「全国学徒スキー大会」と「国民錬成大会」(1943年)

昭和18年(1943年)、「大日本学徒体育振興会」が創設された。

大日本学徒体育振興会とは、当時の厚生省が、全国の学生・生徒のスポーツ大会の全てを主催する機関として設立した外郭団体で、これにより全日本学生スキー選手権大会は「全国学徒スキー大会」、明治神宮国民体育大会は「国民錬成大会」に名称変更した。

1月15日、北海道・小樽にて全国学徒スキー大会が3日間の日程で開催。この時は文部省の指令により、大学生だけでなく、それまで別個に開催されていた高専、中等も同時にここで行われた。種目は耐久30km・長距離18km・大回転・ジャンプ・ノルディック複合で、総合で久しぶりに早大が優勝、明大は大会5連覇を逃した。

2月4日、栃木県奥日光で国民錬成大会が全日本スキー選手権大会を兼ねて開催、運営は厚生省の外郭団体である大日本体育会スキー部会が行った。スキーの全国大会が日光で開催されたのはこれが初めてで、主催する厚生省としては東京に近い場所で開催して国民の士気を高揚させる目的があった。
しかし大会開始前から終了まで豪雪にみまわれ、会場である湯元までのバス輸送が思うようにはかどらず、湯元で宿泊した選手・関係者はともかく日光で宿泊した人々はほとんど観戦できなかった。当時の湯元は宿泊施設が少なく、関係者の大半が麓の日光で宿泊していた事も大きく影響した。大会終了後、全選手は帰りのバスが湯元まで登ってこられない為、麓まで徒歩で移動する羽目になった。

「日本スキー発達史」で小川勝次が、当時の様子を書いている。

こんな次第だったので湯元で宿泊した者以外は、ろくに競技を観る事もできなかった。いわんや日光の町に宿泊して、競技を観ようと計画した者はまったく失望してしまった。この年の奥日光の雪は大雪とのことだったが、それにしてもあまりにも輸送計画は無力に過ぎた。

もう一つ不愉快なことがあった。それは湯元の宿舎で盗難が実に多かったことである。すでに物資は全て配給制になっていたが、良い品物の配給はない。したがって古い品物ほど良いわけで、杖、スキー、それに靴下その他の衣類等が頻々と盗まれた。食堂へ行っている留守に室に置いておいたスキー靴が盗まれる始末に、一同戦々兢々たる有様で「まさに末世とは今この現象を云うのだろう」と永嘆させた。

結局厚生省が国民の士気を鼓舞しようと考えて力瘤を入れた大会も、大雪に見舞われて除雪する力がなく、さらに世相がこうまで悪化しては成功するはずがない。私は八日の朝、昨日の拭うがごとく晴れ上がった戦場原の粉雪を蹴りながら「あと味の悪い大会だった。これが日本の姿だとしたら大変な事になる」と考えながら帰路についた。


この大会で特記すべきは、後に五輪銀メダリストとなる猪谷千春が、アルペン競技の選手達と練習に参加した事である。
当時猪谷千春はまだ11歳の子供で、当時住んでいた長野県乗鞍から父・猪谷六合雄に連れられて大学選手の滑りを見学に来ていたのだが、練習中とはいえ滑降競技で他のどの選手よりも早いタイムを出した為、大会関係者・選手が一斉に驚き、大きな話題を集めた。
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by wataridori21 | 2009-09-02 07:04


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