札幌オリンピックの返上(1938年)

昭和13年(1938年)2月、冬季五輪組織委員会の大野精七副会長に率いられた伊黒正次・菊池富三・藤山嘉造・次井晨の4選手が東欧入りした。フィンランドとスイスで開催されるFIS競技大会に出場する為である。

この大会への出場の経緯は、1940年開催予定の札幌五輪で、スキー競技が除外される可能性が高まった事に始まる。
IOC(国際オリンピック委員会)が、FIS(国際スキー連盟)が「有給のスキー教師はアマチュアである」と規定している事に対して「スキー教師はアマチュアではない」との認識を示し、「FISがこの問題に対し態度を改めないなら冬季五輪からスキーを除外する」と表明。日本側とすれば、スキー競技の無い五輪は大きな問題であり、FIS側へのアピールとしてFIS主催の大会へ日本選手団を送る事にしたのである。
この選手団派遣は、藤山・次井の練習中の骨折によるアルペン競技欠場などがあったが、ガルミッシュ五輪7位の伊黒正次の出場は、各大会で大きな歓迎をもって迎えられた。その後ヘルシンキで開催されたFIS総会には大野精七・高橋次郎が出席して問題解決を呼びかけたが、事態はなかなか好転しない。

そして7月、最悪の事態を迎えた。日本政府の意向を受けた東京組織委員会・札幌実行委員会は、「第12回夏季オリンピック東京大会」と「第5回冬季オリンピック札幌大会」の中止および返上を決議した。日中戦争が悪化の一途を辿った為である。
「日本スキー発達史」では、中止決定についてこう書いている。

札幌実行委員会石黒委員長は次のような感想を述べた。

「今日本は国家の総力をあげて長期難に赴かんとするのときである。オリンピック大会の開催を中止さるるのは理の当然であり、何人といえども首肯し得るであろう。顧みれば過去1年余、札幌の準備は難航を続けたが、幸いにも、内には銃後の護りに力を尽くしつつも、世界公約の履践に務め、外には機会あるごとに諸外国に正義日本を理解せしむべく力を致し得たことは、実行委員会諸氏の熱心な協力はもちろん、東京組織委員会を初め、道民諸氏の親切な指導とによるものであって、厚く感謝の意を表したい」

時局があそこまで悪化し、窮屈も度を越して動きがとれなくなってしまったあの際であるから、私たち密接な関係者も、もう「やむを得ない処置」とあきらめざるを得なかった。

スポーツは平和を表象するものだ。一方に於いて戦争している国が、他方でオリンピックを開催するという、大きな矛盾は、世界の歴史の上からも許されるべきことではない。それに、スキー競技のない冬季オリンピックということも、私たちには有難迷惑なことだった。

ただ、1年間の札幌実行委員会の活動を観て、北海道庁は極めて積極的に動いてくれたが、札幌市はまったく冷淡であった。由来オリンピックは、開催される市の主催である。したがってこの場合札幌市の責任であるべきはずなのに、市長以下の札幌市当局はすべて非協力的であった。このことは返上そのもの以上に「悪い後味」として残った。


ちなみにこの年の選手権は、小樽にて第11回学生スキー選手権が1月21日から3日間の日程で、札幌にて第16回全日本スキー選手権が2月8日から6日間で、長野県野沢温泉にて第9回神宮スキー大会(明治神宮体育大会スキー競技会)が2月17日から20日の日程で開催。

この頃になると、どの選手権でもアルペン競技の選手層が充実してきている。しかしそれとは裏腹に、冬季五輪の返上から終戦から数年後まで、海外の選手権への出場の機会が全て無くなり、スキー競技選手達にとってはまさに「冬の時代」を迎える事になるのである。
[PR]
by wataridori21 | 2009-08-28 21:06


<< 「第1回全国スキー講習会(バッ... 第5回冬季五輪の札幌開催決定(... >>