第20回全日本学生スキー選手権大会(1947年)

昭和20年の終戦に伴い、国外にいた日本人は続々と復員してきた。

復員者の中にはスキー関係者も多数含まれており、「日本スキー発達史」でもその様子が書かれている。

応召者の復員は割合に早く行われた。特に内地勤務の者は昭和20年8月終戦と同時に行われ、外地に勤務していた者も年内一杯か、翌年頃までには帰還した。しかし樺太・朝鮮・満州にいた民間人はなかなか帰国できなかった。

昭和21年9月末に田村節郎と馬場光雄が突如満州から帰ってきた。田村君は新京吉野町に「横浜商行」という堂々たる雑貨店を経営し、スキー関係者としては成功した第一人者と考えられていた。馬場君は満州中央銀行チャムス支店長として羽振りをきかせていたが、ともに着のみ着のままの姿で家族とともに哀れな帰還姿であった。
しかし馬場君が終戦の報を聞くや、銀行の金庫を解放して何千万円という現金を全部邦人に分配した大胆にして適切な処置をとったことを聞いて、スポーツマンらしい彼の姿にひどく感心した。
満州でも朝鮮でもスキー関係者が、終戦の際にとった処置と態度は立派であり、そのうえ引揚げの際はいずれも責任者の地位を買って他の人々の面倒を見てくれた事実は嬉しい。

昭和22年1月に樺太豊原にいた上石巌が帰還した。上石君は樺太のスキー、特に距離選手を養成して、打倒北海道を実現した名コーチである。彼は案外にも元気であり、終戦の際も樺太は朝鮮や満州ほどの混乱はなかったらしい。その上帰国する荷物の中にはスキーまで持ち帰る事ができた、と語った。私は彼の元気な姿を見て喜んだ。そして「今度はジックリ内地に落ちついて日本の選手を強くしてくれるよう努力たのむ」と激励した。


昭和22年(1947年)1月17日、北海道・小樽にて第20回全日本学生スキー選手権大会が、3日間の日程で開催された。
昭和21年9月に日本体育協会が「第1回国民体育大会」を開催し、SAJ(全日本スキー連盟)は翌22年年2月に国体冬季大会・スキー競技会を第25回全日本スキー選手権を兼ねて開催する予定で準備を進めていたが、日本国内は食料・輸送事情が終戦時以上に悪くなり、翌23年に延期する事となった。その為、今回の学生選手権のみ全国区の大会となったのである。

種目は大回転・長距離・ジャンプ・ノルディック複合の4種目が行われ、大回転では明大が1位から3位まで独占、長距離でも明大・薮内勤二が1位、複合では法大・高野栄が1位、ジャンプでは地元・小樽経専の渡部竜雄が1位。

尚、地方で開催された大会は、鳥取・大山で開催された西日本選手権、札幌の第二中学校、全道工場鉱山、第18回宮様スキー大会、日光の関東選手権、野沢の北日本選手権、小樽の北海道大回転、そして冬季国体は中止となったが地方予選だけは行われ札幌・青森・秋田・長野で開催されている。
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by wataridori21 | 2009-09-06 07:10


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