コンサドーレ札幌(旧・東芝サッカー部)

1.東芝サッカー部時代

コンサドーレ札幌の前身は東芝サッカー部である。
1935年、大手電気メーカーの東芝が神奈川県川崎市に「東芝堀川町サッカー部」として創部したのが始まりで、戦後は関東の地域リーグの強豪として活躍してきた。
1977年、全国社会人サッカー選手権大会で優勝しJSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格、79年には早くも2部で優勝し、チーム名も「東芝サッカー部」に改称した。

その後は1982年に準優勝し、88/89年シーズンに2部で2度目の優勝、念願の1部昇格を決めた。1992年JSL閉幕後は、同年開幕したJFL(ジャパンフットボールリーグ)1部に参加。
数年間JFLで活躍していたところに1995年、Jリーグチーム設立を熱望していた札幌市がチームの札幌への誘致を申し入れてきた。東芝サッカー部はこれを受託、札幌移転が決まった。

さっそく札幌市は1996年のJFL開幕前にサッカーチーム運営会社・北海道フットボールクラブ株式会社を設立、東芝サッカー部がこの傘下に入り、チーム名も「コンサドーレ札幌」に改名した。
1996年はJFL5位だったが、97年はウーゴ・フェルナンデス監督が就任し、26勝4敗と圧倒的な強さで優勝、Jリーグ参入が決定した。

2.Jリーグ時代(1998~2000年シーズン)

1998年、Jリーグ参入1年目から大きな試練が訪れた。
前年に続きウーゴ・フェルナンデス監督が指揮を執り、フォーメーションは3-5-2。バルデス・吉原宏太の2トップ、トップ下にマラドーナ、左サイドに村田達哉、右サイドに田渕龍二、ボランチにバウテル・村主博正、3バックに渡辺卓・古川毅・木山隆之、GKにディド。
しかし蓋を開ければ14勝20敗で総合14位となり、翌年のJ1・J2を振り分けるJ1参入決定戦で敗れ、J2降格が決まってしまった。

1999年シーズンは岡田武史監督が就任して出直しスタート。しかし17勝6分け13敗で5位となりJ1昇格とはならなかった。

そしてこの頃には、チーム運営会社の累積赤字が抜き差しならない状態となっていた。これはJFL時代に1996年チーム札幌移転して以来、有力なメインスポンサーが不在のままだった事と、度重なる無謀なまでの選手の大型補強が原因だった。
この為、2000年には大幅な緊縮経営にシフトチェンジを計った。FWエメルソン、FW播戸竜二らを筆頭に、数多くのレンタル移籍選手でチーム戦力を固めたのである。その為31勝5分け4敗という驚異的な成績で優勝を飾ったのである。

3.Jリーグ時代(2001年~2006年シーズン)

2001年シーズンは9勝8分け13位で総合11位。このときのフィーメーションは3-5-2。
ウィル・播戸竜二の2トップ、トップ下に山瀬功治、左サイドにアダウト、右サイドに森下仁志、ボランチに野々村芳和・ビジュ、3バックに大森健作・名塚善寛・森秀昭、GKに佐藤洋平。

しかし主力の多くがレンタル選手である為、期限切れになると元の所属チームに復帰していくケースが続出、引き止めの努力で何人かは残留したが、戦力低下は避けられず、その上にレギュラー選手の故障者続出もあり次第にチーム戦力は低下した。
更に一部の選手や幹部の不祥事からファン離れが起こり観客動員数が減少、それによる累積赤字の増大がチーム運営を圧迫させていく悪循環も重なった。

2002年シーズンは柱谷哲二監督で臨んだが開幕から黒星を重ねたため途中解任、5勝1分け24敗でJ2に降格が決まってしまった。

出直しの2003年シーズンから06年まで、その後のチーム成績は振るわず、

2003年→11勝11分け22敗で9位、
2004年→5勝15分け24敗で12位、
2005年→17勝12分け15敗で6位、
2006年→20勝12分け16敗で6位、

04年以降は柳下正明監督が指揮を執り、徹底した人件費削減とユース出身を含めた若手育成を進めた。慢性的な赤字経営を脱却する為であり、3年間で経営状態は大幅に改善された。
2006年当時のフォーメーションは3-5-2。フッキ・石井謙伍の2トップ、トップ下に砂川誠、左サイドに西谷正也、右サイドに芳賀博信、ボランチに鈴木智樹・大塚真司、3バックに西嶋弘之・曽田雄志・加賀健一、GKに林卓人。

07年は再び数多くの補強策を行い、5年ぶりのJ1復帰を狙っているのが現状である。
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by wataridori21 | 2007-07-28 21:20


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