レークプラシッド五輪代表選手の選出と菅平合宿(1931年)

昭和6年(1931年)の日本スキー界は、翌年のレークプラシッド五輪を控えており、選手のレベルアップが期待されていた。

翌年1月17日、第4回全日本学生選手権が開催。長野県飯山で行われ、これまでのジャンプ・北大、距離・早大の時代に、距離に明治大学、ジャンプに法政大学の選手が上位に食い込んできた。緒方七郎・栗谷川平五郎・神代保男らが台頭してきたのである。
40km 1位→緒方七郎(明大)、2位→清水麟一(早大)、3位→横山平一郎(明大)
18km 1位→栗谷川平五郎(明大)、2位→矢沢武雄(早大)、3位→坪川武光(早大)
複合 1位→栗谷川平五郎(明大)、2位→矢沢武雄(早大)、3位→坪川武光(早大)
ジャンプ 1位→神代保男(法大)、2位→山田四郎(北大)、3位→出野久満治(早大)
32kmリレー 1位→早大(坪川武光、清水麟一、矢沢武雄、岩崎三郎)、2位→明大、3位→法大

2月7日、第9回全日本スキー選手権大会が樺太豊原で開催。しかし再び日本最北端の樺太開催であり、この年は積雪量が少なく、距離では晴天ながら零下18度の寒さと薄雪のコースが氷結、さらにジャンプでは風速15mの中でのレースとなり、選手達は多くの苦労をともなっての競技を強いられた。ちなみにこの大会で、初めて距離で50kmが採用され、18km・複合などは幼年(18歳以下)・成年・壮年(30歳以上)の3組に分かれて行われた。リレーで地元の、それも中学チームが優勝した為、会場は大いに沸いたという。

50km 1位→上石巌(高田フラタナル)、2位→田沢義雄(法大)、3位→清水麟一(早大)
18km 1位→松崎朝一(妙高)、2位→斉藤富夫(大泊中学)、3位→栗谷川平五郎(明大)
ジャンプ 幼年1位→安達五郎(小樽中学)、成年1位→牧田光武(樺太中央)
複合 幼年1位→一戸健次郎(青森)、成年1位→佐藤豊治(豊原中)
32kmリレー 1位→豊原中学(土田正雄、森口利夫、永島群一、小林義見)、2位→早大、3位→明大

全日本選手権の終了後、樺太豊原で翌年2月に行われるレークプラシッド五輪の出場選手選考が行われた。委員は稲田昌植・黒崎三市・村上敏郎・小川勝次・麻生武治・広田戸七郎・鶴見宜信・吉岡竜太郎・中川新・大野精七・横山賢市・目黒乙治郎・木原均。そこでの1次審査で10名、それ以外に10名の候補を含めて20名を選出。

3月14日、東京で選手・役員が集まり、長野県菅平へ移動、そこで10日間の合宿をおこなった。冬季五輪に向けて合宿を行うのは、これがはじめてである。この合宿の中で2次審査が行われ、選出されたスタップ・選手は次の通り。

監督→麻生武治
トレーナー→保科武雄(旧姓矢沢)
距離→岩崎三郎(早大)・上石巌(高田中卒)・栗谷川平五郎(明大)・坪川武光(早大)・谷口金蔵(大泊り中卒)
ジャンプ→高田与一(樺太庁鉄)・牧田光武(樺太庁鉄)・関口勇(北海商卒)・安達五郎(札鉄)

距離で有望株だった松崎朝一(妙高)と斉藤富夫(大泊中学)は選から漏れた。当時の五輪では18歳未満は出場資格なしという規定があったためである。とくに斉藤はわずか5ヶ月足りなかった。

尚、五輪遠征費は2万円と算出され、文部省から奨励金として当時の金額で600円、大日本体育協会からは1万円の支給を受け、残りは連盟の加盟団体からの募金で対応。
しかしこの時、当時の犬飼毅内閣が金輸出禁止政策を打ち出し、その影響で為替レートが大暴落し、資金問題が起きた。この時は日本郵船に勤務していた各務良幸が選手団の往復運賃と米大陸横断鉄道乗車運賃を大幅に「圧縮」させ、鉄道省の河上寿雄が麻生・保科・牧田・高田・安達が鉄道会社勤務であることから、アメリカ・カナダ両国で彼らにフリーパスを出す対策を取り、これにより約5千円の節約に成功した。

そして12月24日、五輪初参加となるスケート代表選手も含めた日本選手団は、横浜から氷川丸でアメリカに旅立った。
[PR]
by wataridori21 | 2009-08-19 06:32


<< レークプラシッド五輪と安達五郎... 「秩父宮殿下高松宮殿下御来道記... >>