「第1回諏訪湖1周スケート大会」(1909年)

明治39年(1906年)、長野県下諏訪町の飾り職人河西準乃助が、下駄の底に鉄製の刃をつけた「カネヤマ式下駄スケート」を発明。この下駄スケートは、諏訪湖に来たスケート愛好家の間で急速に広まり、次第にスケートが競技スポーツへと発展していくきっかけとなった。

明治42年(1909年)2月14日、長野県諏訪湖にて、「第1回諏訪湖1周スケート大会」が開催された。

明治38年の中央線開通以来、幾つかのスケート大会が行われてきたが、それらは地元の小中学校生徒によるものが多く、大人対象の大会もあったが実際には運動会の延長のものばかりだった。そこに地元上諏訪町の南信日日新聞社が主催となって行われたのである。
開催されたいきさつは南信日日新聞社の宣伝の為であったが、諏訪湖1周、湖周15.9kmのレースとあって当日は大変な賑わいとなった。ちなみに1位は小口卓襄(下諏訪)、2位は山岡文八(小田井)、3位は林福一(岡谷)。「日本スケート史」(日本スケート史刊行会)に当時の様子が書かれている。

当日下諏訪永滑場には増沢仙之助氏、吉沢永左衛門氏、両係員を初めとし小口町長、植松助役、宮坂豊夫、小口徳一郎、土橋恭一郎、清水市造、午山恭平、鱒沢多能志、溝口尚道、森山平松、小学校教員等出場紅白の幔獏万国旗にて会場を装飾し少年音楽隊を招いて、選手の来着を待ち其の間に下諏訪氷滑会の小運動会を催したり、期して選手の来着をいまやおそしと松時予備選手4,5名通路偵察のため入り来るや、それ来たと待ちかまえたる写真師が、早々之を撮影したるは一愛嬌なりしこれより第1着通過するや、煙火を打ち上げて之を報じ尚其光景を撮影し選手通過の都度楽隊を奏し、万歳を唱えて選手を鼓舞し予定の如く一々通過券を交付したり。
赤十字旗を樹てたる救護所には医師、溝口織衛氏、救護薬を携えて選手の万一に備えたるが、幸いに1人も救護を要する者なかりき、選手全部通過後は数百名の見物全部上諏訪に押しかけたり。


「諏訪湖1周スケート大会」はその後も数年間続いたが、一般大衆が、速さを争うスピードスケートから、曲線を描くフィギュアスケートに履き替えるなどのケースが続出して人気は低迷。大正5年で大会の幕は閉じられた。
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by wataridori21 | 2009-09-16 21:04


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