ノルディックスキー世界選手権とアルペンスキー世界選手権への初出場(1954年)

昭和29年(1954年)2月、スウェーデンにて第20回ノルディックスキー世界選手権と第14回アルペンスキー世界選手権が開催された。

この2つの大会ともFIS(国際スキー連盟)主催で行われ、この先1985年まで西暦で偶数年に開催され、冬季オリンピックの開催年は五輪と世界選手権は合同で開催された。世界選手権単体としては、この年が日本人選手が初めて出場した大会である。

まず2月13日にファルンにてノルディックスキー世界選手権が開幕。この大会の参加国は21カ国、選手・役員合わせて409人の賛カとなったが、東洋人の参加は珍しく、各競技ともに日本人が出場すると「ハイヤー・ヤパン」と大きな歓声が響いた。運営は殆どスウェーデンの軍隊が管理し、会場の整理・記録発表までも行っていた。

14日、午前は距離30km、午後はジャンプ競技が行われたが日本選手は惨敗を繰り返し、2年前のオスロ五輪同様の力の差を感じさせた。ジャンプ競技での惨敗について「日本スキー発達史」ではこう書いている。

吉沢は練習中常に飛距離では一流であり、着陸の確実な点でも一流であったが、この日は踏み損なって46位という惨敗振りを喫した。
FISのジャンプ部長ジグムンドルード氏は「どうして日本は弱くなったか」と不思議がっているが、伊黒、安達時代の立派なジャンプを記憶している彼等には無理もないことだ。しかし今度のFIS大会に出場して、近い将来、必ず日本のジャンプも世界の一流に到達することができる、という自信を得たことは大きな収穫だ。

稲葉監督は「最も必要なことは基礎訓練を十分積む事である。それには猛烈な練習に耐える頑健な体を、四季を通じて養う必要がある。ちょっと練習してすぐ疲れたり、怪我するようではいつまでたっても追いつけない」と感想を述べている。


16日の複合、17日の距離15km、21日の距離50kmも日本勢は惨敗の連続でこの大会を終えた。

27日からはオーレにてアルペンスキー世界選手権が開幕。参加23カ国、選手・役員合わせて260人での開催だった。28日は回転、3月3日に大回転、最終日の7日に滑降。同種目は女子部門もあったが、当然ながら日本勢は参加していない。

アルペンコーチの野崎彊は大会後の感想として、「日本スキー発達史」でこう話している。

「日本のスキーの立地条件を考えたり、身体的の問題を考えると滑降・大回転の2種目はどうしても目下の日本には不適当な種目と断ぜざるを得ない。そうなるとスラロームしか残らない。回転は滑降に比べてそれほど継続したスピードを必要としない。その上滑降に比べると技術的だ。さらに滑降方向を変えて、限られた幅の中に入る事を要求される。軽くて小さな日本人の体はこの競技では不利にならない。逆に有利な条件になる。
以上の理由で、現在のところ日本は回転第一主義を取らざるを得ない。

しからば日本は如何にして、世界一流のスラローマーを獲得するか、一言でいえば、高速力に馴れるのが最初にして最後の方法であり、スピードを獲得する以外に何物もない、と断言することができる。
最初にターンを一生懸命練習して非常に巧くなり、このターンを武器としてスラロームに入り、次の段階で高速力を獲得するやり方が、順序を追った練習法としては正しいものだろう。

しかし今の日本ではもっとせっかちな方法を採りたい。それはまず高速力を選手に強制し、強引にターンに入れるやり方である。無理矢理に速いスピードとターンの関連性を覚え込ませるのだ。強引をきわめた近道のやり方だ。失敗するかもしれない。しかしこの方法を採りたい。とにかく日本人はスピードを完全に欠いているからだ」


大会終了後、日本選手団は2班に分かれ、稲葉監督・野崎コーチ・斉藤・茂原は3月12日、上石・伊黒コーチ・藤沢・石坂・吉沢・柴野・小西・角は16日に帰国した。
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by wataridori21 | 2009-09-11 19:39


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