1936年(昭和11年)2月6日、ドイツ・ガルミッシュ・パルテンキルヘンにて、第4回冬季五輪が開催された。
日本選手団は前年12月24日に東京駅を出発し、満州国を経由しシベリア鉄道でドイツへ移動、翌1月11日にガルミッシュ入り。パルテンキルヘンで駅に到着すると、駅前では現地の大勢のドイツ市民が出迎えた。ドイツスキー連盟のレフォート会長を先頭に、音楽隊の演奏も交えての盛大な出迎えで、当時の日独の親密な関係が伺える。 この大会は中欧ドイツでの開催とあって、冬季五輪では初めてアルペン競技が行われた。種目はアルペン複合(滑降・回転)。 滑降では、日本選手団に滑降の選手はいなかったが距離の関口勇・但野寛・関戸力の3人が出場。1位はジャンプ選手のビルガー・ルード(ノルウェー)で4分47秒4、日本勢の最高は関口勇が6分48秒。続く回転競技では地元のフランツ・プフニュール(ドイツ)が1位となり滑降とで総合1位で金メダル、ルードは5位で総合4位。日本勢は全員失格。 この結果を受けて、翌年の全日本スキー選手権でアルペン競技(滑降・回転・新複合)が採用される事になる。 距離競技では、予想に反して日本選手は惨敗の連続となった。 40kmリレー 1位→フィンランド(2時間41分33秒)、11位→日本(山田銀・関戸力・山田伸・但野寛、3時間10分59秒) 18km 1位→ラルソン(スウェーデン、1時間14分38秒)、49位→山田伸(1時間31分28秒) 複合競技1位→ハーゲン(ノルウェー、18km・240点、ジャンプ190.3点)、29位→関口勇 50km 1位→ウイクルンド(スウェーデン、3時間30分11秒)、28位→但野寛(4時間10分23秒) 「日本スキー発達史」では、日本選手団に同行していた岩崎三郎の手記が残されている。 「第4回冬季オリンピックを観て私は種々考えさせられた。そして、結局、わが日本が極東の孤島であることを悲しまざるを得なかった。 4ヵ年目に見る外国のスキー界は、想像以上に進歩をとげていたのである。まずスキーであるが、フィンランド等選手の1部を除いては、全部張り合わせのスキーを履いていた。このスキーはヒッコリー材の欠点である過重を除去し、しかもヒッコリーの持つ滑りと弾力を生かしている。表と裏にヒッコリーを貼り付け、中味に樺や松を使用して軽く仕上げしてある合板スキーである。締具はほとんどがウィッツを使用し、ベルゲンダールはアメリカ選手の1部と日本選手だけだったと思う。 竹の杖だけは日本が優れていた。しかし遺憾なことにはわが選手は、その優れた両杖を十分活用していたとはいえない。北欧の選手は、杖だけでスキーを押していくがごとき感じさえ与えた。だからスキーがよく滑る。スキーを滑らせているから、歩幅を思い切って大きくすることができ、したがって、一歩一歩の滑走距離を伸ばす事ができるのだ。彼らに比較すると、わが選手は足が軽快で動きが早い、見た目には早いようだが、実際は決して早くない。両杖が効いていないのだ。 これには理由がある。日本のコースがあまりに標高差が大きすぎ、また最近は狭い谷間や藪の中を取り入れすぎている。かかるコースで訓練された選手は必然的に両腕で杖を押す事よりも、足の動く選手に仕上げられる。外国のコースはどこへ行っても50kmでさえ標高差は400m以下だから、この点は根本的に考え直さなければならない」 最終日はジャンプ競技、当日は大変な賑わいで観衆は15万人に達していたという。日本選手では伊黒正次・安達五郎・宮島巌・竜田峻次の4人が出場、特に前回レークプラシッド五輪で8位を獲得していた安達の出番が来ると観衆が大きな声援を送られた。 1回目で安達が73m、伊黒が74mと記録を伸ばしたが、宮島は63m、竜田は73mを飛びながら転倒。 2回目は竜田がレコード更新を狙って77mを飛んだが着地の際に手が雪に触れてしまい失格、成功していれば当時の五輪新記録となる大ジャンプだった。そして期待の安達は2回目で転倒してしまい総合45位。残った伊黒正次が72.5を飛び総合7位を獲得、前年の安達より順位を1つ上げる結果を残した。 1位→ビルガー・ルード(ノルウェー、75m、74m)、7位→伊黒正次(74.5、72.5) しかし結果をみれば、入賞者が出なかった事から期待はずれの感は否めず、関係者は落胆した。この結果についてジャンプトレーナーの秋野武夫は「日本スキー発達史」でこう話す。 「私たちは今までジャンプの空中姿勢を前部・中部・後部に分けて研究していました。後部というのは着陸前の準備を示す瞬間を指し、中部で美しい浮力を出していた前項姿勢を多分にもどし、着陸の為の準備に移っていました。 ところが外国の一流選手は、殆ど前半と後半の2つしかなく、着陸準備の瞬間もあるにはありますが、わが選手のようにはっきりしておりません。つまり彼らは、美しい前項姿勢を殆ど戻すようなことはせず、そのままで静かに安定した着地をし、前足に体重をかけたまま堅実な姿勢で平地に移っていきます。 わが選手は静かながら非常に強い踏切をし、前項姿勢は決して劣らぬ角度を示し、前部での空中抵抗を減少し、中部で浮力を得てよく飛行曲線を伸ばしていました。しかし、後部になると、この美しい立派な姿勢を急激に起こして後足に体重をのせ、不安定な着地をしていたのであります。 このためオリンピックでも、龍田選手のごとく新記録的な長距離をしながら転倒に終わったのはなんとしても残念な事でした。 この原因はわが国のジャンプ台が、いずれも着陸点がはなはだ楽な所にあるよう造られているからです。オリンピア・シャンツェを例に取りますと、この台は80mの着陸予想であるにもかかわらず、80m以上飛んでいます。このような台が日本には少ない為に、選手が空中で、台の最大限を飛び、または飛び越すために恐怖を感じ、急に今までの前項から体を起こすことに原因します。 さらにわが国では急斜面の練習台が多く、緩斜面の練習台で練習するだけの余裕を持ち得なかったのでした。緩斜面(20度から30度くらいまで)の着陸面を練習する利益は、着陸姿勢が堅固になる事と、多少飛びすぎる台でもあわてる事無く、その上スキーをよく揃えるようになります。急斜面では多少スキーは不揃いであっても立つことはできますが、緩斜面では着陸面の衝撃が大きいのでスキーが不揃いでは立つ事が困難になります。 したがって日本の選手にもっと緩斜面での練習をさせておくべきだった、と私自身経験と自信のなかったことを残念に思います」
by wataridori21
| 2009-08-26 07:42
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