全日本スキー連盟(SAJ)のFIS復帰とオスロ五輪代表選手の選出(1951年)

昭和26年(1951年)は全日本スキー連盟(SAJ)のFIS(国際スキー連盟)への復帰の年である。

連盟にとって、FIS復帰は長年の悲願だった。これにより翌年オスロで開催される第6回冬季オリンピックへの日本選手出場が実現する事になり、この年の全日本スキー選手権は、その出場選手を決める重要な大会となった。

それに先立つ1月、青森県大鰐で第24回学生スキー選手権大会が開催。滑降は阿闍羅山の頂上から降りるコースで、降雪の少なさから転倒者が続出、法大の湯浅栄治の1人勝ち。距離では17kmで早大の関戸茂が1位。ノルディック複合では、ジャンプ競技は強風で転倒者が多く、明大の藤沢良一が1位。全体的に優勝者が他の選手に比べて突出した成績で勝利したケースが多かった。総合では1位・明大、2位・早大、3位・法大、4位・慶大、5位・日大。

2月28日、新潟県高田で第29回全日本スキー選手県大会が開催。前述の通り、冬季五輪の選考がかかった大事な大会であったが、ここで思わぬ事故が起った。ジャンプ競技が行われる3月1日の朝、「県営高田ジャンプ台」の着陸斜面が中央付近から大崩落してしまったのである。さらにその下部の沢にあった距離コースも雪解け水で溢れ帰り、ノルディック競技の全てが中止となった。暖冬に加えて前日から季節はずれの雨が大きな原因であった。この時の様子を「日本スキー発達史」で小川勝次が書いている。

六百五十万円かけて竣工した「県営高田ジャンプ台」は10年ぶりに大会を迎える高田市民の熱意によって年末に出来上がった。そして万一の場合を考えて、雪が消えて距離競争ができなくなっても、ジャンプだけは必ず決行する意気込みで十分な雪を確保していた。一方距離競争の方もコース係長高橋正雄以下の努力によって、山間の全コースに青年団や部落の人々が待機していて、雪が消えればすぐに搬入してコースを接続させる手筈を整えていたのだった。
このような手筈を整えていたところ、いよいよ大会の第1日である3月1日の朝になって、突如この大異変にぶつかったのだ。ジャンプ台の崩壊も1日の未明で、その大音響は付近の民家でも聞くことができたといい、着陸斜面は長さ50m深さ2mにもおよんで上がえぐり取られ下に押し流されていた。もちろん金谷山一帯の雪はすっかり消え失せて、スキーどころじゃない。この光景を見た選手も役員も呆然と手を措いてただ長歎するのみだった。

高田で行う書目を赤倉で開催してはどうかという説についても討議され研究された。しかし急に準備ができるはずもない。遂に高田会場での競技は一切中止のやむなきにいたった。継走には本年から天皇杯が下賜されたので「せめて継走だけでも」という希望も多かったが所詮どうする事もできなかった。スキー発祥を誇りとする高田市民はあげて、そして選手も、役員も泣いて悔しがったという。こんな支障は、大正12年選手県大会開始以来実に初めての事故である。


一方、アルペン競技は赤倉で行われたが、競技中選手達は濃霧に悩まされ、失敗する選手が続出したが、実力のある選手は無事に優勝している。壮年の部では、滑降・回転・アルペン複合ともに例年活躍を続けていた久慈定雄(北海道)が1位、富井英三(長野)が2位と綺麗に並んだ。アルペン複合・成年では、下馬評通りに猪谷千春が優勝している。

大会終了後、選手候補メンバーを選出。しかし全日本スキー選手権での事故によりノルディック競技に関しては、宮様スキー大会・学生スキー選手権大会・全日本選手権の地方大会の成績を参考に選出された。そしてアルペン複合・ノルディック複合・距離の選手は、それぞれ別々に合宿を行い、4月に冬季五輪の最終代表選考が行われ、日本選手団のメンバーは次の8人で決定した。
ちなみに選抜した当初は選手だけでも15人いたが、「敗戦日本が関係国に対する賠償もまだ取り決めていないのに、五輪に沢山の選手を派遣するとはけしからん」といった世論があり、それに日本体育協会と文部省がおされる形で8人に削減されてしまった。

監督→小川勝次
飛躍→浅木文雄、吉沢広司、川島弘三
アルペン複合→猪谷千春、水上久
ノルディック複合→藤沢良一
距離→山本謙一

その後、ジャンプの浅木文雄が病気の為に失格となり、渡部竜雄を代替選手として選出した。
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by wataridori21 | 2009-09-10 20:05


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