第27回全日本スキー選手権大会と落合力松(1949年)

昭和24年(1949年)は暖冬の中でのスキー選手権となった。

1月、新潟県中越にて第22回全日本学生スキー選手権が開催。ノルディック競技は小千谷スキー場、アルペン競技は湯沢スキー場で行われたが、雪不足で大会運営は困難を極めた。特に小千谷では大会前夜から雨が降り、各選手も不振続き。その中で耐久の村田吉雄(日大)、薮内勤二(明大)の活躍が目立った。

3月には第27回全日本スキー選手権大会が札幌で開催。第4回国民体育大会を兼ねての開催で、当日は高松宮・三笠宮両殿下も臨席しての開幕となった。種目は距離40km・16km、ジャンプ、アルペン複合、ノルディック複合、32kmリレー。
アルペン複合では前年の覇者・猪谷千春は、手稲山からの滑降コースにしては平坦な土地柄に苦しみ24位となり、地元の水上久が優勝。距離では40kmで、地元の落合力松が2位以下を大きく引き離しての優勝。

落合力松は戦前からの名選手で、「宮様スキー70年史」では彼について特記している。

本道が生んだ名レーサーは高橋昴、岡村源太郎にはじまって数多いが、落合くらい長い歳月にわたって"常勝将軍""雪の超特急"の名をほしいままにした選手は見当たらない。

昭和13年、北商3年生の時、倶知安で行われた地区予選会で優勝したのが、常勝街道ばく進のスタートで、インタミドル3連勝、宮様大会は14年は少年組で、15年は青年組で優勝。14年は全日本選手権の少年組でも勝って、向かうところに敵はなかった。

その勝ち方がまた、ひと味もふた味も違う。中学最後の15年の宮様大会のときなどは、社会人、大学生を相手に、3分29秒をぶっちぎったほどだ。明大へ進んで学生大会で2連勝、昭和16年はじめて全日本へ挑戦(それ以前は少年組)したが、このデビュー戦、なんと2位に4分45秒もの差をつけて勝ったのだ。レース後「落合はコースを間違ったのではないか」と、大会本部が全関門員に再点検を命じたという。

戦後、スキー競技が復活すると落合の"常勝"がまた始まった。昭和21年、第17回大会から宮様5連勝、この連勝記録はいまだに破られていない。北海道選手権は長距離4連勝、耐久3連勝、全日本は23年長距離、24年耐久優勝、当時の新聞は明けても暮れても落合である。だから、昭和23年の全道工場礦山大会で、発熱を押して出場、4位に終わった時は大騒ぎとなった。

落合は美唄の我路の出身。スキーの盛んな小樽に憧れて北商へ進んだ。奥沢の下宿先からスキーで通学していたが、コースは天狗山の頂上まわりというからすごい。こうした練習によって、脈拍が常時30台という鋼鉄の"心臓"が出来上がってしまった、という。「軍隊時代も特別のはからいでスキーが出来たし、戦後は勤め先(酪農)の好意で、食べるものに恵まれたから」と、どこまでも謙虚な人柄である。

悔やまれるのは、時代に恵まれず、国際試合を経験することなく、競技生活を終えてしまったことである。


彼は引退後はSAJ(全日本スキー連盟)で活躍し、1980年から86年までSAJ理事、1984年のサラエボ五輪・日本選手団スキー部門監督。1998年に逝去。
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by wataridori21 | 2009-09-10 06:37


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