フィギュアスケートの始まりとジャクソン・ヘインズ(17世紀~19世紀)

さて、この記事から日本フィギュアスケートの歴史を書く。

まず日本国内の話に先立ち、海外のスケート史、世界フィギュアスケート選手権が設立するまでの歴史から話を始める。

フィギュアスケートの原型は、中世の時代オランダの貴族階級の間で広まったもので、農民階級の速さを競うスピード系に対し、両腕を組み優雅に滑る姿は多くの貴族の人気を呼んだ。

このスケート術はその後イギリスに渡り、1772年に英国の砲兵士官ロバート・ジョーンズが著書「スケーティング論(A Tratise on Skating)」で詳しく説明した。内容は①アウト・イン両方のエッジで描くサークル②ハート形③フォア・アウトのエイト④スパイラル⑤スプレット・イーグル⑥バックのサーペンスタイン。


さらに19世紀に入るとスケートによる片足滑走が流行し、「スペシャル・フィギュア」なるものが盛んになった。「スペシャル・フィギュア」とは、それまでも流行っていたスケートで2つ3つのサークルを描く単純なものだけでなく、花模様や紋章を描くより趣向を凝らしたもので、1882年にオーストリア・ウィーンで世界初のスペシャル・フィギュアを取り入れた国際競技会が開催された。ここでは23の規定図形と4分のフリー競技が行われた。
この大会で特記すべきは、フリー競技で3位になったノルウェーのアクセル・パウルゼンである。彼こそ「アクセル・ジャンプ」の生みの親で、このフリー競技でスペシャル・フィギュアの代わりに、1回転半のアクセル・ジャンプを披露し、観客をあっと驚かせた。


一方アメリカでは、一般に全鋼鉄製のスケート靴が売り出された。フィラデルフィア・クラブのE・Wブッシュネルが開発したもので、このブレードはターンやツイストを行うのに適しており、この靴の登場によりフィギュアスケート技術が飛躍的に向上した。

この靴を使って活躍したのが「近代フィギュアの父」と称えられたジャクソン・ヘインズである。
彼はイギリス人の父とオランダ人の母のもとで生まれ、幼少の頃からダンサー志望で10歳で欧州に渡り修行を重ね、帰国後は劇場でダンサーをしながらダンスの講師をしていた。
しかし当時アメリカでは南北戦争の影響から不景気が続き、結局アメリカを離れ欧州に渡り、オーストリア・ウィーンの劇場を探した。ところがウィーンではスケートが大流行しており、ヘインズはここに活路を見出した。彼は音楽の盛んなウィーンの地で、音楽伴走をつけたスケートのショーを開いたら繁盛するのではないか?と考えたのである。

さっそくヘインズは、スケートにバレエ・社交ダンスで用いられるステップ・ツイスト・スパイラルを採り入れ、自ら振り付けを行った。この時彼は、独自にシットスピン・キャメルスピンも考案している。
そして彼は1863年、ウィーンをはじめ、ストックホルム・プラハ・ペテルブルグ(現サンクトペテルブルグ)と各地を巡業して歩いた。彼の氷上で踊るマズルカ、ワルツ、マーチ、カドリールは、行く先々で多くの観客を魅了した。

その合間の1864年、アメリカ・ピッツバーグで全米フィギュアスケート選手権大会開催要項が策定され、同年に第1回が開催。そこにヘインズも出場したところ優勝。翌年の第2回大会でも2連覇と大活躍。しかし彼のスケーティングはダンスをふんだんに取り入れた優雅なもので、優勝したにもかかわらずアメリカ国内では酷評された。不当な評価を受けたヘインズは失望し、アメリカを離れ、ウィーンを本拠地に定めた。
彼の興行は欧州各地で評判を呼んだが1875年、ペテルスブルグからストックホルムへの移動途中に風邪をこじらせ、ソリの上で亡くなった。彼はフィンランドのマラカルレイに埋葬され、墓碑には「アメリカ人のスケート王」と文字が刻まれている。

彼の弟子であったカナダ人のルイス・ルビンスタインは、帰国後にヘインズ流のスケートを広め、1878年にカナダ・アマチュアスケート連盟を創立。さらに1890年にはペテルスブルグで開催された「非公式世界選手権」に出場し優勝している。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-27 11:50


<< ブログ休止のお知らせ 「第5回諏訪湖1周スケート大会... >>