スキー用具の輸入と強化合宿と猪谷千春のアメリカ留学(1953年)

昭和27年、全日本スキー連盟では、オスロ五輪の結果を踏まえスキー用具の対策に乗り出した。

当時の日本選手に比べ、欧州の五輪代表選手のスキーは非常に性能に優れていたが、日本国内のスポーツメーカーでは対抗できる製品はおいそれとはできない。そこで連盟では、外国製のスキーの調達を考えた。「激動の昭和スポーツ史」ではこう書かれている。

戦後の物資不足、技術力も不足した時代。戦後のものを使ってはいるが、それも底をつきだし、米軍用スキーの改造が幅を利かせていた。それ以上に困ったのはメーカーが戦前のものしかできない、というより「作ろうとしない」ことだった。

スキーのフレキシビリティー(柔軟性)など全くチンプンカンプン。そこでスキー連盟の小川副会長、竹節理事長に伊黒・野崎・堀の技術委員が相談した結果、「選手の希望をとって輸入しよう」ということになった。だが当時は輸入の外貨枠は非常に貴重で1銭のプラスにもならないこの輸入をやってくれる業者がない。

小川副会長が「訳を話して頼めば美津濃(※現在のミズノ)なら…」というところから急に局面が開けた。美津濃の水野健次郎会長が当時は東京支店長だったので、業者としてではなくスキー仲間として相談したところ、
「わかりました。業者が輸入すれば卸値になるし、外貨の準備や業務一切は当方でやります。手数料はいりません、必要経費だけはください」
という願ってもない申し出に無事輸入が完了。アルペン用は中欧、距離とジャンプ用は北欧から届いた。選手が喜んだのは当然、メーカーは素材の違い・塗装技術・弾力分布の変化・接着剤の違いを含め製作技術に格段の差が生じたことを確認し、その後のスキー用品の大きな進歩のきっかけとなった。


さらに同年4月、五輪から帰ってきた日本代表選手と国内の有望な若手選手を集めて強化合宿を行った。距離は青森県八甲田山の酸ヵ湯で、複合とジャンプは長野県野沢温泉で、アルペン競技は長野県八方尾根で、それぞれ行われた。
距離では山本謙一、複合・ジャンプでは吉沢広司・渡部竜雄・藤沢良一・川島弘三、アルペンでは猪谷千春・水上久がそれぞれ合宿先で、五輪での体験談や欧州の技術を参加選手に話した。ここから次の若手選手が大勢育つことになる。

明けて昭和28年(1953年)1月、山形県米沢で第26回全日本学生スキー選手権大会が、2月には秋田県大館で第31回全日本スキー選手権大会がそれぞれ開催。

2つの大会に先立ち、全日本スキー連盟は翌1954年にスウェーデンで開催されるFIS(国際スキー連盟)主催の世界選手権大会に、日本から選手12名を派遣する事を決めた。そして全日本スキー選手権の結果を選考基準とし、最終的に次のメンバーが決まった。

監督→稲葉忠七
距離コーチ→上石巌
ジャンプコーチ→伊黒正次
アルペンコーチ→野崎彊

選手
距離→角昭吾・小西健吾
ジャンプ→吉沢広司・柴野宏明
複合→藤沢良一・石坂良治
アルペン→斉藤貢・茂原博太郎

尚、この年の大会から国内大会から猪谷千春の姿はなくなった。猪谷は五輪終了後に立教大学に進学したが、オスロ五輪1ヶ月前から欧州で練習できる環境を提供した保険会社AIUのスター社長の計らいで、アメリカの留学し、ダートマス大学に入学する事になったのである。この留学が、彼のその後の運命を大きく変える事になった。
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by wataridori21 | 2009-09-11 18:39


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