終戦と「財団法人全日本スキー連盟」の復活(1945年)

昭和20年(1945年)は、年明けから日本各地で米軍の空襲が続いた。

1月19日、大日本体育会は傘下の各競技で優勝者に送る銀製品のカップを政府に献納した。これは日本政府が発令した銀器献納政策にしたがったもので、全体で実に120個にも及んだ。
スキー関連では朝香宮賜盃(耐久競走)、全日本スキー連盟盃4個(長距離壮年組、同少年組、複合競技少年組、ジャンプ少年組)、岸清一盃(長距離成年組)、稲田会長盃(複合成年組)、大谷光照盃(回転競技)、大谷光暢盃(女子アルペン複合)、厚生大臣盃(男子アルペン複合)があった。

さすがにこの年は、まともにスキーの大会を開く状況ではなかったが、北海道でただ1つ大会が開催されている。第16回宮様スキー大会である。「宮様スキー大会70年史」では、こう書かれている。

2月25日、札幌総合競技場で開かれた。戦技スキーのみとはいえ、「スキー大会」と名のつく催しはこれが唯一であって、道内各地から集まり、参加者は20団体、500人に及んだ。
この時のプログラムはガリ刷りで「必勝戦力増強北海道雪上錬成大会兼第16回秩父宮高松宮殿下御来道記念スキー練成大会」という長い名称と、大会の趣旨、選士(選手ではない)心得8ヵ条、それに警報発令時の処置といった注意書きが印され、長い歴史の1項を見ることが出来る。


8月15日、日本は連合国軍のポツダム宣言を受け入れ降伏。その後は食料難と治安の悪化で、まだしばらく国内は騒然とした雰囲気が続いた。
その中での11月20日、空襲を免れた岸記念体育館にスキー関係者が集まり、今後のスキー界の復興について話し合った。メンバーは伴素彦・小林辰雄・千家哲麿・宮川恒雄・竹節作太・鈴木正彦・鈴木保二・三沢竜雄・富永正信・野崎彊・奈良勉・竜田峻次・田村義輝・戸田正太郎・小川勝次。

そしてその年の暮れ、大日本体育会は「財団法人日本体育協会」に改称され、各競技のスポーツ部会はもとの独立したスポーツ団体となり、スキー部会も「財団法人全日本スキー連盟」として再出発することとなった。昭和17年4月の体育会への統合から実に約3年半が経っていた。
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by wataridori21 | 2009-09-04 07:12


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