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愛媛FC(旧・松山サッカークラブ)

1.松山サッカークラブ時代

愛媛FCの前身はクラブチームの松山サッカークラブである。

1970年に愛媛県松山市に誕生し、四国社会人リーグの強豪として長く活躍してきた。
1995年、将来のJリーグ参加を目指してチーム名を「愛媛フットボールクラブ」に名称変更。

1997年には愛媛県立南宇和高校の石橋智之監督が同チームの総監督に就任。石橋総監督は自身が育てた南宇和島高OBをチームに加入させ、兵頭龍哉監督の体制でリーグ戦に臨み、四国社会人リーグで1998年から2000年まで3連覇を成し遂げ、JFL(日本サッカーリーグ)への昇格を決めた。

2001年、大西貴監督でJFL初参戦に臨み、01年は12位、02年は6位、03年は3位、04年は5位と好成績を続けていたが、チーム運営会社の予算が伸び悩み、使用するスタジアム改修工事のめどが立たず、なかなかJリーグ入りに足を踏み出せずにいた。

しかし2005年に転機が訪れた。ホームタウンの愛媛県がスタジアム改修工事を行う目処が立ち、更なる財政的な支援を愛媛県が行う事などが決まった為、Jリーグ側も同チームのJ2参入を了承。
この年のJFLで見事に優勝を果たし、念願のJ2参加が実現した。

2.Jリーグ時代(2006年)

2006年、前年から望月一仁が監督を務め、初年度から14勝11分け23敗で9位とまずまずのスタートを切った。
フォーメーションは3-5-2。田中俊也・江後賢一の2トップ、中盤は左サイドに赤井秀一、右サイドに菅沼実ボランチに井上秀人・高萩洋次郎、4バックに松下幸平・星野真吾・金守智哉・森脇良太、GKに川北裕介。

2007年、J2参入2年目を迎え、更なる飛躍が期待されている。
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by wataridori21 | 2007-08-13 16:37

徳島ヴォルティス(旧・大塚製薬サッカー部)

1.大塚製薬サッカー部時代

徳島ヴォルティスの前身は大塚製薬サッカー部である。

大塚製薬サッカー部は1955年に製薬会社の大塚製薬が設立した歴史あるサッカー部で、1978~80年に掛けて四国社会人リーグ3連覇を果たすなど、当時の徳島県では代表的な強豪チームだった。

1990年にJSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格、1992年に開幕したJFL(ジャパンフットボールリーグ)1部に参加。
1993年にJリーグが開幕すると、地元・徳島県サッカー協会が参加を目指して、大塚製薬サッカー部を母体にチームを設立する動きを見せた。しかし大塚製薬側はあくまでアマチュアチームとして存続させる事を決めた為に断念。
1995年にチーム名を「大塚FCヴォルティス徳島」に改称。
1999年、新たに設立されたJFL(日本フットボールリーグ)に参加し、チーム名を「大塚製薬サッカー部」に戻した。

その後も大塚製薬はJFLでは強さを発揮し続け、2003年には遂にJFL初優勝を果たす。
転機となったのは同年、徳島県知事に就任した飯泉嘉門知事が選挙公約に掲げていた「徳島県にJリーグチームをつくる」を実現するべく動き出した事だった。
飯泉知事は県庁にプロジェクトチームを立ち上げ、大塚製薬もチーム委譲を承諾し新チームへの出資も約束した。

2004年に大塚製薬サッカー部はJFLで2年連続優勝を飾り、J2参入も決定。新チーム名も「徳島ヴォルティス」に決まった。
2005年、02年に徳島県サッカー協会が主体となって設立していた「徳島FCカバロス2002」を徳島ヴォルティスの下部組織とした。

2.Jリーグ時代(2005~2006年)

2005年→12勝16分け16敗で9位
2006年→8勝11分け29敗で13位

2005年、J2参入1年目は田中慎二監督が指揮を執り、9位と健闘。
2006年、期待されたシーズンだったが結果は13位となり最下位となってしまった。
フォーメーションは3-5-2。ジョルジーニョ・羽地登志晃の2トップ、トップ下に玉乃淳、左サイドに片岡功二、右サイドに大場啓、ボランチにアンドレ・小野雄平、3バックに石田祐樹・井出口純・天羽良輔、GKに高橋範夫。

2007年は今井雅隆監督が就任、チームも3年目となり、巻き返しが期待されている。
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by wataridori21 | 2007-08-13 13:47

ザスパ草津(旧・リエゾン草津)

1.リエゾン草津時代

ザスパ草津の前身はリエゾン草津である。

1995年に設立された「東日本サッカーアカデミー」が同年、将来のJリーグへの進出を目指して「リエゾン草津フットボールクラブ」を設立。同クラブは地元の群馬県社会人リーグで実績を挙げ続けた。
しかし東日本サッカーアカデミーは1999年に閉鎖されてしまい、チームは存続の危機に直面した。すると地元・草津温泉の関係者や地元サッカークラブの人々が援助をし、所属する選手達もアルバイトをしながら試合を重ね、チームを社会人リーグ2部に留まらせてきた。

2001年に群馬県社会人リーグ2部で優勝。
2002年に奥野僚右を選手兼監督、小島伸幸を選手兼コーチとして、チームを「ザスパ草津」に名称変更。同年群馬県社会人リーグ1部で優勝。
2003年にチーム運営会社「㈱草津温泉フットボールクラブ」を設立。これによりJリーグ参入を目指す体制が整った。
同年、関東社会人リーグ2部で優勝。
更にJFA(日本サッカー協会)がJリーグ参入を目指すチームのために設置した「飛び級制度」をザスパ草津に適用、これにより地域リーグ決勝大会に出場して優勝。これによりJFL(日本フットボールリーグ)に昇格が決まった。

2004年、JFL初参戦となったこの年は植木繁晴監督の指揮の下に3位となり2位チームが休部となった為にJ2参入が決定した。更に直後の天皇杯ではJ1チームに続けて勝利、特に優勝チームだった横浜F・マリノスを破る快挙を成し遂げベスト8進出と、参入に華を添えた。

2.Jリーグ時代(2005~2006年)

2005年→5勝8分け31敗で12位
2006年→9勝15分け24敗で12位

2005年は手塚聡監督で臨んだが他チームとの力の差は歴然で参入1年目は最下位。
2006年は植木繁晴監督が復帰し巻き返しを狙ったが13チーム中の12位と低迷。
フォーメーションは3-5-2。高田保則・吉本淳の2トップ、トップ下に島田裕介、ボランチに依田聡太郎・中井義樹・秋葉忠宏・山崎渡、3バックに田中淳・鳥居塚伸人・斎藤竜、GKに高木貴弘。

現在、チームの運営環境は万全とは言えず、専用スタジアムの確保や運営費の不足など、数多くの問題を抱えているのが現状である。
しかしホームタウンの草津町や前橋市はもちろん、地元・群馬県のメディアも好意的である。これらサポートする自治体や各種団体・地元サポーターのバックアップがあることから、おそらく数年後にはチーム基盤が固まるだろう。
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by wataridori21 | 2007-08-13 12:57

水戸ホーリーホック(旧・プリマアセノFC)

1.プリマアセノFC時代

水戸ホーリーホックの前身はプリマアセノFCである。

1990年、茨城県土浦市にあるプリマハム土浦工場で「プリマアセノFC」が結成されたのが始まりで、地元・茨城県の地域リーグで実績を積み、1996年地域リーグで準優勝し1997年にJFL昇格を決めた。
しかし同年、親会社のプリマハムがサッカー部支援打ち切りを決めた為に、同じ地元の「フットボールクラブ水戸」と合併し、チーム名も「水戸ホーリーホック」に改称した。

1999年にJFLで3位と健闘した為、翌年からのJ2昇格を決めた。

2.Jリーグ時代(2000~2002年)

2000年、バビチ・フランコ監督の下、フォーメーションは4-4-2。
村田教生・須藤大輔の2トップ、中盤には左サイドに菅野賢一、右サイドに富田大介、ボランチに山村泰弘・北島義生、4バックに磯野修久・渡辺卓・辛島啓珠・鳥羽俊正、GKに本間幸司。

しかし、J2参加1年目から成績は思うようには伸びず、毎年のように監督が交代する悪循環が続いていた。

2000年→15勝4分け21敗で9位
2001年→8勝4分け32敗で11位
2002年→11勝7分け26敗で10位

J2参加して以来、チーム運営する上での年間予算が少なく、大きな戦力補強が行えない上に平均観客動員数が1000~2000人と他チームに比べて極端に少なく、若手の放出による移籍金で赤字を埋め合わせる状態が続き、それが更なる戦力低下に繋がる悪循環が続いた。

3.Jリーグ時代(2003~2006年)

2003年に前田秀樹監督が就任し、これより守備力重視のチームへの強化が始まった。この年はレンタル移籍のトゥーリオ(後の田中マルクス闘利王)がセンターバックに入り飛躍的に守備力が向上した為15勝11分け18敗で7位と躍進した。(ただしトゥーリオはこの年限りで浦和に移籍)
その後の成績は次の通り、

2004年→6勝19分け19敗で9位
2005年→13勝13分け18敗で10位
2006年→14勝9分け25敗で10位

2006年のフォーメーションは4-4-2。アンデルソン・西野晃平、中盤は左サイドに眞行寺和彦、右サイドに桑原剛、ボランチに椎原拓也・小椋祥平、4バックに大和田真史・時崎悠・吉本岳史・倉本崇史、GKに武田博行。

しかし毎年のように主力が他チームに移籍していった事もあり、チーム成績が思うように伸びるまでには至らず、苦しいシーズンが続いている。

2007年で前田体制も4年目を迎えたが、前途多難を余儀なくされているのが現状である。
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by wataridori21 | 2007-08-12 17:14

サガン鳥栖(旧・鳥栖フューチャーズ)

1.鳥栖フューチャーズ時代

サガン鳥栖の前身は鳥栖フューチャーズである。

1987年、静岡県浜松市に市民クラブチーム「PJMフューチャーズ」が設立されたのが始まりで、設立当初から地域リーグで無敵の強さを誇り、91連勝の記録を打ちたて1993年にJFLに昇格、同年JFL2部で2位。
1994年には佐賀県鳥栖市からのサッカーチーム誘致に応じて移転、同年にチーム運営会社「佐賀スポーツクラブ株式会社」も設立された。
地元・鳥栖市での人気も高く、順風満帆と思われたが、1994~96年に掛けて3年連続で4位になった為スポンサーのPJMが撤退、一気に財政難に直面し、1997年に運営会社が経営破綻、チームが解散してしまった。

その後地元サポ-ター達がチーム再興の署名活動を展開し、任意団体「サガン鳥栖」が誕生、監督に楚輪博を招聘してチームは再出発する事となった。
1998年にJFLで8位となり、翌年のJ2発足に伴い、チームは「株式会社サガン鳥栖」として再法人化、念願のJリーグ参加が実現したのである。

2.Jリーグ時代(1999~2003年)

1999年、楚輪博監督の指揮の下、フォーメーションは4-4-2。
福留亮・竹元義幸の2トップ、トップ下に中村伸、左サイドに古賀正人、右サイドに小林悟、ボランチに井原康秀、4バックに森保洋・佐藤陽彦・川前力也・島岡健太、GKに高寄理貴。

しかしチーム運営会社「株式会社サガン鳥栖」は、小口の株主達による集団経営体制をとった為に経営方針が定まらず、緊縮経営であるが故に戦力補強もままならず、チーム成績は低迷を続け、観客動員数も伸び悩み累積赤字が年々膨らんでいった。

1999年→12勝2分け22敗で8位
2000年→15勝5分け20敗で6位
2001年→10勝4分け30敗で10位
2002年→9勝14分け21敗で9位
2003年→3勝11分け30敗で12位

3.Jリーグ時代(2004~2006年)

2004年から松本育夫監督が指揮をとり、この年は低迷したが、翌年から次第に成績は好転した。

2004年→8勝11分け25敗で11位
2005年→14勝10分け20敗で8位
2006年→13勝8分け13敗で4位

2006年のフォーメーションは4-5-1。新居辰基の1トップ、トップ下に山口貴之、左サイドに山城純也、右サイドに濱田武、ボランチに尹晶煥・高橋義希、4バックに高地系治・金裕晋・加藤秀典・長谷川豊喜、GKにシュナイダー潤之助。

赤字経営が続いていたチーム運営会社の業績は悪化の一途を辿っていたが、2005年1月に人材派遣会社社長・井川幸広が社長を務める「株式会社サガンドリームス」に経営権を移譲、旧・運営会社は解散。
松本育夫監督は、運営を圧迫する大型補強を避け、新居辰基・高橋義希ら若手育成を進めて戦力アップに成功し、2006年限りで勇退しGMに昇格した。後任にヘッドコーチの岸野靖之が就任している。

一時の危機的状況からは脱しており、更に観客動員も近年は増加傾向にあり、いよいよJ1昇格が見えてきているのが現状である。
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by wataridori21 | 2007-08-12 16:14

モンテディオ山形(旧・NEC山形)

1.NEC山形時代

モンテディオ山形の前身はNEC山形である。

1984年、NEC山形鶴岡工場内で「NEC山形サッカー同好会」が設立。地元・鶴岡市にある地区リーグで実績を積み、1987年には「べにばな国体」(1992年開催)の強化指定チームに指定を受けた。
1989年に開幕した山形県リーグで初代王者となり、1990年の東北地域地ーグでは初出場・初優勝、さらに93年まで同リーグ4連覇を果たすなど、東北地方随一の強豪チームに成長。
1992年の「べにばな国体」が終了した翌93年2月、昇格決定戦で勝利を収めJFL(ジャパンフットボールリーグ)に参入を果たした。

1994年より石崎信弘監督が就任、同監督は4年間務め1998年にはJFL3位を記録する強豪チームに成長させた。
1996年、チーム名も「モンテディオ山形」に改称。
1998年、チーム運営会社として社団法人・山形県スポーツ振興21世紀協会が設立され、99年のJ2開幕を迎えることとなった。

2.Jリーグ時代(1999~2002年)

1999年、植木繁晴監督の下でスタートし、15勝4分け17敗で7位。
フォーメーションは4-4-2。真下佐登史・ムタイルの2トップ、トップ下にバウテル、左サイドに高橋健二、右サイドに平間智和、ボランチに吉田達磨、4バックに太田雅之・本街直樹・佐藤淳志・岩元洋成、GKに鈴木克美。
2000年は11勝2分け27敗で10位と低迷し植木監督は辞任。

2001年は柱谷幸一監督が就任し27勝6分け11敗で3位と躍進。
フォーメーションは4-4-2。大島秀夫・根本亮助の2トップ、中盤は左サイドに佐藤悠介、右サイドに高橋健二、ボランチに浮氣哲郎・永井篤志、4バックに鈴木健太郎・鷲田雅一・渡辺卓・太田雅之、GKに鈴木克美。

2002年は開幕前から主力の放出が続き戦力が低下、6勝17分け21敗で11位。

3.Jリーグ時代(2003~2006年)

2003年は15勝10分け19敗で8位となり、柱谷幸一監督は辞任。
2004年は鈴木淳監督が就任し、FW大島秀夫の活躍などもあったが19勝14分け11敗で惜しくも4位。
2005年は16勝16分け12敗で5位となり鈴木監督は辞任。
2006年は横浜F・マリノス出身でコーチ経験の長い樋口靖洋が監督に就任し、17勝14分け17敗で8位。
フォーメーションは4-4-2。レアンドロ・林晃平の2トップ、中盤は左サイドに財前宣之、右サイドに佐々木勇人、ボランチに渡辺匠・永井篤志、4バックに内山俊彦・小原章吾・レオナルド・臼井幸平、GKに清水健太。

現在モンテディオ山形は、観客動員数・スポンサー収入がJリーグ31チーム中の最下位。
運営会社が「公益法人」である事が影響しているのか、他チームに比べても経営体質改善が十分とは言いがたい印象があり、早期の運営改革が急がれているのが現状である。
しかしJ2で好成績を収め、あと1歩でJ1昇格できる所まで躍進したシーズンも幾つかあり、潜在能力のあるチームではある。それだけに巻き返しが期待されている。
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by wataridori21 | 2007-08-12 14:30

横浜FC(母体チームはなし)

1.JFL時代

1998年、Jリーグ開幕当初から参加していた横浜フリューゲルスが、横浜マリノスとの合併して消滅した。
横浜フリューゲルスのサポーターはチーム存続を希望し、自らクラブチームを発足させた。全くのゼロから作り上げ、Jリーグ復帰を目指して奮闘の日々が始まった。

しかし何の母体も持たず、ゼロからスタートの市民サッカークラブということもあり、前途多難は必至。急造で拵えた即席チームではあったが、JFA(日本サッカー協会)は特例として「Jリーグ準会員」の資格を与え、地域リーグではなく、1年目からのJFL(日本フットボールリーグ)参加が認められた。そして監督にリトバルスキーが就任した。

1999年、チーム創立1年目はリトバルスキー監督の采配が光り、いきなり1位。正会員」となった2000年も2年連続優勝を勝ち取り、2001年からJ2昇格が決まった。

2.J2時代(2001~2006年シーズン)

2001年、J2参加1年目のシーズンは永井良和監督を迎えたが15勝1分け28敗で9位。フォーメーションは4-2-3-1。
有馬賢二の1トップ、トップ下に小野信義、左サイドに横山博敏、右サイドに増田功作、ボランチに後藤義一・高木成太、4バックに森田慎吾・真中幹夫・高田昌明・重田征紀、GKに水原大樹。

2002年は8勝11分け25敗で最下位に落ちてしまい、オフにJFL時代に監督だったリトバルスキーが復帰。更にFW城彰二が加入してきた。しかしなかなかチーム成績は好転しない。

2003年→10勝12分け22敗で11位
2004年→10勝22分け12敗で8位
2005年→10勝15分け19敗で11位

しかし2005年シーズンからFWカズ(三浦知良)、MF山口素弘らが加入し、足立勇輔が新たに監督就任と巻き返しを狙ったチーム改革が進む。

2006年、シーズン開幕2試合目にして監督が高木琢也に交代、鉄壁の守備陣を敷き、この年限りで引退したキャプテンFW城彰二の活躍などもあり、この年26勝15分け7敗で何と優勝、見事にJ1昇格が決まった。
フォーメーションは4-4-2。城彰二・アレモンの2トップ、中盤は左サイドにアウグスト、右サイドに内田智也、ボランチに山口素弘・吉野智行、4バックに小野智吉・早川知伸・鄭容臺・雀成勇、GKに菅野孝憲。

1999年のクラブチーム設立から7年、悲願のJ1昇格が実現したのである。
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by wataridori21 | 2007-08-05 00:29

大分トリニータ(旧・大分トリニティ)

1.大分トリニティ時代

大分トリニータの前身は、クラブチームの大分トリニティである。
大分トリニティは1994年に設立されたのだが、チーム母体はなく、全くのゼロの状態での船出となった。「トリニティ」の名の通り、県民・企業・行政が一体となって作り上げた、文字通り「手作りのチーム」である。

1994年、大分県リーグ1部に出場1年目にして優勝し、95年には九州社会人リーグに所属、そこでも1年目にして優勝しJFL(ジャパンフットボールリーグ)に昇格。
1998年にJFLで6位となり、1999年にJ2が設立されたため参加、この時チーム名を「大分トリニータ」に改称した。

2.Jリーグ時代(1999~2002年シーズン)

1999年、J2参加1年目は21勝3分け12敗、2位と僅差の3位と大健闘だった。
石橋信弘監督の下、フォーメーションは3-5-2。塩川岳人・神野卓哉の2トップ、トップ下にウィル、左サイドに雀大植、右サイドに若松大樹、ボランチに山根巌・エドウィン、3バックに村田一弘・平岡靖成・吉村寿洋、GKに小山健二。

2000年は、この年のみ加入のDFシジクレイの活躍などもあり26勝3分け11敗で2年連続の3位。
2001年はシーズン途中から小林伸二監督に交代したが25勝4分け15敗で6位。そして2002年シーズンは28勝10分け6敗で見事に優勝を勝ち取り、念願のJ1昇格となった。

3.Jリーグ時代(2003~2006年シーズン)

2003年、J1ファーストシーズンは5勝11分け14敗で辛くも14位でJ1残留となった。
フォーメーションは4-4-2。高松大樹・吉田孝行の2トップ、中盤は左サイドは寺川能人、右サイドに梅田高志、ボランチにエジミウソン・瀬戸春樹、4バックに有村光史・三木隆司・サンドロ・山崎哲也、GKに岡中勇人。

2004年は8勝6分け26敗で13位、
2005年はシーズン途中からシャムスカ監督が就任。12勝7分け15敗で11位。

2006年は13勝8分け13敗で8位と健闘、知将で名高いシャムスカ監督の手腕が光った。
フォーメーションは3-5-2。松橋章太・高松大樹の2トップ、トップ下に梅崎司、左サイドに根本裕一、右サイドに高橋大輔、ボランチにトゥーリオ・エジミウソン、3バックに上本大海・三木隆司・深谷友基、GKは西川周作。

シャムスカ監督の手腕で、今後のチームがどういう形に成長していくのか楽しみにしたい。


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by wataridori21 | 2007-08-03 23:33

ヴァンフォーレ甲府(旧・甲府サッカークラブ)

1.甲府サッカークラブ時代

ヴァンフォーレ甲府の前身は甲府サッカークラブである。
県立甲府第一高校OBが設立した「鶴城クラブ」がチームの始まりで、1965年に開幕した全国社会人サッカー選手権に参加した。この大会は、同年に開幕したJSL(日本サッカーリーグ)の下に位置し、1・2位になったチームはJSLとの入れ替え戦に参加できる特典があった(その後JSLに2部が設立した際に、この特典は廃止された)。結果はベスト8に終わったが、他の高校OBも加入して参加した為、この時にチーム名を「甲府サッカークラブ」に改称した。

1967年には、関東社会人リーグに参加。1969年には全国社会人サッカー選手権大会で優勝、70年にも準優勝を決めたが入れ替え戦でいずれも敗退。1972年にJSL2部が設立されると参加。しかしその後は1部昇格する事無く1992年のJSL閉幕を迎えた。

1992年に設立されたJFL(ジャパンフットボールリーグ)2部に参加、93年の1・2部統合後もJFLにとどまり続けた。

1995年、Jリーグ参加を目指してチーム名を「ヴァンフォーレ甲府」に改称し、同チームOBの塚田雄二新監督でJFLに挑んだ。しかし成績は9位と振るわず、その後も成績が上向くことなく1998年に4位の好成績につけると、オフにJ2が設立された事に伴い、同チームもJ2に参加。

2.Jリーグ時代(1999~年シーズン)

1999年、J2参加1年目は勝俣進監督の下、5勝4分け27敗で10位で最下位。フォーメーションは4-4-2で堀井岳也・大柴克友の2トップ、中盤は左サイドに渡辺晋、右サイドに金子誠、ボランチに斉木和人・阿井達也、4バックに木村哲昌・萩原慎也・仲田建二・石原大助、GKに坂本武久。

2000年は塚田雄二監督が復帰したが19連敗を含む5勝3分け32敗で11位で2年連続最下位。2001年はヘイス監督で臨んだが8勝2分け34敗で12位となり3年連続で最下位。

この時期にはチーム運営会社が経営危機に直面していた。1995年以来、スポンサーに有力企業がない為に毎年赤字を計上し続け、毎年有力選手を補強するが成績は伸びずシーズン終了後に選手が退団して戦力ダウン、翌年には連敗が続いて観客の減少。対策もままならず、2000年には有力な支援機関であった山梨県や甲府市が支援打ち切りを表明してしまう。

これにサポーターが存続希望の署名活動を展開、さらにJリーグの川淵三郎チェアマン(当時)が山梨県・甲府市に支援を要請した。それに対し同自治体は、存続条件として「広告収入5000万円、平均入場者3000人、サポーター会員5000人」を挙げた。

2001年に地元メディアグループ・山日YBSグループ取締役の海野一幸が社長に就任。同社長は就任後に県内各地を回り、小口のスポンサーを大量に獲得する方式で広告収入を獲得した。更に選手達には県内の各種イベントに積極的に参加させてPR活動をさせて、クラブのサポーターを年々増やし観客動員を増加させる事に成功。これにより2002年度のチームは単年度決算で黒字を計上出来るまでに回復させた。

2002年は大木武監督が指揮を執り、16勝10分け18敗で7位と躍進した。

3.Jリーグ時代(2003~2006年シーズン)

2003年は松永英機監督が指揮を執り、FW藤田健と新加入FW小倉隆史との2トップが機能して19勝12分け13敗で5位と更に躍進。
2004年も15勝13分け16敗で7位と、J2の中位を常に維持する成績を残せるようになった。

2005年は大木武監督が復帰し、FWに大宮からFWバレーが移籍と、万全の戦力でシーズンに臨んだ。フォーメーションは4-3-3。バレー・長谷川太郎・石原克哉の3トップ、中盤は左サイドに藤田健、右サイドに倉貫一毅、ボランチに奈須伸也、4バックに井上雄幾・津田琢磨・池端陽介・杉山新、GKに阿部謙作。
この年は19勝12分け13敗で3位となり、柏レイソルとの入れ替え戦に勝利し、念願のJ1昇格を果たした。
2006年、J1参入1年目は12勝6分け16敗で15位となり辛くも残留となった。


一時は破綻寸前だったヴァンフォーレ甲府も近年は安定した運営を続けている。
広告収入、クラブサポーター、1試合平均での観客動員数に大幅な改善が表れている。

2000年度は、広告収入が2600万円、サポーターが2698人、観客数が1850人
2005年度は、広告収入が2億4600万円、サポーターが5771人、観客数が6931人
※ちなみにJ1昇格1年目の2006年の1試合での平均観客数は12213人となっている。

現在では累積債務は解消されるには至らないものの、毎年黒字を計上する優良チームに変身した。これは他の財政難のチームからも大きな注目を集めており、予算の少ないチームなりの運営手法がある事を証明している。とても興味深いチームである。
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by wataridori21 | 2007-08-02 20:50

アルビレックス新潟(旧・新潟イレブンサッカークラブ)

1.新潟イレブンサッカークラブ時代

アルビレックス新潟の前身は新潟イレブンサッカークラブである。

新潟イレブンサッカークラブは1955年に結成され、その後クラブチームとして地道に活動を続けていた。1986年に地元の北信越リーグに昇格し、参加1年目にして優勝。その後も同リーグの強豪として活躍。

1992年、FIFAワールドカップ開催地に日本が候補になった事から、新潟県が国内開催候補に名乗りを挙げた。
1993年に正式に新潟県が候補地に決定した為、同県では地元にプロサッカーチームを設立する構想が挙がった。そこで、北信越リーグで好成績を挙げていた新潟イレブンSCを強化してJFL・Jリーグへと昇格させようという事になった。
そして1994年にチーム名を「アルビレオ新潟」に改称したのである。

1996年にチーム運営会社「株式会社アルビレオ」が設立。同年、北信越リーグで優勝し、チーム名を「アルビレックス新潟」、運営会社も「株式会社アルビレックス新潟」に改称した1997年も2年連続優勝を果たし、1998年1月に開催された全国地域リーグ決勝大会で2位となり、JFL昇格が決まった。

1998年にJFLに昇格し活躍、1999年J2発足の際に加入となった。

2.Jリーグ時代(1999~2002年シーズン)

1999年、J2参加1年目は20勝2分け14敗で4位と健闘。永井良和監督の下、フォーメーションは4-4-2。鳴尾直軌・サウロの2トップ、中盤は左サイドに水越潤、右サイドにリカルド、ボランチに瀬戸春樹・秋葉忠宏、4バックに中野圭一郎・高橋直樹・セルジオ・木澤正徳、GKに木寺浩一。
2000年は15勝5分け20敗で7位と低迷し、永井良和監督は辞任し反町康治監督が就任。2001年、ホームグラウンド「新潟スタジアム」(愛称・ビッグスワン)が完成し、この年から使用が開始。チームも26勝4分け14敗で4位と躍進。
2002年は23勝3分け8敗で3位と、いよいよJ1昇格がすぐそばまで見えてきた。

3.Jリーグ時代(2003~2006年シーズン)

2003年、27勝7分け10敗でJ2優勝を決め、遂にJ1昇格を果たした。すでに3年目を迎えていた反町康治監督の下、フォーメーションは4-4-2。上野優作・マルクスの2トップ、中盤は左サイドにファビーニョ、右サイドに栗原圭介、ボランチに秋葉忠宏・山口素弘、4バックに三田光・丸山良明・アンデルソン・尾崎瑛一郎、GKに野澤洋輔。

2004年、J1昇格1年目は、10月に起きた新潟県中越地震の影響もあったが10勝7分け13敗で総合10位とまずまずの成績となった。

2005年はエジミウソン・ファビーニョ・アンデルソンの3トップが強力な得点力を発揮したが守備力の弱さが響き11勝9分け14敗で12位に終り、反町康治監督は任期5年で辞任。

2006年は12勝6分け16敗で14位となった。鈴木淳監督の下、フォーメーションは4-4-2。矢野貴章・エジミウソンの2トップ、中盤は左サイドにファビーニョ、右サイドに鈴木慎吾、ボランチにシルビーニョ・寺川能人、4バックに梅山修・中野洋司・海本慶治・三田光、GKに北野貴之。

まだまだ発展途上のチームではあるが、2001年以降は年々観客動員数を飛躍的に伸ばし、今やJリーグ1・2を争うほどの観客数を誇るチームとなった。チーム運営会社も、現在は出資する企業・団体は170を数えるまでになり、各方面のプロスポーツ界から「地域密着形チームの代名詞」として注目を集めている。

さらに同チームは近年、様々なスポーツ界に進出している。

2004年→スキー・スノーボードのチーム「チームアルビレックス新潟」
2004年→女子サッカーリーグ・Lリーグ2部所属チーム「アルビレックス新潟レディース」
2005年→陸上競技のクラブチーム「新潟アルビレックスランニングクラブ」
2005年→プロバスケットボール・Bjリーグ所属チーム「新潟アルビレックスBB」
2007年→北信越BCリーグ所属チーム「新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ」

これこそ、Jリーグ発足当初に掲げられた「Jリーグ100年構想」に沿った、理想的な形でのチーム運営と言っていいだろう。

今後の日本のプロスポーツ界のあり方を考える上で、とても注目されているチームである。
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by wataridori21 | 2007-08-02 00:36