしながら坂を登って暗くなる頃、家へ帰った。

私はスキージャンプを始めて以来、この三、四日ほど楽しかった思い出は、前にもあとにもなかった。

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by wataridori21 | 2009-08-15 17:19


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