カテゴリ:未分類( 479 )

ブログ休止のお知らせ

管理人・渡り鳥です。

最近仕事で多忙を極め、ブログ更新がままならない状態となりました。そこでしばらく休止することとします。

スケート関連の歴史は興味深く、何とかして書いておきたいと思いましたが、時間的に余裕が全く無くなりとても残念です。

再開は未定ですが、もしかしたら来年半ばまでずれ込む可能性もあります。再開した際は、またよろしくお願いします。

管理人・渡り鳥
[PR]
by wataridori21 | 2009-10-11 00:13

フィギュアスケートの始まりとジャクソン・ヘインズ(17世紀~19世紀)

さて、この記事から日本フィギュアスケートの歴史を書く。

まず日本国内の話に先立ち、海外のスケート史、世界フィギュアスケート選手権が設立するまでの歴史から話を始める。

フィギュアスケートの原型は、中世の時代オランダの貴族階級の間で広まったもので、農民階級の速さを競うスピード系に対し、両腕を組み優雅に滑る姿は多くの貴族の人気を呼んだ。

このスケート術はその後イギリスに渡り、1772年に英国の砲兵士官ロバート・ジョーンズが著書「スケーティング論(A Tratise on Skating)」で詳しく説明した。内容は①アウト・イン両方のエッジで描くサークル②ハート形③フォア・アウトのエイト④スパイラル⑤スプレット・イーグル⑥バックのサーペンスタイン。


さらに19世紀に入るとスケートによる片足滑走が流行し、「スペシャル・フィギュア」なるものが盛んになった。「スペシャル・フィギュア」とは、それまでも流行っていたスケートで2つ3つのサークルを描く単純なものだけでなく、花模様や紋章を描くより趣向を凝らしたもので、1882年にオーストリア・ウィーンで世界初のスペシャル・フィギュアを取り入れた国際競技会が開催された。ここでは23の規定図形と4分のフリー競技が行われた。
この大会で特記すべきは、フリー競技で3位になったノルウェーのアクセル・パウルゼンである。彼こそ「アクセル・ジャンプ」の生みの親で、このフリー競技でスペシャル・フィギュアの代わりに、1回転半のアクセル・ジャンプを披露し、観客をあっと驚かせた。


一方アメリカでは、一般に全鋼鉄製のスケート靴が売り出された。フィラデルフィア・クラブのE・Wブッシュネルが開発したもので、このブレードはターンやツイストを行うのに適しており、この靴の登場によりフィギュアスケート技術が飛躍的に向上した。

この靴を使って活躍したのが「近代フィギュアの父」と称えられたジャクソン・ヘインズである。
彼はイギリス人の父とオランダ人の母のもとで生まれ、幼少の頃からダンサー志望で10歳で欧州に渡り修行を重ね、帰国後は劇場でダンサーをしながらダンスの講師をしていた。
しかし当時アメリカでは南北戦争の影響から不景気が続き、結局アメリカを離れ欧州に渡り、オーストリア・ウィーンの劇場を探した。ところがウィーンではスケートが大流行しており、ヘインズはここに活路を見出した。彼は音楽の盛んなウィーンの地で、音楽伴走をつけたスケートのショーを開いたら繁盛するのではないか?と考えたのである。

さっそくヘインズは、スケートにバレエ・社交ダンスで用いられるステップ・ツイスト・スパイラルを採り入れ、自ら振り付けを行った。この時彼は、独自にシットスピン・キャメルスピンも考案している。
そして彼は1863年、ウィーンをはじめ、ストックホルム・プラハ・ペテルブルグ(現サンクトペテルブルグ)と各地を巡業して歩いた。彼の氷上で踊るマズルカ、ワルツ、マーチ、カドリールは、行く先々で多くの観客を魅了した。

その合間の1864年、アメリカ・ピッツバーグで全米フィギュアスケート選手権大会開催要項が策定され、同年に第1回が開催。そこにヘインズも出場したところ優勝。翌年の第2回大会でも2連覇と大活躍。しかし彼のスケーティングはダンスをふんだんに取り入れた優雅なもので、優勝したにもかかわらずアメリカ国内では酷評された。不当な評価を受けたヘインズは失望し、アメリカを離れ、ウィーンを本拠地に定めた。
彼の興行は欧州各地で評判を呼んだが1875年、ペテルスブルグからストックホルムへの移動途中に風邪をこじらせ、ソリの上で亡くなった。彼はフィンランドのマラカルレイに埋葬され、墓碑には「アメリカ人のスケート王」と文字が刻まれている。

彼の弟子であったカナダ人のルイス・ルビンスタインは、帰国後にヘインズ流のスケートを広め、1878年にカナダ・アマチュアスケート連盟を創立。さらに1890年にはペテルスブルグで開催された「非公式世界選手権」に出場し優勝している。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-27 11:50

「第5回諏訪湖1周スケート大会」と「諏訪湖スケート会」の設立(1913年~1915年)

大正2年(1913年)2月、第5回諏訪湖1周スケート大会が開催された。

この大会も5回目ともなると全国的に知名度が上がり、エントリーした選手は200人を超え、関東地区からは「京浜氷滑観覧団体」なるスケート観覧を目的とした観光団体まで訪れる一大イベントに発達。大会当日朝の中央本線上諏訪駅は選手・観客で溢れた。
順位は、1位・井上繁雄(48分55秒)、2位・小林茂(48分56秒)、3位・藤森伊三郎(49分32秒)

大正3年(1914年)10月、諏訪湖スケート会が設立された。本部は下諏訪町、事務所は下諏訪町役場に置かれ、会費は、通常会員(本町民)・50銭、正会員・1円、特別会員3円、名誉会員・5円。会長は土橋実也、副会長は浜孝吉、会員には法学士・農学士・工学士を始め、貴族院議員、日銀・郵船などの幹部、大学講師、海外から赴任の領事・公使ら外国人も多数が名を連ねた。

大正4年(1915年)2月11日、中国の奉天で第1回満州氷上運動会が開催。この大会はその後「全満スケート大会」に発展、この大会は終戦近くまで続いた。

しかしここからスピードスケート界の発達のペースが落ちた。全国各地でスケート会が設立されたが、横の連携があまり進まず、その後急速に発達したフィギュアスケートに、次第に人気が移っていった。そして大正5年(1916年)2月、諏訪湖1周スケート大会は第8回大会をもって終了した。


ちなみに海外でのスピードスケート界では、1893年に開始された世界スピードスケート選手権大会が、1914年のオスロ大会で通算22回目を迎えた。この大会でノルウェーのオスカー・マティーセンが大会3連覇、通算5度目の金メダルを獲得。オスカーは500m・1500m・5000mで当時の世界新記録を樹立した。

この1914年は第1次世界大戦の開戦の年であり、この戦争の影響で翌年の世界スピードスケート選手権大会は中止、終戦後の混乱もあり、大会は1921年まで行われず、1922年2月に復活した。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-27 08:07

第2回~第4回諏訪湖1周スケート大会(1910年~1912年)

明治43年(1910年)2月、長野県諏訪にて第2回諏訪湖1周スケート大会が開催された。

この大会は、前回大会の覇者・小口卓襄による大会2連覇という結果となったが、彼の優勝の原動力となったのは「靴スケート」。この時期の各選手が使用していたのは「下駄スケート」「草履スケート」だったのだが、大会直前に来諏してきた京都・西本願寺の大谷光明師が靴スケートを持ち込み、小口が真っ先に使用してみたところ大幅に記録が伸び、他の選手を寄せ付けずの優勝に繋がったのである。ちなみにタイムは、1位・小口(40分45秒)、2位・花岡俊晴(47分0秒)、3位・浜秀一(48分6秒)であった。


明治44年(1911年)2月、第3回諏訪湖1周スケート大会が開催。1位・井上繁雄(40分15秒)、2位・小泉金吾(41分00秒)、3位・武居正次(41分05秒)


明治45年(1912年)2月、第4回諏訪湖1周スケート大会が開催。1位・笠原喜代司(40分02秒)、2位・牛山康興(40分40秒)、3位・小林茂(40分45秒)
この大会では男子だけでなく女子競技も行われ、30名が参加した。諏訪湖の片側半分を使った約2里のコースで、1位・笠原とくゑ(9分35秒)、2位・河西ちづ(10分01秒)、3位・牛山やす(10分45秒)。優勝した笠原は男子優勝者・笠原喜代司の妹で、つまり兄妹による男女アベック優勝である。

明確に残っている記録としては、この大会が、初の女子スピードスケート競技ということになる。

この年に明治天皇が崩御し、大正元年となった。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-26 07:17

「第1回諏訪湖1周スケート大会」(1909年)

明治39年(1906年)、長野県下諏訪町の飾り職人河西準乃助が、下駄の底に鉄製の刃をつけた「カネヤマ式下駄スケート」を発明。この下駄スケートは、諏訪湖に来たスケート愛好家の間で急速に広まり、次第にスケートが競技スポーツへと発展していくきっかけとなった。

明治42年(1909年)2月14日、長野県諏訪湖にて、「第1回諏訪湖1周スケート大会」が開催された。

明治38年の中央線開通以来、幾つかのスケート大会が行われてきたが、それらは地元の小中学校生徒によるものが多く、大人対象の大会もあったが実際には運動会の延長のものばかりだった。そこに地元上諏訪町の南信日日新聞社が主催となって行われたのである。
開催されたいきさつは南信日日新聞社の宣伝の為であったが、諏訪湖1周、湖周15.9kmのレースとあって当日は大変な賑わいとなった。ちなみに1位は小口卓襄(下諏訪)、2位は山岡文八(小田井)、3位は林福一(岡谷)。「日本スケート史」(日本スケート史刊行会)に当時の様子が書かれている。

当日下諏訪永滑場には増沢仙之助氏、吉沢永左衛門氏、両係員を初めとし小口町長、植松助役、宮坂豊夫、小口徳一郎、土橋恭一郎、清水市造、午山恭平、鱒沢多能志、溝口尚道、森山平松、小学校教員等出場紅白の幔獏万国旗にて会場を装飾し少年音楽隊を招いて、選手の来着を待ち其の間に下諏訪氷滑会の小運動会を催したり、期して選手の来着をいまやおそしと松時予備選手4,5名通路偵察のため入り来るや、それ来たと待ちかまえたる写真師が、早々之を撮影したるは一愛嬌なりしこれより第1着通過するや、煙火を打ち上げて之を報じ尚其光景を撮影し選手通過の都度楽隊を奏し、万歳を唱えて選手を鼓舞し予定の如く一々通過券を交付したり。
赤十字旗を樹てたる救護所には医師、溝口織衛氏、救護薬を携えて選手の万一に備えたるが、幸いに1人も救護を要する者なかりき、選手全部通過後は数百名の見物全部上諏訪に押しかけたり。


「諏訪湖1周スケート大会」はその後も数年間続いたが、一般大衆が、速さを争うスピードスケートから、曲線を描くフィギュアスケートに履き替えるなどのケースが続出して人気は低迷。大正5年で大会の幕は閉じられた。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-16 21:04

日本スケートの歴史の始まり(1891年~1906年)

日本のスケートの発祥は幾つもの諸説があるが、実際に普及するきっかけを作ったのは新渡戸稲造である。

明治24年(1891年)、当時ジョンズ・ホプキンス大学を卒業した農学者の新渡戸稲造が、帰国する際にアメリカ製のスケート3足を持参した。
新渡戸は帰国すると札幌農学校(後の北海道大学)の教授となり、同校の生徒にスケート靴を紹介した。すると生徒達の間ですぐにスケートが広まり、札幌農学校とその周辺の学校の生徒達70名が集まり「札幌スケートクラブ」が設立された。

ちなみにこの翌年の1892年7月23日、オランダのスヘフェニンゲンで国際スケート連盟(ISU)が設立し、1893年にはアムステルダムで第1回世界スピードスケート選手権が開催されている。スケート界では他のスポーツに比べいち早く競技の国際化が進んでいったのである。

明治30年(1897年)、岩手県盛岡市で、アメリカ人宣教師ネロリーが氷上でスケート滑走を披露し、そこから東北各地にスケートが広まっていった。

明治36年(1903年)、宮城県仙台市でイギリス人デビソンと旧仙台二校生徒が、共同で「仙台式下駄スケート」を開発。
同年長野県諏訪地方にて田中稲見兄弟が下駄スケートを紹介すると、諏訪中学の体育教師が冬季授業としてスケート滑走をを行った。

明治38年(1905年)、当時日本の植民地だった満州国でスケートの普及が始まり、隣国ロシアとの交歓競技大会がハルピンで実施された。

そして明治39年(1906年)は日本のスケート界にとって大きな出来事があった。長野県での国鉄(現JR)中央東線の開通である。それまでのスケート普及の流れは、地方各地でそれぞれ少しずつという感じだったが、この中央東線の開通で首都圏のスケート愛好家が、続々と諏訪湖に集まってきたのである。

当時の諏訪湖は、現在と違って冬季は毎年必ずと言って良いほど湖畔の全面が氷結し、スケートをするには最高の条件を備えていた。さらに1911年には中央西線も開通し、これにより名古屋・大阪方面のスケート愛好家も訪れるようになった。

スケート発祥の地こそ北海道であったが、この中央線開通によりスケートのメッカは諏訪湖となっていったのである。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-14 07:36

「日本フィギュアスケートの歴史」と「日本スピードスケートの歴史」の開設

管理人の渡り鳥です。

今日から、日本のスピードスケートとフィギュアスケートの歴史を書きたいと思います。

「日本スキーの歴史」も約半分を書き上げ、とりあえず気分転換したい気持ちと、今度はスケートの歴史も掘り下げてみたい気持ちが盛り上がってきました。多分バンクーバー五輪までには書きあがらないとは思うけど、気まぐれに書いていきたいと思います。

一口に「日本スケートの歴史」とタグを作ろうかと思ったけれど、色々考えてみると、どうしてもそれぞれに違う歴史があり、1つにまとめる事は困難で、「日本スピードスケートの歴史」「日本フィギュアスケートの歴史」と分けて書いていきます。交互にUPにする予定ですが、10年か20年に区切るかは書きながら判断します。

興味のある方は是非読んでみてください。よろしくお願いします。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-14 06:36

コルティナダンペッツォ五輪と猪谷千春の銀メダル獲得(1956年)

昭和31年(1956年)2月、イタリアのコルティナダンペッツォにて第7回冬季オリンピックが開催された。

日本選手団は1月9日、羽田空港からイタリアへ飛び、現地でアメリカから移動してきた猪谷千春と合流し、16日より練習を開始。そして1月26日、コルチナのアイススタジアムで冬季五輪は開幕した。参加国は32カ国、選手・役員は1400人が参加した。

27日、まずは距離30kmで、1位はベイコ・ハクリーネン(フィンランド)で1時間44分6秒、宮尾辰男は11時間55分40秒で28位。さらに宮尾は2種目にも出場し15kmで48位、50kmでは25位となった。
複合では佐藤耕一と吉沢広司が出場したが、吉沢はジャンプで5位と好成績だったが距離は棄権、佐藤はジャンプで23位、距離では参加者36人中の33位。佐藤はこの大会が海外遠征への初出場だった。

これまで海外遠征に参加していた選手はともかく、初めて参加した選手はなかなか現地に適用することが難しい。「日本スキー発達史」ではこう書かれている。

はじめて外国に出かけ、幾日かの後には晴れの大会に日本代表として出場するための練習をあちらの雪の上で行っても、一週間や二週間では条件が整ってこないのが普通だ。生活がガラリと変わり、相手も日本人ではない。言葉もうまく通じないし、スキー場の規模も大きくて凄い。それに滑っている外人は全て自分より巧いような錯覚にとらわれる。

はじめての日本選手は、まず最初の一週間は無我夢中ですごしてしまう。気がついた頃には神経衰弱に陥っていて、自分の技術と体力にひどく不安を感じて「こんな調子でオリンピックに出場できるだろうか」という焦躁に陥る。こうした症状にはまれに、初めての外征でも陥らない選手もいるが、大小の差はあっても、たいていの選手に見られる弱さだという事ができる。
もちろんこのような症状は2度目・3度目となると慣れから来る神経が太くなって平気になってくる。今度のコルチナ・オリンピックでも佐藤と杉山がこれで参り、初めての外国生活ではあったが宮尾は案外にも平気だった。杉山もいざ競技が開催されると次第に自信がでてきて、劣等感をなくして好調を示してきたが、佐藤は終始沈滞の域を脱することができなかった。吉沢は3度目だから実力を発揮する事ができ、猪谷にいたってはなんの不安もないばかりか、かえって敵を呑んでいた。

私たちは今更ながら、事前に外国のスキー場で彼らに交じって練習し、競技も体験しておく必要をしみじみ痛感した。これからもおそらく永久に、日本でどんな図抜けた強い選手が出ても、いきなりオリンピックに出場して優勝する、というようなことはあり得ないことだと思う。


アルペン競技は29日は大回転、31日は回転、2月3日は滑降。日本からは猪谷千春・杉山進がいずれも出場した。

この大会での日本勢のハイライトは31日の回転競技である。当日の模様を「日本スキー発達史」の中で野崎監督が手記を残している。

『スラロームの2回目、スタートの地点で猪谷に握り飯をたべさせながら、標高差250m、長さ600mにあまるコースを見下した。92双旗という数において記録的な旗が薄い霧の中にすいて見える。寒気はきびしい。猪谷の肩をもみながら二人でこう話したものである。
「1回目の6位は大成功だ。今度の旗は数が多いので(1回目は78双旗)日本人向きである。ここで一挙にスパートし、のるかそるかの勝負をしよう」私がそう言うと、彼も「2、3人は抜けそうです」と答える。大げさにいえば、私は日本のスキーの運命を彼の2回目のスラロームにかけたわけだ。

1回目に勝っていたスイスのジョージ・シュナイダー、次いでオースタリーのリーダーが次々と40度近い急斜面の底に吸い込まれていく。「スタートの合図を英語でする」という出発合図員の言葉にコックリした猪谷の顔が、どうも沈痛に見えて自分もいささかせつない気がした。スタート、激しいスピードに乗っていく。

ターンに移る瞬間、猪谷の身体が立ち上がった。6番目の旗門である。見る間にその旗の一本を股にはさんでしまった。「片足反則」そう思った。ところが彼は足を180度に開いてその苦境を逃れようとしている。そしてそのまま倒れずにアクロバットのように滑っていく。反則か、それとも反則にならないか。これは審判員の判定に待つより方法はない。猪谷は観衆のどよめきにつつまれながら、強引に狂ったようにスパートしていくではないか。ゴールイン――発表されたタイムは1分48秒5、これまでのベストタイムだ。

ちょうどスタート地点に登っていった杉山の顔を見ると、ものをいいたげである。彼も反則は否かを決しかねているようだ。トニー・ザイラーは15番目に滑った。まことに巧いスキーだった。1、2回とも最優秀タイムを出し優勝を決めた。問題を2位である。反則がなければ猪谷、反則と認定されればゾランダーとなる。ここに至って私は局面を悲観的に考えてしまった。反則とされ、5秒加算されることにより5位に下がるだろうと思ったトタン半ベソをかいた。しかしまた思い直して「反則でない」と自分によくいいきかせ、杉山をスタートさせて決勝点に下がった。

ホテルに帰っても落ち着かない。成績公式発表は午後6時である。花束が来る。お祝いの使いが来る、テンヤワンヤだが、なんとしても落ち着かない。勇を決してスキーの事務所をのぞきに行く。アルペン競技委員長オット・メナルデ氏にうまく会うことができた。
誰かがニヤッと笑った。何も言わないうちに「反則はない」という。2位が決まった。

午後9時からの表彰式を終わって、折柄の寒風に翻る日の丸を仰ぎながら猪谷とともに退場するとき、彼はポツリ「日の丸はいいですね」といった。アイススタジアムの薄暗がりの中で、改めて2人で顔を見合わせ、2人とも大きなタメ息をついた』


回転の結果は、1位はトニーザイラー(オーストリア)で3分14秒7(1回目1分27秒3、2回目1分47秒4)、2位は猪谷千春で3分18秒7(1回目1分30秒2、2回目1分48秒5)。トニーザイラーは他の競技でも強さを発揮し、大回転・回転・滑降の3種目で優勝、「三冠王」を達成している。

最終日の2月5日、ジャンプ競技が行われ、日本から吉沢・佐藤が出場。吉沢は13位と健闘したが、佐藤は異国での気疲れと体調不良も重なり参加53人中の39位に終わった。優勝はフィンランドのヒバリーネンが獲得した。

大会終了後、猪谷は学業のため帰米、日本選手団はドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンにて開催のジャンプ大会に出場する為ドイツに移動するが強風で中止、久慈コーチと吉沢・佐藤・宮尾の4人はオスロに移動してホルメンコーレン大会に出場、そして再び全員がローマでおちあい、レバノンへ移動して現地のスキー場を視察し、3月に帰国した。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-12 07:38

ピエール・ギヨーとアンリ・オレイエの来日(1955年)

昭和29年(1954年)2月、フランスからピエール・ギヨーとアンリ・オレイエがスキー技術講習の為に来日した。

ギヨーは眼科医の傍らフランススキー連盟の教育委員会委員長の肩書きがあり、オレイエは1948年に開催されたサンモリッツ五輪の滑降とアルペン複合の優勝者である。2人は全日本スキー連盟の招きで日本入りし、2月5日の長野県志賀高原を皮切りに赤倉・湯沢・大穴・日光・神鍋・蔵王・大館・大鰐・札幌・小樽と回りスキーの指導を行った。

全てのスキー講習会が終わると、朝日新聞社はお茶の会を催した。その席上でこう発言した。内容が「日本スキー発達史」に書かれている。

「日本のスキー人口の多いのに驚いた。世界一ではないかと思う。しかし女性の少ないのはどうした事だろう。女性だけの人口を比較すればフランスのほうが多いかもしれない。一般にスキー人の服装も用具も悪い。特に女性の服装はもっと綺麗にしてよい。スキーも大てい長すぎるし、性能もよくない。あんなスキーでは上手になれないし、良い選手は生まれない。その上施設が不十分で、各国のそれに比較するとずいぶん遅れている。
第一にリフトの数が少ないし、あっても短いリフトばかりだ。もっと長いリフトを架設して十分練習できるようにすべきだ」


明けて昭和30年(1955年)1月、第28回学生スキー選手権が開催。総合優勝は早大となった。
さらに2月、第33回全日本スキー選手権大会が開催。ノルディック競技は札幌、アルペンスキー競技は富良野の北の峰で行われた。この大会は翌年にイタリアで開催される第7回冬季オリンピックの選手選考になる大会だった。結果は次の通り。

滑降 1位→斉藤貢、2位→藤島幸造
回転 1位→杉山進、2位→伊藤文雄
15km 1位→角昭吾、2位→宮尾辰男
40kmリレー 1位→秋田林業、2位→三井芦別
複合 1位→佐藤耕一、2位→藤田武四郎、3位→太田実
50km 1位→小西健吾、2位→斉藤弘

そして大会終了後、コルチナ五輪のメンバーを決めた。結果は次の通り。

監督→野崎彊
コーチ→久慈庫男
選手
ジャンプ→吉沢広司
複合→佐藤耕一
距離→宮尾辰男
アルペン→杉山進・猪谷千春
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-11 22:32

ノルディックスキー世界選手権とアルペンスキー世界選手権への初出場(1954年)

昭和29年(1954年)2月、スウェーデンにて第20回ノルディックスキー世界選手権と第14回アルペンスキー世界選手権が開催された。

この2つの大会ともFIS(国際スキー連盟)主催で行われ、この先1985年まで西暦で偶数年に開催され、冬季オリンピックの開催年は五輪と世界選手権は合同で開催された。世界選手権単体としては、この年が日本人選手が初めて出場した大会である。

まず2月13日にファルンにてノルディックスキー世界選手権が開幕。この大会の参加国は21カ国、選手・役員合わせて409人の賛カとなったが、東洋人の参加は珍しく、各競技ともに日本人が出場すると「ハイヤー・ヤパン」と大きな歓声が響いた。運営は殆どスウェーデンの軍隊が管理し、会場の整理・記録発表までも行っていた。

14日、午前は距離30km、午後はジャンプ競技が行われたが日本選手は惨敗を繰り返し、2年前のオスロ五輪同様の力の差を感じさせた。ジャンプ競技での惨敗について「日本スキー発達史」ではこう書いている。

吉沢は練習中常に飛距離では一流であり、着陸の確実な点でも一流であったが、この日は踏み損なって46位という惨敗振りを喫した。
FISのジャンプ部長ジグムンドルード氏は「どうして日本は弱くなったか」と不思議がっているが、伊黒、安達時代の立派なジャンプを記憶している彼等には無理もないことだ。しかし今度のFIS大会に出場して、近い将来、必ず日本のジャンプも世界の一流に到達することができる、という自信を得たことは大きな収穫だ。

稲葉監督は「最も必要なことは基礎訓練を十分積む事である。それには猛烈な練習に耐える頑健な体を、四季を通じて養う必要がある。ちょっと練習してすぐ疲れたり、怪我するようではいつまでたっても追いつけない」と感想を述べている。


16日の複合、17日の距離15km、21日の距離50kmも日本勢は惨敗の連続でこの大会を終えた。

27日からはオーレにてアルペンスキー世界選手権が開幕。参加23カ国、選手・役員合わせて260人での開催だった。28日は回転、3月3日に大回転、最終日の7日に滑降。同種目は女子部門もあったが、当然ながら日本勢は参加していない。

アルペンコーチの野崎彊は大会後の感想として、「日本スキー発達史」でこう話している。

「日本のスキーの立地条件を考えたり、身体的の問題を考えると滑降・大回転の2種目はどうしても目下の日本には不適当な種目と断ぜざるを得ない。そうなるとスラロームしか残らない。回転は滑降に比べてそれほど継続したスピードを必要としない。その上滑降に比べると技術的だ。さらに滑降方向を変えて、限られた幅の中に入る事を要求される。軽くて小さな日本人の体はこの競技では不利にならない。逆に有利な条件になる。
以上の理由で、現在のところ日本は回転第一主義を取らざるを得ない。

しからば日本は如何にして、世界一流のスラローマーを獲得するか、一言でいえば、高速力に馴れるのが最初にして最後の方法であり、スピードを獲得する以外に何物もない、と断言することができる。
最初にターンを一生懸命練習して非常に巧くなり、このターンを武器としてスラロームに入り、次の段階で高速力を獲得するやり方が、順序を追った練習法としては正しいものだろう。

しかし今の日本ではもっとせっかちな方法を採りたい。それはまず高速力を選手に強制し、強引にターンに入れるやり方である。無理矢理に速いスピードとターンの関連性を覚え込ませるのだ。強引をきわめた近道のやり方だ。失敗するかもしれない。しかしこの方法を採りたい。とにかく日本人はスピードを完全に欠いているからだ」


大会終了後、日本選手団は2班に分かれ、稲葉監督・野崎コーチ・斉藤・茂原は3月12日、上石・伊黒コーチ・藤沢・石坂・吉沢・柴野・小西・角は16日に帰国した。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-11 19:39