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川崎フロンターレ(旧・富士通サッカー部)

1.富士通サッカー部時代

川崎フロンターレの前身は富士通サッカー部である。
富士通サッカー部は、1955年、富士通株式会社により神奈川県川崎市を本拠地に「富士通サッカー部」として設立された。

1967年、関東社会人リーグが設立されると第一期チームとして参加し、リーグの強豪として活躍。1972年にJSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格し、1974年には早くも2部で準優勝、76年に優勝と実績を挙げ、JSL1部に昇格。
しかし78年には再び2部に降格してしまい、復帰への努力で1980年には2部で準優勝を収めるが、その後は低迷し、2部所属のまま1992年のJSL閉幕を迎えた。

1992年に開幕したJFL2部に参加し、93年の1・2部統合後もリーグで活躍を続け、1996年にチーム名を「富士通川崎サッカー部」に改称した上。同年、将来のJリーグ参加目指して運営会社「富士通川崎スポーツ・マネジメント」を設立。1997年にはJリーグ準会員となった。

1998年、ラストシーズンとなったJFLで準優勝、J1参入決定戦を経てJ2参入を果たした・

2.Jリーグ時代(1999~2001年シーズン)

1999年、J2初年度はベッド監督でスタートしたが、序盤から失速してしまい松本育夫に交代。すると一気に首位争いに躍り出て、25勝3分け8敗で見事に優勝し、J2参入1年目にしてJ1昇格を決めた。
フォーメーションは3-5-2。トゥット・ティンガの2トップ、トップ下に伊藤彰、左サイドに久野智昭、右サイドに長橋康弘、ボランチに高田栄二・大塚慎司、3バックに森川拓巳・中西哲生・佐原秀樹、GKに浦上壮史。

2000年、J1初挑戦のこの年はまさに試練の連続だった。監督が次々と3人も代わった事もあったが、J1昇格の立役者を下げ、シーズン前に獲得したFW鈴木隆行・FWマジーニョ・FW森山泰行・MF鬼木達らを主力とした為チームバランスを欠き、迷走を極めて7勝4分け19敗で、まさかのJ2降格となってしまった。

2001年、再出発のシーズンとなったが20勝3分け21敗と不本意な成績で7位と低迷。そしてこの年のオフにレギュラー選手の多くが解雇された。これは大型補強から地道な若手育成をして数年後に強豪に仕立てるための布石であった。この方針転換は数年後に実を結ぶこととなる。

3.Jリーグ時代(2002~2006年シーズン)

2002年シーズン前、運営会社を「株式会社 川崎フロンターレ」に変更した。これはメインスポンサーである富士通が支援を縮小する意向を打ち出した事から、川崎市を初めサポーター・地元企業などの支援を受けるようになった為である。

その後は、地道にチーム力を挙げる努力が続いた。2001年途中に就任して以来、長く務めた石崎信弘監督の手腕も光った。石崎監督は03年まで勤めた。

2002年→23勝11分け10敗。
2003年→24勝13分け7敗。
2004年→34勝3分け7敗。

2004年は驚異的な勝率でJ2を制覇した。この年から就任した関塚隆監督の下、フォーメーションは3-6-1。
我那覇の1トップ、中盤はトップ下にマルクス・ジュニーニョ、左サイドにアウグスト、右サイドに長橋康弘、ボランチに久野智昭・中村憲剛、3バックに伊藤宏樹・寺田周平・箕輪義信、GKに吉原慎也。

2005年、J1復帰1年目は、15勝5分け14敗で8位。
2006年は20勝7分け7敗で2位、ナビスコカップでベスト4と大健闘のシーズンとなった。「J1に川崎あり」と名乗り上げる大躍進だった。

もう少しで、J1における年間チャンピオンになりうる位置にいるチームであり、今後に期待したい。
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by wataridori21 | 2007-07-31 23:25

FC東京(旧・東京ガスサッカー部)

1.東京ガスサッカー部時代

FC東京の前身は東京ガスサッカー部である。
1935年に実業団チームとして設立した古い歴史あるチームで、長らく東京都リーグで活躍した後、1986年に関東リーグに昇格。
1991年にJSL2部に昇格し、92年に開幕したJFL(ジャパンフットボールリーグ)1部に参加、97年にJFL準優勝を決めた。更にそれだけでは終わらず、天皇杯に出場すると、Jリーグチームを次々と破り、アマチュアチームとしてベスト4の快挙を成し遂げ、当時かなりの話題を集めた。
そして1998年にJリーグ参加を見越してチーム名を「FC東京」に改称した。そしてその年、JFLで念願の優勝を果たし、J2参加も決まった。

2.Jリーグ時代(1999~2002年シーズン)

1999年、J2でのシーズンでは、やはりJFL時代からの強さを存分に見せ、21勝3分け12敗で2位となり、僅か1年でJ1昇格を決めた。その上ナビスコカップでもベスト4と、昇格に華を添えた。
大熊清監督の下、フォーメーションは4-2-3-1。アマラオの1トップ、中盤はトップ下にアウミール、左サイドに岡元勇人、右サイドに佐藤由紀彦、ボランチに浅利悟・新條宏喜、4バックに藤山竜仁・小峰隆幸・サンドロ・梅山修、GKに堀池洋充。

2000年、J1初年度は15勝1分け14敗でいきなり総合7位と健闘。
2001年も13勝5分け12敗で8位と、前年までのJ2、J1での成績が決してフロックではない事を証明した。大熊監督はこのシーズン限りで勇退した。

2002年からは原博実新監督が指揮を執ることとなった。13勝2分け15敗で総合9位となりここから原長期政権が始まった。

3.Jリーグ時代(2003~2006年シーズン)

2003年は大きな飛躍の年となった。13勝10分け7敗でJ1参戦4年目にして総合4位とJリーグ有数の強豪チームに成長した。
フォーメーションは4-5-1。アマラオの1トップ、中盤はトップ下にケリー、左サイドに戸田洋一、右サイドに石川直宏、ボランチに宮沢正史・三浦文丈、4バックに金沢浄・茂庭輝幸・ジャーン・加地亮、GKに土肥洋一。

2004年は10勝11分け9敗で総合8位、そして何よりもナビスコカップで優勝を果たし、念願のチーム初タイトルを勝ち取った。天皇杯でもベスト8と、年々、着実に実績を挙げていく。

2005年は開幕前にトップ下で長らく活躍していたケリーを放出に若手育成に取り組んだ。その為、成績こそ11勝14分け9敗で10位となったが、MF栗澤遼一・MF梶山陽平・MF馬場豪太・MF鈴木規朗ら若手の台頭があり、実りのあるシーズンといえた。この年限りで原監督は勇退した。

2006年はガーロ監督で臨んだが13勝4分け17敗で13位と低迷してしまった。ガーロ監督は途中解任、そしてシーズン終了後に原博実前監督が復帰。2007年から再び原政権で臨む事となった。
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by wataridori21 | 2007-07-29 23:51

大宮アルディージャ(旧・NTT関東サッカー部)

1.NTT関東サッカー部時代

大宮アルディージャの前身はNTT関東サッカー部である。
NTT関東サッカー部は1969年、電電公社(現在のNTTグループ)が埼玉県浦和市(後に大宮市と合併)に「電電関東サッカー部」として設立した実業団チーム。関東リーグで数々の実績を残した後、1987年JSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格、電電公社の民営化に伴いチーム名も「NTT関東サッカー部」に改称。
1992年に開幕したJFL(ジャパンフットボールリーグ)2部にも所属したが、当初、同チームは
Jリーグ参加には消極的だったが、その後に方針転換し1998年、J2設立の際に参入を果たし、チーム名も「大宮アルディージャ」に改称した。

2.Jリーグ時代(1999~2002年シーズン)

1999年、J2参入1年目は18勝1分け17敗で4位と躍進。ピム監督の下、フォーメーションは4-4-2。ヨルン・磯山和司の2トップ、中盤は左サイドに原崎政人、右サイドに宮下真洋、ボランチに浮氣哲朗・岩瀬健、4バックに岡本隆吾・奥野誠一郎・ヤン・安藤正裕。

2000年も23勝1分け14敗で2年連続の4位。
2001年は三浦俊哉監督が就任、FWバルデス・DFトニーニョの加入もありシーズン前半は快進撃を続けたが、バルデスの故障で失速し26勝6分け12敗で5位。三浦監督もオフに辞任した。

2002年は14勝17分け13敗で6位。センターバックのDFトニーニョの鉄壁の守備力が多くの引き分けを誘い上位進出の原動力になった。

3.Jリーグ時代(2003~2006年シーズン)

2003年は前年途中に加入したFWバレーの活躍もあったが18勝7分け19敗で6位。
2004年は三浦俊哉監督が復帰し、26勝9分け9敗で2位、念願のJ1昇格が決まった。
フォーメーションは4-4-2。トゥット・バレーの2トップ、中盤は左サイドに久永辰徳、右サイドに安藤正裕、ボランチに金澤慎・氏家英行、4バックに富田大介・奥野誠一郎・トニーニョ・西村卓朗、GKに荒谷弘樹。

2005年、J1での1年目は12勝5分け17敗で総合13位と、初年度としてはまずまずの成績。その上天皇杯では見事にベスト4の好結果を残した。
2006年は13勝5分け16敗で12位となり三浦監督はこの年限りで辞任した。しかしこの3年間で若手育成もかなり進んだ。
フォーメーションは4-4-2。桜井直人・グラウの2トップ、中盤は左サイドに藤本主税、右サイドに小林大悟、ボランチに片岡洋介・小林慶行、4バックに富田大介・土屋征夫・トニーニョ・波戸康広、GKに荒谷弘樹

2007年にはチーム初代監督だったピムの実弟・ロバートが監督に就任する事となった。
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by wataridori21 | 2007-07-29 13:20

ベガルタ仙台(旧・東北電力サッカー部)

1.東北電力サッカー部時代

ベガルタ仙台の前身は東北電力サッカー部である。
J1経験はあるが、設立は1988年と比較的新しいチームで、創部以来、実業団チームとして実績を重ね、1991年より地元地域リーグである東北リーグに昇格した。

1994年、Jリーグへの参入を目標に運営会社を設立し、チーム名も「ブランメル仙台」に改称。1995年、地域リーグ決勝大会で準優勝しJFL(ジャパンフットボールリーグ)に昇格。
更に1997年にはホームスタジアムとして「仙台スタジアム」(収容人員は19,694人)が完成、1998年にはメインスポンサーに健康食品メーカー「ジャパンヘルスサミット」が加わった事でいよいよJリーグ参加条件を満たしてきた。
1999年にJリーグ2部制が導入され、チームはJFLからJ2への参入が実現し、これを機にチーム名も「ベガルタ仙台」に改称した。創部から僅か11年で、Jリーグチームにまで上り詰めたのである。

2.Jリーグ時代(1999~2002年シーズン)

1999年、Jリーグ参入1年目は10勝4分け22敗で9位。シーズン途中から就任した清水秀彦監督の下。フォーメーションは4-4-2。
平聡・中村学の2トップ、中盤は左サイドに千葉泰伸、右サイドにエンリケ、ボランチにニクソン・千葉直樹、4バックに御厨景・ドゥバイッチ・山路嘉人・斎藤克幸、GKに石川研。

2000年シーズンは19勝2分け19敗で5位。そして2001年にはFWマルコス、MF岩本輝雄の加入などで戦力が充実し、27勝5分け12敗で2位、遂にJ1に昇格を果たした。

2002年、J1ファーストシーズンは11勝1分け18敗で総合13位とまずまずのスタートとなった。特にFW山下芳輝の加入による得点力アップが効いたシーズンだった。
フォーメーションは4-4-2。マルコス・山下芳輝の2トップ、左サイドに岩本輝雄、右サイドに財前宣之、ボランチにシルビーニョ・森保一、4バックに村田達哉・小村徳男・リカルド・森勇介、GKに高橋範夫。

3.Jリーグ時代(2003~2006年シーズン)

2003年は試練のシーズンとなった。FW佐藤寿人の活躍はあったがチーム成績は失速し、5年目を迎えていた清水秀彦監督が途中解任、5勝9分け16敗で15位となりJ2降格となってしまった。
なお、同年それまでメインスポンサーだったジャパンヘルスサミットが撤退し、家庭用品メーカー「アイリスオーヤマ」が新たに就いている。
2004年以降はJ2中位をキープし続けているが、監督が毎年交代したりとなかなか長期的な戦力アップに繋がっていかない。

2004年→15勝14分け15敗で6位
2005年→19勝11分け14敗で4位
2006年→21勝14分け13敗で5位

とはいえ、J1時代の2002年には観客動員数が43,092人に達したこともあるなど、地元・仙台での人気はとても高いチームであり、早期のJ1復帰が期待されている。

2006年シーズンのフォーメーションは4-3-2-1。
ボルジェスの1トップ、中盤は左サイドにネーヴィス、右サイドにロペス、ボランチに熊林親吾・染勇其・千葉直樹、4バックに磯崎敬太・白井博幸・木谷公亮・菅井直樹、GKに高桑大二郎。
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by wataridori21 | 2007-07-29 08:10

コンサドーレ札幌(旧・東芝サッカー部)

1.東芝サッカー部時代

コンサドーレ札幌の前身は東芝サッカー部である。
1935年、大手電気メーカーの東芝が神奈川県川崎市に「東芝堀川町サッカー部」として創部したのが始まりで、戦後は関東の地域リーグの強豪として活躍してきた。
1977年、全国社会人サッカー選手権大会で優勝しJSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格、79年には早くも2部で優勝し、チーム名も「東芝サッカー部」に改称した。

その後は1982年に準優勝し、88/89年シーズンに2部で2度目の優勝、念願の1部昇格を決めた。1992年JSL閉幕後は、同年開幕したJFL(ジャパンフットボールリーグ)1部に参加。
数年間JFLで活躍していたところに1995年、Jリーグチーム設立を熱望していた札幌市がチームの札幌への誘致を申し入れてきた。東芝サッカー部はこれを受託、札幌移転が決まった。

さっそく札幌市は1996年のJFL開幕前にサッカーチーム運営会社・北海道フットボールクラブ株式会社を設立、東芝サッカー部がこの傘下に入り、チーム名も「コンサドーレ札幌」に改名した。
1996年はJFL5位だったが、97年はウーゴ・フェルナンデス監督が就任し、26勝4敗と圧倒的な強さで優勝、Jリーグ参入が決定した。

2.Jリーグ時代(1998~2000年シーズン)

1998年、Jリーグ参入1年目から大きな試練が訪れた。
前年に続きウーゴ・フェルナンデス監督が指揮を執り、フォーメーションは3-5-2。バルデス・吉原宏太の2トップ、トップ下にマラドーナ、左サイドに村田達哉、右サイドに田渕龍二、ボランチにバウテル・村主博正、3バックに渡辺卓・古川毅・木山隆之、GKにディド。
しかし蓋を開ければ14勝20敗で総合14位となり、翌年のJ1・J2を振り分けるJ1参入決定戦で敗れ、J2降格が決まってしまった。

1999年シーズンは岡田武史監督が就任して出直しスタート。しかし17勝6分け13敗で5位となりJ1昇格とはならなかった。

そしてこの頃には、チーム運営会社の累積赤字が抜き差しならない状態となっていた。これはJFL時代に1996年チーム札幌移転して以来、有力なメインスポンサーが不在のままだった事と、度重なる無謀なまでの選手の大型補強が原因だった。
この為、2000年には大幅な緊縮経営にシフトチェンジを計った。FWエメルソン、FW播戸竜二らを筆頭に、数多くのレンタル移籍選手でチーム戦力を固めたのである。その為31勝5分け4敗という驚異的な成績で優勝を飾ったのである。

3.Jリーグ時代(2001年~2006年シーズン)

2001年シーズンは9勝8分け13位で総合11位。このときのフィーメーションは3-5-2。
ウィル・播戸竜二の2トップ、トップ下に山瀬功治、左サイドにアダウト、右サイドに森下仁志、ボランチに野々村芳和・ビジュ、3バックに大森健作・名塚善寛・森秀昭、GKに佐藤洋平。

しかし主力の多くがレンタル選手である為、期限切れになると元の所属チームに復帰していくケースが続出、引き止めの努力で何人かは残留したが、戦力低下は避けられず、その上にレギュラー選手の故障者続出もあり次第にチーム戦力は低下した。
更に一部の選手や幹部の不祥事からファン離れが起こり観客動員数が減少、それによる累積赤字の増大がチーム運営を圧迫させていく悪循環も重なった。

2002年シーズンは柱谷哲二監督で臨んだが開幕から黒星を重ねたため途中解任、5勝1分け24敗でJ2に降格が決まってしまった。

出直しの2003年シーズンから06年まで、その後のチーム成績は振るわず、

2003年→11勝11分け22敗で9位、
2004年→5勝15分け24敗で12位、
2005年→17勝12分け15敗で6位、
2006年→20勝12分け16敗で6位、

04年以降は柳下正明監督が指揮を執り、徹底した人件費削減とユース出身を含めた若手育成を進めた。慢性的な赤字経営を脱却する為であり、3年間で経営状態は大幅に改善された。
2006年当時のフォーメーションは3-5-2。フッキ・石井謙伍の2トップ、トップ下に砂川誠、左サイドに西谷正也、右サイドに芳賀博信、ボランチに鈴木智樹・大塚真司、3バックに西嶋弘之・曽田雄志・加賀健一、GKに林卓人。

07年は再び数多くの補強策を行い、5年ぶりのJ1復帰を狙っているのが現状である。
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by wataridori21 | 2007-07-28 21:20

ヴィッセル神戸(旧・川崎製鉄サッカー部)

1.川崎製鉄サッカー部時代

ヴィッセル神戸の前身は川崎製鉄サッカー部である。

川崎製鉄サッカー部は、岡山県倉敷市にある川崎製鉄水島製鉄所(現在はJFEスチール西日本製鉄所)が1966年に設立したサッカー部で、創部以来、地元の地域リーグの強豪として多くの実績を挙げてきた。そして1985年に全国地域リーグ決勝大会で準優勝を飾り、JSL2部への昇格を果たした。

1986年以降は1991/92年シーズンのJSL閉幕まで2部に止まり、1992年のJFL(ジャパンフットボールリーグ)設立時には2部に所属。1993年の1部・2部統合後もJFLで活躍を続けた。

そこへ1994年、兵庫県神戸市の市民団体が、「神戸市にもJリーグチームを」と川崎製鉄サッカー部に神戸市への移転を要請。これに対してチームは承諾、大手百貨店のダイエーを筆頭株主として運営会社が設立され、神戸移転も実現し、この時にチーム名も「ヴィッセル神戸」に変更した。

しかしその華々しい船出となった矢先の1995年1月に阪神・淡路大震災が起こり、被害を受けたダイエーは同年3月に経営から撤退してしまった。後ろ盾を失ったチームは地元・神戸市の援助を受けながら、緊縮財政での運営を余儀なくされた。
しかし神戸市出身でガンバ大阪の中心選手だったFW永島昭浩が、本人の希望で神戸に移籍し戦力が向上、同年JFLで6位と健闘、96年にはMFミカエル・ラウドルップの加入などがあり見事に2位に躍進、Jリーグ昇格を決めた。

2.Jリーグ時代(1997~2000年シーズン)

1997年、Jリーグ参戦1年目は9勝23敗で総合16位。
バクスター監督の下、フォーメーションは4-4-2。永島昭浩・ジアードの2トップ、中盤は左サイドが内藤潤、右サイドがラウドルップ、ボランチがビングリー・ビッケル、4バックが幸田将和・渡辺一平・海本慶治・吉村寿洋、GKが石末龍治。

1998年はFW金度勲の加入などがあったが9勝25敗で総合17位、しかしJ1参入決定戦では辛くもJ1残留を決めた。
1999年は12勝4分け14敗で総合10位、特に第2ステージで7位と健闘した。この時の川勝監督の敷いたフォーメーションは4-4-2。永島昭浩・金度勲の2トップ、トップ下に河鍚舟、左サイドに布部陽功、右サイドに吉村光示、ボランチに長谷部茂利、4バックに吉田恵・海本慶治・土屋従夫、GKに武田治郎。

2000年は11勝1分け18敗で総合13位。この年限りで地元・神戸市出身で36歳のFW永島昭浩が現役引退、第2ステージ最終戦では15,809人もの観衆がスタジアムを訪れたという。

3.Jリーグ時代(2001~2006年シーズン)

2001年はチーム始まって以来の盛況なシーズンとなった。京都パープルサンガからカズ(三浦知良)が移籍してきたのである。Jリーグ最高の人気を誇るカズの移籍により、9勝7分け14敗で総合12位と順位に大きな変動こそなかったが、ホームグラウンドの観客動員数は1試合平均13,000人(前年は平均7,000人台)を超える大盛況、キング・カズの存在感の目立ったシーズンだった。

2002年シーズンは10勝3分け17敗で総合14位、4年目を迎えていた川勝監督は途中解任した。
03年は8勝6分け16敗で総合13位となかなか順位を1桁台に入れることが出来ない。そこにチーム存続の危機が訪れた。同年11月、チームの運営会社「株式会社ヴィッセル神戸」が民事再生法の適用を申請、事実上、倒産したのである。

そこへ救いの手を差し伸べたのはインターネット事業の大手・楽天株式会社の創立者で地元・兵庫県出身の三木谷浩史。
彼は2004年2月、自身が経営する株式会社クリムゾングループにチームを落札させ、新たに運営会社「株式会社クリムゾンフットボールクラブ」を設立。これによりヴィッセル神戸は再出発したのである。

2004年シーズンは9勝9分け12敗で総合11位、そして05年は何と4勝9分け21敗で18位となりJ2降格が決まってしまった。大型補強が立て続けに失敗したり主力の故障があった事もあるが、この2シーズン中にイワン・ハシェック、加藤寛、松永英機、エメルソン・レオン、パベル・ジェハークと、次々と監督の首をすげ替える異常なまでの監督交代人事が大きく響いた。

2006年シーズン、再出発のJ2では25勝11分け12敗で3位となり、入れ替え戦を経て見事に僅か1年でJ1復帰を果たした。フォーメーションは4-3-3。近藤祐介・三浦淳宏・朴康造の3トップ、トップ下に栗原圭介、ボランチに丹波竜平・田中英雄、4バックに坪内秀介・トーメ・河本裕之・北本久仁衛、GKに萩晃太。

2007年シーズンは、大久保嘉人・榎本達也らの補強もあり、戦力が大きく伸びており、上位進出が期待されている。
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by wataridori21 | 2007-07-27 20:05

アビスパ福岡(旧・中央防犯サッカー部)

1.中央防犯サッカー部時代

アビスパ福岡の前身は中央防犯サッカー部である。同サッカー部は静岡県藤枝市の中央防犯アクトサービスが1982年に設立した実業団チームで、1992年にはJFL(ジャパンフットボールリーグ)2部で優勝し、1993年にJFLの1部・2部が統合されたのを機にチーム名を「中央防犯FC藤枝ブルックス」に改称した。

1995年本拠地を福岡県福岡市に移転した。これはそれまでの本拠地・藤枝市で使用されていたサッカースタジアムがJリーグ参加条件を満たす規模ではなく、当時からJリーグチームの誘致に積極的だった福岡市にある「東平尾公園博多の森球技場」が95年のユニバーシアード大会の開催地であったことから、同市の誘致要請を受けたのである。その際、チーム名も「中央防犯FC藤枝ブルックス」から「福岡ブルックス」に名称変更された。

1995年、JFLで優勝し、Jリーグ参加が決定した。その際にチーム名を「アビスパ福岡」に変更している。

2.Jリーグ時代(1996~2001年シーズン)

1996年Jリーグ開幕前に監督を、前年JFL優勝時はオルギン監督だったのを清水秀彦に交代した。これが裏目に出て9勝21敗の15位と大きく低迷してしまい、清水監督は辞任した。
そのときのフォーメーションは3-5-2。マラドーナ・山下芳輝の2トップ、トップ下に其田秀太、左サイドにトログリオ、右サイドに梅山修、ボランチに中込正行・石丸清隆、3バックにマジョール・岩井厚裕・森秀昭、GKに塚本秀樹。

1997年にはFWパブロ・MFリエップ・DFバスケスら外国勢を補強して臨んだが7勝25敗で総合17位(最下位)、98年も8勝26敗で総合18位(最下位)、しかしJ1参入決定戦(翌年からリーグ2部制がスタートすることからJ1・J2にチームを振り分ける為に開催された)では勝ち抜きJ1加入を決めた。

1999年にはGK小島伸幸・MF三浦泰年などスタープレイヤーを数多く補強して臨んだが、10勝1分け19敗で14位。
2000年はピッコリ監督が就任。チームはこの年は健闘し13勝2分け15敗で総合12位。このときのフォーメーションは4-4-2。モントージャ・江口倫司の2トップ、中盤は左サイドが中払大介、右サイドがビスコンティ、ボランチが野田知・バデア、4バックが三浦泰年・小島光顕・前田浩二・平島崇、GKは小島伸幸。

2001年、ピッコリ監督2年目は飛躍が期待されたが9勝2分け19敗で15位となり、J1入れ替え戦の末にJ2に降格。

3.Jリーグ時代(2002~2006年シーズン)

2002年は今井雅隆監督が就任し、出直しのシーズンだったが10勝12分け22敗で8位と大きく成績が落ち込み今井監督は途中解任されあた。
2003年から松田浩監督が指揮。FWベンチーニョの加入やGK水谷雄一の成長などで徐々に成績は向上した。03年は21勝8分け15敗で4位、04年は23勝7分け14敗で3位、そして05年には21勝15分け8敗で2位となり、遂に5年ぶりのJ1復帰が実現した。

2006年は悪夢のシーズンとなった。J1復帰の喜びも長くは続かず、5勝12分け17敗で16位となり、松田浩監督は途中解任され、入れ替え戦でも敗退し、僅か1年でJ2降格となってしまった。

2007年はリトバルスキー新監督の下、チーム再編が進んでいる。
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by wataridori21 | 2007-07-26 23:50

京都サンガF.C.(旧・京都紫郊クラブ)

1.京都紫光クラブ時代

京都サンガF.C.の前身は京都紫郊クラブである。
京都紫郊クラブは京都師範学校(現在の京都教育大学)のOB達がクラブチームとして1922年に設立した、非常に古い歴史を持つチームだった。

1954年に「京都紫光クラブ」に名称変更し、地域リーグである関西社会人リーグの』強豪として活躍し、71年にリーグ優勝。
1972年からは、その年から開幕したJSL2部に参加、しかし78年に地域リーグに降格、続く79年には再び関西社会人リーグで優勝、88年には通算3回目のリーグ優勝を飾りJSL2部の再昇格を果たしJSL1部に昇格。

1992年 JSLが閉幕し、新しく設立された「ジャパンフットボールリーグ」2部に参加し、1年目にして準優勝。
1993年よりジャパンフットボールリーグ1部昇格する事となったが、その際に同クラブはチームを「京都紫光クラブ」と「教育研究社サッカー部(現在のFC京都BAMB1993)と「「教育研究社FC京都パープルサンガ」の3つに分けた。これはプロチーム、社会人チーム、クラブチームとそれぞれに活動したいとするグループがあった為に実行された。

1994年はJFLで5位、95年に2位となり、1位のアビスパ福岡と共にJリーグ参加が決まった。

2.Jリーグ時代(1996~2000年シーズン)

1996年Jリーグ初参加となったこの年、数々の大型補強を行ったが、いきなり開幕17連敗を喫するなど8勝22敗で16位でのスタートとなった。
フォーメーションは4-4-2。エジミウソン・アレシャンドレの2トップ、中盤は左サイドが山口貴之、右サイドが山口敏弘、ボランチが大熊裕司・ラモス瑠偉、4バックが塩谷伸介・カルロス・井原康秀・野口裕司、GKが森下申一。

1997年はFW武田修宏・GK松永成立が加入したが、シーズン途中にラモス瑠偉が移籍した事が響き9勝23敗で総合14位。
1998年にはハンス・オフトを監督が就任し、森安一・岩本輝雄・山田隆裕・黒崎久志など大物選手を獲得したが15勝19敗で総合13位となりオフト監督は解任。
1999年にはカズ(三浦知良)・シジクレイなどを獲得して臨んだが、シーズン中に3人もの監督交代があるなど混迷を深め11勝19敗で総合12位。
2000年にはエンゲルス監督が就任して巻き返しをはかったが8勝20敗2分けと大きく負け越し総合15位、まさかのJ2降格となった。

3.Jリーグ時代(2001~2006年シーズン)

2001年シーズン前に主力の多くは移籍したが、エンゲルス監督はこれを機に若手主体のチームに転換した。松井大輔・朴智星や横浜フリューゲルスの消滅により移籍してきた若手の手島和希・辻本茂樹らを積極的に起用したため戦力が大幅に上がり、28勝11敗5分けで見事にJ2で優勝を飾った。
2002年は17勝12敗1分けで5位と躍進し、更に天皇杯では優勝を果たした。
フォーメーションは3-4-3。黒部光昭・松井大輔・朴智星の3トップ、中盤は左サイドが鈴木慎吾、右サイドが富田普矢、ボランチが斎藤大輔・石丸清隆、3バックが鈴木和裕・手島和希・角田誠、GKが平井直人。

しかしここからチームは迷走していく。

2003年は朴智星の海外移籍もあり、6勝19敗5分けで16位となり、まさかのJ2降格、このシーズン中に4人も監督が交代するなど混乱が続いた。
2004年は19勝13敗12分けで5位とJ1復帰ならず、05年は松井大輔の海外移籍もあったがFWパウリーニョの加入などで30勝7敗7分けと圧倒的な強さを誇りJ1復帰。

しかし2006年には4勝20敗10分けと散々な成績で3度目のJ2降格となってしまった。

現在は美濃部直彦監督の下、中山博貴・渡邉大剛ら若手を育成しながらチーム戦力を整えJ1復帰を狙っている。
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by wataridori21 | 2007-07-25 18:55

セレッソ大阪(旧・ヤンマーディーゼルサッカー部)

1.ヤンマーディーゼルサッカー部時代

セレッソ大阪の前身はヤンマーディーゼルサッカー部である。
1957年に設立、1965年に開幕したJSL(日本サッカーリーグ)の初代メンバーの名を連ね、リーグ戦の優勝は4回(1971年、74年、75年、80年)、天皇杯での優勝は3回(1968、70、74年)を数える。そして何よりも、「日本サッカー歴代№1ストライカー」の異名を持つ釜本邦茂が在籍した名門チームだった。

1991年にJFA(日本サッカー協会)が発表したJリーグへの参加は当初は財政面などで実現出来ず、1992年に開幕したJFL(ジャパンフットボールリーグ)に参加。
1993年には、Jリーグ参加を目指してヤンマーサッカー部を母体に「セレッソ大阪」を設立。チームスポンサーもヤンマーの他に、日本ハム・カプコンなどが共同出資して実現したのだ。

1994年、JFLで優勝したため、95年のJリーグ参加が決まった。

2.Jリーグ時代(1995~2001年)

Jリーグデビューとなった1995年のフォーメーションは3-5-2。森島寛晃・バルデスの2トップ、トップ下にマルキーニョス、左サイドに神田勝夫、右サイドに木澤正徳、ボランチは梶尾智・皆本勝弘、3トップに村田一弘・トニーニョ・川前力也、GKにジルマール。この年は25勝27敗で8位となった。

1996年も、前年からオランダ留学していた西澤明訓が途中復帰したが、10連敗を含む10勝20敗で13位と低迷、97年は16勝16敗で初の勝率5割となり11位、98年は韓国代表(当時)の黄善洪を獲得して15勝19敗ながら9位。

99年はFW黄善洪が得点王を獲得する活躍で19勝11敗で6位と大きく躍進、しかし黄善洪はこのシーズン限りで移籍。
2000年はFW西澤明訓の活躍などで第1ステージ2位となり、17勝13敗で総合5位。続く天皇杯もベスト8進出を果たした。
この年のフォーメーションは4-5-1。西澤明訓の1トップ、中盤はトップ下に森島寛晃、左サイドに西谷正也、右サイドに慮廷潤、ボランチに尹晶煥・田坂和昭、4バックに鈴木悟・斎藤大輔・藏田茂樹・清水和男、GKに下川誠吾。

2001年は、前年の躍進の後だけに期待されたが、8勝20敗2分けと大きく負け越してしまい16位となり、J2降格が決まった。

3.Jリーグ時代(2002~2006年)

2002年は試練のシーズンだったが、若手成長株の大久保嘉人、前年に海外移籍していた西澤明訓の活躍などが光り25勝7敗12分けで2位、1年でJ1復帰を果たした。

2003年は第1ステージを5位で折り返す健闘を見せたが失速し12勝14敗4分けで総合9位、04年は6勝16敗8分けとなり、あわや入れ替え戦突入の15位。オフに大久保嘉人が海外へレンタル移籍した。

2005年はFW西澤明訓・MF下村東美の活躍などで16勝7敗11分けで5位に躍進。フォーメーションは3-6-1。西沢明訓の1トップ、トップ下に古橋達弥・森島寛晃、左サイドにカルロス、右サイドに久藤清一、ボランチにファビーニョ・下村東美、3バックに柳本啓成・クアドロス・前田和哉、GKに吉田宗弘。

しかし2006年に落とし穴が待っていた。シーズン途中に加入の名波浩の活躍などがあったが、6勝19敗9分けで17位となり、2度目のJ2降格となった。

2007年は都並敏史監督の指揮の下に、巻き返しが期待されている。
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by wataridori21 | 2007-07-24 22:59

柏レイソル(旧・日立製作所サッカー部)

1.JSL時代(日立製作所サッカー部時代)

柏レイソルの前身は日立製作所サッカー部である。設立されたのは1940年、「日立製作所本社サッカー部」が最初の名称である。戦前からある、非常に長い伝統を持つチームであった。

1965年に始まったJSL(日本サッカーリーグ)に当初から参加しており、1969年に「日立製作所サッカー部」に名称変更され、1972年にはリーグ初優勝した。しかしJSL1部制覇はこの1回のみ、天皇杯は2回優勝(1972、75年)している。

1970年代後半からは年々成績を落としていき、1986/87年シーズン終了後にJSL2部に降格。1987/88年シーズンでは準優勝して1部に復帰するが1989/90年シーズン終了後に再び2部に降格、1990/91年に1部復帰と、1980年代はとても不安定な戦力となっていた。

1992年に開幕したJFL(ジャパンフットボールリーグ)に参加し、この時「日立フットボールクラブ」に名称変更。93年は5位。94年にはJFLで2位となり、1位のセレッソ大阪とともにJリーグ参加が実現した。その際にチーム名を「柏レイソル」にした。

2.Jリーグ時代(1995~1999年シーズン)

Jリーグ参加1年目の1995年は21勝31敗で12位だったが、第2ステージでは5位と、まずまずの成績を残した。フォーメーションは4-4-2。カレカ・ミューレルの2トップ、トップ下に柳田伸・加藤望、ボランチに下平隆宏・バウディール、4バックに大場健史・ネルシーニョ・渡辺毅、GKに加藤竜二。

1996年から西野朗監督が就任。この年は20勝10敗で5位、97年は18勝14敗で総合7位、98年は18勝16敗で総合8位。99年には20勝9敗1分けで総合3位、そしてナビスコカップで初優勝。思えばこの時期が一番戦力が充実していた。

3.Jリーグ時代(2000~2006年シーズン)

2000年シーズンは21勝8敗1分けで3位。この時のフォーメーションは3-5-2。
加藤望・北嶋秀朗の2トップ、トップ下に大野年隆、左サイドに平山智規、右サイドに渡辺光輝、ボランチに明神智和・荻村滋則、3バックに薩川了洋・洪明甫・渡辺毅、GKに南雄太。

2001年、4シーズン目を迎えた西野朗監督だったが途中で辞任し、ベリマン監督が就任し14勝13敗3分けで総合6位と健闘。しかし2002年は10勝17敗3分けで総合12位、03年も9勝11敗10分けで総合12位、04年は5勝15敗10分けで16位となったが入れ替え戦では勝利してJ1残留が決まった。

2005年は8勝15敗11分けで16位となり入れ替え戦では敗退し、遂にJ2陥落が決まった。
06年は石崎信弘監督が就任し、27勝14敗7分けでJ1復帰が決まった。
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by wataridori21 | 2007-07-22 23:10