昭和31年(1956年)2月、イタリアのコルティナダンペッツォにて第7回冬季オリンピックが開催された。
日本選手団は1月9日、羽田空港からイタリアへ飛び、現地でアメリカから移動してきた猪谷千春と合流し、16日より練習を開始。そして1月26日、コルチナのアイススタジアムで冬季五輪は開幕した。参加国は32カ国、選手・役員は1400人が参加した。 27日、まずは距離30kmで、1位はベイコ・ハクリーネン(フィンランド)で1時間44分6秒、宮尾辰男は11時間55分40秒で28位。さらに宮尾は2種目にも出場し15kmで48位、50kmでは25位となった。 複合では佐藤耕一と吉沢広司が出場したが、吉沢はジャンプで5位と好成績だったが距離は棄権、佐藤はジャンプで23位、距離では参加者36人中の33位。佐藤はこの大会が海外遠征への初出場だった。 これまで海外遠征に参加していた選手はともかく、初めて参加した選手はなかなか現地に適用することが難しい。「日本スキー発達史」ではこう書かれている。 はじめて外国に出かけ、幾日かの後には晴れの大会に日本代表として出場するための練習をあちらの雪の上で行っても、一週間や二週間では条件が整ってこないのが普通だ。生活がガラリと変わり、相手も日本人ではない。言葉もうまく通じないし、スキー場の規模も大きくて凄い。それに滑っている外人は全て自分より巧いような錯覚にとらわれる。 はじめての日本選手は、まず最初の一週間は無我夢中ですごしてしまう。気がついた頃には神経衰弱に陥っていて、自分の技術と体力にひどく不安を感じて「こんな調子でオリンピックに出場できるだろうか」という焦躁に陥る。こうした症状にはまれに、初めての外征でも陥らない選手もいるが、大小の差はあっても、たいていの選手に見られる弱さだという事ができる。 もちろんこのような症状は2度目・3度目となると慣れから来る神経が太くなって平気になってくる。今度のコルチナ・オリンピックでも佐藤と杉山がこれで参り、初めての外国生活ではあったが宮尾は案外にも平気だった。杉山もいざ競技が開催されると次第に自信がでてきて、劣等感をなくして好調を示してきたが、佐藤は終始沈滞の域を脱することができなかった。吉沢は3度目だから実力を発揮する事ができ、猪谷にいたってはなんの不安もないばかりか、かえって敵を呑んでいた。 私たちは今更ながら、事前に外国のスキー場で彼らに交じって練習し、競技も体験しておく必要をしみじみ痛感した。これからもおそらく永久に、日本でどんな図抜けた強い選手が出ても、いきなりオリンピックに出場して優勝する、というようなことはあり得ないことだと思う。 アルペン競技は29日は大回転、31日は回転、2月3日は滑降。日本からは猪谷千春・杉山進がいずれも出場した。 この大会での日本勢のハイライトは31日の回転競技である。当日の模様を「日本スキー発達史」の中で野崎監督が手記を残している。 『スラロームの2回目、スタートの地点で猪谷に握り飯をたべさせながら、標高差250m、長さ600mにあまるコースを見下した。92双旗という数において記録的な旗が薄い霧の中にすいて見える。寒気はきびしい。猪谷の肩をもみながら二人でこう話したものである。 「1回目の6位は大成功だ。今度の旗は数が多いので(1回目は78双旗)日本人向きである。ここで一挙にスパートし、のるかそるかの勝負をしよう」私がそう言うと、彼も「2、3人は抜けそうです」と答える。大げさにいえば、私は日本のスキーの運命を彼の2回目のスラロームにかけたわけだ。 1回目に勝っていたスイスのジョージ・シュナイダー、次いでオースタリーのリーダーが次々と40度近い急斜面の底に吸い込まれていく。「スタートの合図を英語でする」という出発合図員の言葉にコックリした猪谷の顔が、どうも沈痛に見えて自分もいささかせつない気がした。スタート、激しいスピードに乗っていく。 ターンに移る瞬間、猪谷の身体が立ち上がった。6番目の旗門である。見る間にその旗の一本を股にはさんでしまった。「片足反則」そう思った。ところが彼は足を180度に開いてその苦境を逃れようとしている。そしてそのまま倒れずにアクロバットのように滑っていく。反則か、それとも反則にならないか。これは審判員の判定に待つより方法はない。猪谷は観衆のどよめきにつつまれながら、強引に狂ったようにスパートしていくではないか。ゴールイン――発表されたタイムは1分48秒5、これまでのベストタイムだ。 ちょうどスタート地点に登っていった杉山の顔を見ると、ものをいいたげである。彼も反則は否かを決しかねているようだ。トニー・ザイラーは15番目に滑った。まことに巧いスキーだった。1、2回とも最優秀タイムを出し優勝を決めた。問題を2位である。反則がなければ猪谷、反則と認定されればゾランダーとなる。ここに至って私は局面を悲観的に考えてしまった。反則とされ、5秒加算されることにより5位に下がるだろうと思ったトタン半ベソをかいた。しかしまた思い直して「反則でない」と自分によくいいきかせ、杉山をスタートさせて決勝点に下がった。 ホテルに帰っても落ち着かない。成績公式発表は午後6時である。花束が来る。お祝いの使いが来る、テンヤワンヤだが、なんとしても落ち着かない。勇を決してスキーの事務所をのぞきに行く。アルペン競技委員長オット・メナルデ氏にうまく会うことができた。 誰かがニヤッと笑った。何も言わないうちに「反則はない」という。2位が決まった。 午後9時からの表彰式を終わって、折柄の寒風に翻る日の丸を仰ぎながら猪谷とともに退場するとき、彼はポツリ「日の丸はいいですね」といった。アイススタジアムの薄暗がりの中で、改めて2人で顔を見合わせ、2人とも大きなタメ息をついた』 回転の結果は、1位はトニーザイラー(オーストリア)で3分14秒7(1回目1分27秒3、2回目1分47秒4)、2位は猪谷千春で3分18秒7(1回目1分30秒2、2回目1分48秒5)。トニーザイラーは他の競技でも強さを発揮し、大回転・回転・滑降の3種目で優勝、「三冠王」を達成している。 最終日の2月5日、ジャンプ競技が行われ、日本から吉沢・佐藤が出場。吉沢は13位と健闘したが、佐藤は異国での気疲れと体調不良も重なり参加53人中の39位に終わった。優勝はフィンランドのヒバリーネンが獲得した。 大会終了後、猪谷は学業のため帰米、日本選手団はドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンにて開催のジャンプ大会に出場する為ドイツに移動するが強風で中止、久慈コーチと吉沢・佐藤・宮尾の4人はオスロに移動してホルメンコーレン大会に出場、そして再び全員がローマでおちあい、レバノンへ移動して現地のスキー場を視察し、3月に帰国した。
by wataridori21
| 2009-09-12 07:38
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