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レークプラシッド五輪と安達五郎の8位(1932年)

昭和7年(1932年)2月4日、アメリカ・レークプラシッドにて第3回冬季五輪が開催された。

日本選手団はまず、同年1月にカナダ・バンクーバーで合宿に入ったが、ジャンプの関口勇が体調を崩し、しばらくバンクーバーで静養していたが結局回復せずに帰国。そして一同はレークプラシッド入りしたが、ここで、同じジャンプの安達五郎が練習中に転倒して負傷、ただしこれは軽傷で済んだ。
この年のレークプラシッドは雪が少なく、五輪大会の延期も検討されたが、開幕2日前に積雪があり予定通りに開催された。各競技ともに優勝候補はノルウェー選手で、総監督はあのオラフ・ヘルセット(この時は大尉に昇格)だった。

まず距離18kmで1位がウッテルストロム(スウェーデン)で1時間23分7秒、日本の栗谷川平五郎が12位で1時間31分34秒。15位が坪川武光、17位が保科武雄。

複合競技では18kmで栗谷川が3位、坪川が5位につける大健闘を見せた。メダルの期待がかかったジャンプではあったが、栗谷川は1回目で空中でバランスを崩し転倒し、2度目は成功したが20位。坪川は2度とも着地は成功したが飛距離は伸びず15位。ちなみに1位はグロッドムスブラーテン(ノルウェー)で、1位から4位までがノルウェー勢で占められた。

ジャンプでは、1位がルード弟で1回目66m、2回目69m。そして安達五郎が1回目60m、2回目66mを決め、8位を獲得。日本選手による冬季五輪の入賞者は、これが初めてである。ちなみに28位に高田与一、32位に山田勝巳。
ジャンプ競技での様子を「日本スキー発達史」の中で、麻生武治監督が手記を残している。

2月12日のジャンプの日は今回のオリンピック中第一の人手であった。町からジャンプ台までの2哩半の街道は自動車が陸続と続き、競技場のスタンドは定刻前、立錐の余地なく埋まってしまったのである。前日からの暖気はますます雪を緩ませ、アウトランには大水溜りができる始末で、水はけを造りトラックで雪を運んできてそれをまき、踏みならすため定刻の2時を過ぎる事45分、ようやく競技が開始された。

名立たる世界有数の飛手に交じって若冠安達がどこまで奮闘するかがわれわれの希望であった。参加者35名、この台のレコードが61m半だというのに、第1回から65,6mの飛距離を出すではないか、選手達はもとより、見るものもまたその雰囲気に引込められて緊張せずにはおられない。12番のベックが71m半を出した時には歓声が満場の観客の口から起って森にこだました。

安達は23のゼッケンをつけて軽く60m飛んで、安定な空中と確実な着陸には余裕さえも伺われて、第2回はアプローチが日陰になっただけにスピードが出て、ビルゲルルード69m、オイモン67m、カウフマン65m半とそれぞれ飛距離を増している中で、安達も66mを立派に飛んで8位を獲てしまった。

飛距離でも飛型でも堂々北欧のジャンパーに仲間入りしたのは、わが安達と、スイスのカウフマンで、他はがったり落ちる。これからの日本が安達ほどのジャンパーを続々育てることができれば、オリンピックの争覇もそう遠いことではあるまい。


最終日は距離50kmだったが、雪不足の為コースを25kmを2周する方法を取り、スタート時間もコース整備に時間がかかり3時間遅れとなり各国の選手達は空腹に苦しみ、落石、倒木で負傷者も続出。出場者31名のうちゴールできたのは20名のみであった。1位はサーリネン(フィンランド)4時間28分、上石巌が17位で5時間19分31秒、岩崎三郎が18位で5時間21分40秒。栗谷川・谷口は途中棄権となった。

大会終了後の3月10日、日本選手団は郵船横浜行きの竜田丸で帰国。費用の関係でレークプラシッド以外のスキー場へ立ち寄る事はなかった。
by wataridori21 | 2009-08-20 07:16


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