メルボルンオリンピック(1956年)

1956年11月にオーストラリアで開催されたメルボルンオリンピックは、当時の暗い世情が大きく影響を与えた大会たっだ。

五輪開幕前の1956年10月、イスラエルがエジプトに仕掛けた第2次中東戦争(いわゆるスエズ動乱)が勃発。この戦争は、当時のエジプト政府がスエズ運河の国有化を計画、それに対しそれまでこの運河で長年利権を持っていたイギリス・フランス両政府が、利権の死守を目的に、先に第1次中東戦争を起こしていたイスラエルを利用して起こした戦争であった(当時はまだ世界大戦の名残で、西ヨーロッパの国々が、国益の名の下に戦争に走る事は珍しくなかった)。

更に同じ10月、今度はハンガリーで、当時の経済政策の失敗により不況の只中にいた民衆が政府への不満から首都ブダペストで大規模なデモを行った。そこにワルシャワ条約機構で同盟関係にあったソ連軍がハンガリーに侵攻して武力制圧を行い多数の死傷者を出した、いわゆるハンガリー動乱が起こった。

この2件の戦争・動乱により、初の南半球でのオリンピック開催であったメルボルン五輪は大きな影響を受けた。

スエズ動乱に対してエジプト、レバノン、イラクが、ハンガリー動乱に大してスペイン、オランダ、スイスが、それぞれ不参加を表明。更に台湾(中華民国)の参加に対する中国(中華人民共和国)の不参加。

大会が始まると、競技でも影響が現れた。水球では、皮肉なことにハンガリーとソ連が対戦する事となり、試合は前回大会で金メダルを獲得していたハンガリーが4-0で圧勝していたが、競技中に両チーム選手同士の殴り合いとなり怪我人が続出、試合終了後には観客による乱闘騒ぎに発展、警官隊の突入で事態を収める後味の悪いものとなった(後に「メルボルンの流血戦」と呼ばれ、大会後にハンガリー選手団による西ヨーロッパ諸国への集団亡命も起きた)。

このような世情の中、サッカー日本代表チームは1936年以来20年ぶりのオリンピック出場を決め、オーストラリアに乗り込んだのである。

日本代表は豪州入りの前の10月25日に東京・後楽園競輪場にて、五輪出場前に来日してきたアメリカ代表チームと対戦して3-5で敗退、豪州入りした11月17日には地元クラブチーム・ハコアクラブと対戦して3-0で勝利、そして五輪代表のユーゴスラビア代表とも対戦したが2-7で大敗。

そして五輪本戦を迎えた。
監督は竹腰重丸が務め、GKに下村幸男・古川好男、FBに平木隆三・高森泰男、HBに高林隆・三村恪一・佐藤弘明・大村和市郎・小沢通宏、FW鴇田正憲・小林忠生・長沼健・岩淵功・八重樫茂生・内野正雄・北口晃。
メンバーの内の9人が実業団チームからの選出となっており、この頃になると、主力が学生から社会人選手に移行しつつあった。この事からも、日本の世情が、戦争後の混乱期から高度成長時代に移り変わりつつあることを感じさせる。

本戦は11月27日、一回戦の相手は地元オーストラリアだった。しかし試合の数日前、FW長沼健が腹痛で入院しこの試合に出場出来なかった。得点能力の高い長沼が不在とあって試合は劣勢となり、0-2で敗退となってしまった。
優勝したのはソ連、準優勝はユーゴスラビア。当時のオリンピックでは東欧諸国はあらゆる競技で強さを発揮していた。

ちなみにこの大会では、第二次大戦後に分裂して誕生していた西ドイツ・東ドイツが連合チームで参加している。この連合チームは1968年のメキシコ五輪まで続いた。
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by wataridori21 | 2007-11-20 20:13


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