二宮寛(元日本代表監督・選手、欧州三菱自動車社長)

1976年から78年までサッカー日本代表監督を務めたのは二宮寛。

彼は兵庫県出身で慶應義塾大学在学の頃から日本代表チームのメンバーに抜擢するなど、早くから将来を嘱望された選手。

1959年の第3回ムルデカ大会では、シンガポール戦でハットトリックを達成するなど、この年は9試合に出場して9得点。
1960年、実業団チームの三菱重工業サッカー部に入部。

1967年、JSL(日本サッカーリーグ)3年目を迎えた三菱重工の監督に就任(同時に森健兒がコーチに就任)。
この時に彼はチームの改革に着手した。それまで同チームは専用グラウンドを持っていなかったが、三菱重工川崎工場内に照明設備付きの専用グランドを新たに建設し、選手全員を同社総務部に転属させ、社業が終わるとすぐに練習が出来るように環境を整えた。これにより日本リーグや天皇杯での、その後のチーム成績は大幅に向上した。

1969年、杉山隆一・森孝慈・落合弘らを擁した布陣で、前年まで日本リーグ4連覇を続けていた東洋工業を退けて初優勝を飾る。

1970年代に入ると一時西ドイツに留学して1FCケルンのバイスバイラー監督に師事し、カウンターアタックの戦法を学び、それを三菱重工の試合運びに応用していった。

1971年、天皇杯で初優勝。
1973年、三菱重工は天皇杯・日本リーグの2冠を達成。
1975年、三菱重工監督を退任。

1976年、当時低迷の一途を辿っていた日本代表チームの監督に就任。彼は就任直後からチーム改革を積極的に進めた。それまでチームの合宿が旅館を利用していたところをホテルに切り替えたり、数多くの選手達の待遇改善を熱心に行った。
更に大幅な若手切り替えを断行し、その中から永井良和、奥寺康彦、金田喜稔らが台頭していった。
その成果が早速あらわれ、同年に開催された第20回ムルデカ大会では、奥寺康彦・釜本邦茂の活躍もあり、見事に準優勝を飾った。

しかし1977年、釜本の代表チームからの引退、10月には期待の若手FW奥寺が西ドイツの1FCケルン(皮肉な事に同チームの監督は二宮自身が師事していたバイスバイラーだった)への移籍が決まってしまい、慢性的な得点力不足に陥った。

1978年7月のムルデカ大会、12月のアジア競技大会で惨敗。
1979年3月、代表監督を辞任。

その後、古巣三菱重工の親会社の系列である三菱自動車に移籍し、やり手のビジネスマンとして活躍、そして何と、欧州三菱自動車・代表取締役にまで昇り詰めた。

2000年に三菱を定年退職し、その後は、自身が起業したコーヒーショップを経営しているという。

三菱自動車での活躍からして、もしサッカー界に留まっていたら、どのような活躍をしていたか想像すると、とても惜しい人材であった。
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by wataridori21 | 2007-12-24 17:59


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