オスロ五輪(1952年)

昭和27年(1952年)、ノルウェーのオスロで第6回冬季五輪が開催された。

それに先立つ昭和26年12月、日本選手団のスキー競技監督・小川勝次は、田島一男を介してアメリカの保険会社AIGのコーネリアス・バンダー・スター社長と面会した。
スター社長は、自らスキー場を経営するほどのアルペンスキー愛好家で、日本選手の活躍の援助を願い出てきた。内容は、オーストリアのサンアントンに日本選手を送り、そこで十分にトレーニングをさせてからオリンピックに出場させる、というものだった。小川は、願ってもない事と快諾。そして選ばれたのはアルペン複合の猪谷千春と水上久で、12月22日に日本を出発した。
両選手は現地でさっそく練習を開始したが、持参したスキーは戦前のものでヒッコリーで製作された単材の板だったが欧州ではすべて合板であり、現地のスキー用具の性能の良さに驚き、すぐそれに取り替えた。

明けて昭和27年1月26日、日本選手団は羽田を出発し、28日にオスロに着いた。戦前は船・鉄道での移動だっただけに隔世の感がある。前回のガルミッシュ五輪参加からすでに16年が経過していた。

小川監督は現地で、日本選手を指導するスキーコーチとして、ロルフ・コルビーという青年を紹介された。コルビーはスキー用具から始まり欧州のスキー技術を細かく話した。その時の事を「日本スキー発達史」で書いている。

日本のスキーは安達が8位をとり伊黒が7位となった頃から「一番有望なのはジャンプだ」ということになっている。この考えから今回もジャンプ陣は複合の藤沢を併せると4名のフルメンバーを連れてくることができた。ところがオスロのスキーを見、コルビーから4選手の練習振りを見ての感想をきき、私は心からガッカリした。空白の間に彼らは大きく進歩し、われらは退歩したことを認めざるを得なかったのだ。

正確にして強い踏切り、悠々たる空中姿勢、スキーの上向きによる遠距離の飛行、揃っているスキー、両腕を回さない飛行、素人目にも彼等のジャンプはやわらかくて綺麗である。そしてわれらのそれは動作があまりにもあわただしくてすべてに見劣りがする。
単に用具の相違なら、進歩した用具に取り替えれば良い。せいぜい1週間も使用すれば自分のものになる。しかし技術の相違となると、オリンピックを控えての2週間や3週間で彼らに追いつくことは不可能である。困った事になった、と思った。

私の悩みは4選手の悩みでもある。そこで私はコルビーとも相談し「彼等の新しい型を見て、それを真似ても今からでは成功は至難だ。君らは日本で覚えたジャンプでオリンピックに出場せよ。但しわれわれは今幸いにも日本を代表して世界第一のスキーの都オスロに来ているのだ、勉強して彼等の技術を習得し日本へ持って帰る義務がある。したがってオリンピックが終わってからホルメンコルン大会までに、なおそれから帰国の日までもよく勉強して新しい技術を我が物としてくれ、それが何より大きな土産だ」と宣言した。


2月4日、猪谷・水上両選手がオスロ入りして日本選手団と合流。小川監督は2人がサンアントンでの1ヶ月余りですっかり「外国ずれ」して用具の近代化・技術の進歩が身についていた事に感心したという。
2月15日、冬季五輪・開会式がビスレット競技場で行われた。参加国は30カ国だったが、日本選手団が入場すると猛烈な歓声が上がった。参加国の大半が欧州国で、黄色の日本人は一際目立ち「ヤパン」の人気は高かったのである。

開会式と同日に、別の会場で大回転が始まった。1位は地元ノルウェーのステイン・エリクセンで2分25秒、日本の猪谷千春は20位で2分36秒1、水上久は26位で2分40秒1。続いて16日は滑降。1位はイタリアのツエノ・コロで2分30秒8、猪谷は2分45秒で24位、水上は4分で44位。
一見惨敗のようにも見えるが、参加者は80名であり、欧州入りから1ヶ月余りで、他国選手とほとんど遜色ない成績が取れた事は大きかった。

17日はオスロでノルディック複合。1位はノルウェーのシモン・スラトヴィック、藤沢良一はジャンプで63mを出すなどして10位に食い込んだが距離18kmが振るわず14位。参加者は28人だった。
18日には距離18kmが行われ、1位がノルウェーのハルゲア・ブレンデンで1時間1分34秒、山本謙一が1時間8分49秒で22位。「日本スキー発達史」で山本はこう話す。

「コースは雪が少ない上に凸凹が多く、それに岩あり、切り株あり、さらに林間に急カーブがあったりしていやなコースだった。全コース猛烈な声援を受け、特に意外にも日の丸の旗を振って応援してくれたノールウェーの一団があって嬉しかった。コースは終始人垣が作られていて間違うようなことはなく、コースを横切る者も伴走もまったくなかった。伴走のないことは日本も学ぶべきだ」

19日はルツクライバで回転。参加者は90人で、猪谷は20番スタートとなった。猪谷の1回目はスタートから好調な滑りを見せたがゴール直前で旗をまわり損ねてタイムロスしてしまい62秒6。2回目は63秒1。総合1位はオーストリアのオテマール・シュナイダーで2分0秒、猪谷は2分5秒7で11位。日本人が初出場で11位を記録、さらに1回目のコースアウトの際、そのまま後ろ向きでスキー逆行させる大胆な滑りをした為、ノルウェー市民の間でそれが話題となり、猪谷の名前は有名になった。

50kmと40kmリレーは日本は不参加、そして24日はジャンプ競技である。会場はホルメンコーレンで、当日は15万人もの観衆を集めた。
結果は1位がノルウェーのベルグマンで226点(67.5,68)、渡部竜雄は189点(59,59.5)で27位、藤沢良一は183.5点(57.5,55.5)で34位、吉沢広司は182.5点(59.5,56.5)で36位、川島弘三は148.1(59.5,56)で42位。参加者は44名だった。

25日、ビスレット競技場で閉会式が行われ、第6回冬季オリンピックは幕を閉じた。

五輪終了後、日本選手団はスウェーデンに移動し、国際スキー大会に出場。その後オスロに戻りホルメンコーレン大会に出場、ジャンプ競技で山本謙一が立つと大歓声が起ったという。そしてコペンハーゲンで国際ジャンプ大会にも出場し、渡部竜雄が6位の成績を挙げた。

3月21日、日本選手団は帰国。途中で猪谷・水上はアメリカに渡り、スター社長の経営するスキー場で練習し、現地で開催された全米アルペン競技選手権に出場、4月14日に帰国した。
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by wataridori21 | 2009-09-11 06:11


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