ホルメンコーレン大会への出場(1933年)

昭和8年(1933年)1月20日、北大スキー部長の大野精七はノルウェーで開催されるホルメンコーレン大会に出席する為、オスロに飛んだ。

ホルメンコーレン大会とは、北欧で1892年(明治25年)に創設された歴史ある大会で、この年には日本へも招待状が届いてきた。大野は栗谷川平五郎(札幌鉄道局)と宮村六郎(北大生)の2人を同伴させ、1月20日に東京を出発。敦賀港からウラジオストクに渡り、シベリア鉄道でベルリン、そして2月10日にオスロに到着した。

「日本スキー発達史」によると、当時のオスロの夕刊紙にこんな記事が出ていたという。

「ホルメンコルン大会を目指してはるばる東洋から、大野博士に引率されて二名の選手が到着した。その中の1人は栗谷川だ、彼はレークプラシッド・オリンピックの時、ノールウェー選手と一緒に練習したので顔馴染みも多い。オリンピックの18kmで、わがクリスチャン・ホフデ選手が『日本選手に負けたらスキーを食べてみせる』と豪語した。ところが彼は以外にも栗谷川選手に負けてしまった。栗谷川選手の今度の来朝は、ホルメンコルン大会の出場とともに、ホフデが約束通りスキーを食べたかどうかを見に来たのだ」

日本の2選手は距離50kmに出場、1位ウエスタッド(ノルウェー)が3時間36分25秒に対し、栗谷川が約40分遅れの74位、宮村は99位だった。
17kmでは1位がヘイキネン(フィンランド)1時間18分9秒に対し、栗谷川が1時間24分31秒の39位。
複合では宮村が出場し、17kmで1位ハーゲン(ノルウェー)が1時間9分50秒、宮村は1時間25分27秒で71位。ジャンプではクリスチャンセン(ノルウェー)が42.5、48.5m。宮村は1回目に36mを飛んだが2回目で転倒。宮村はオスロでの様子をこう話している。

「ジャンプの練習設備はどうしても地方や田舎よりオスロ市街近くの方が発達しています。郊外を歩くと至る所シャンツェだらけという感をうけます。5,6mの小さなものから50m台の大きなものまであります。そしていずれもカンテの高いのが特長で、30m以上の台はたいがい3m近く、したがって飛び出しての前半はもの凄く高い、そこで彼らは各自の技術に従って、このたくさんある大小のジャンプ台で練習する。
一足飛びに大きな台に行かず、順次に階段を経て大きな台の経験を得るようにします。わが国でもできるだけ1つのスキー場で、大小幾つかの違った台を作りたいものです。

尚、オスロ郊外には照明つきの、夜間でも使用できるシャンツェもあり、その設備は至れり尽くせりです。ある日曜日に、第二世のジャンプ大会がありましたが、ナント参加者は600名で、2組に分けて競技を行っていました。盛んなるかな第二世です」


ホルメンコーレン大会終了後、現地のヘルセット大尉とともにフィンランドに渡り、ラハティで行われた国際スキー競技会に出場。そしてストックホルム、ベルリンを経て、ロンドン発神戸行きの郵船靖国丸に乗船、4月30日に帰国の途についた。

国内では長野県飯山にて1月21日、2日間の日程で第6回全日本学生スキー選手権、そして北海道札幌にて2月10日から3日間の日程で、第11回全日本スキー選手権が開催された。
全日本選手権は第4回宮様スキー大会を兼ねて開催され、ジャンプ競技では大倉山シャンツェが使用された。この時は地元のNHK札幌が大会の模様をラジオ中継し、10日は開会式を午前8時30分から40分間、12日にはジャンプ競技を午前10時から11時58分、距離(リレー)を午後1時から4時30分まで完全中継した。大会での観客は多く、距離50kmでは零下15度の寒さの中、実に約19kmに渡ってコースサイドは応援する人見る人の列が続いたという。
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by wataridori21 | 2009-08-23 04:34


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