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ブログの取り扱いの変更

昨日ブログ閉鎖のお知らせの記事を書いたところ、何人もの方から「復活できなくても閉鎖はしないで欲しい」といった内容のメールを多く頂きました(実は個人的にメール交換していた人達がいて、その人達からの連絡でした)。

そのため、とりあえず閉鎖ではなく、完全放置する事としました。とても有難いことと感謝しています。
今後もスポーツファンの方々にとって少しでも役に立ってくれるなら、ここまでやってきた甲斐もあるのかな…なんて考えています。

存続の連絡をしてくださった方々、本当に有難うございました。

数年後に、また更新が出来る状態になったら復活する事も考えています。その時は宜しくお願いします。

では、その日まで、さようなら。
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by wataridori21 | 2007-09-18 08:44

ブログ閉鎖のお知らせ

こんにちは、管理人の渡り鳥です。

いつもこのブログに来て頂いている皆様へお知らせがあります。

実はこの度、このブログを閉鎖する事としました。突然の事で本当に申し訳なく思っています。
最近僕自身、仕事の関係が忙しく、そろそろスポーツ観戦ファンを卒業するべき時なのではないかと、ずっと思い悩んできました。

でも今日、ようやく決心がつきました。もう引退するべき時なのだと…
いままで沢山の方に来ていただき、本当に楽しいひと時を過ごすことが出来ました。本当にいい思い出になった。

皆様、本当にいままで有難うございました。
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by wataridori21 | 2007-09-17 12:39

大銀杯の授与と第4回極東選手権の不参加

1919年初め、前年同様に関東・東海・近畿の3地区で蹴球大会が開催され、これと同じ時期に、イギリスから大使館を経て大銀杯が送られてきた。

当時、大日本体育協会の嘉納治五郎会長は、知らせを聞き、東京高等師範学校教授・内野台嶺を呼び、こう言ったという(以下「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編、講談社出版)より抜粋)、

イギリス大使を通じイギリスの蹴球協会からわが国の蹴球協会へ銀杯が来ている。それには「全日本蹴球協会の成立を聞き、はるかに祝意を表してこの銀杯を寄贈する。願わくば、駐日イギリス大使と徳川家達公爵とが毎年交互に全国競技大会で優勝したチームに授与するよう取り計らわれたい」という手紙もついているそうだ。
けれども、日本にはそのような協会はまだないのだから、とりあえず蹴球協会ができるまでの条件付きで、大日本体育協会の会長嘉納治五郎としてイギリス大使館へ行って受け取ることにするが、蹴球協会はさっそくにこれをつくりなさい。


1919年3月28日、嘉納会長が銀杯を授与。内野教授はイギリスのグリーン大使やヘーグ書記官と会い、イギリス協会の事情やカップ戦の規約の指導を受けた。ちなみにこの時、日本蹴球協会が設立する際に当時参議院議長を務めていた徳川家達公爵の名誉会長への就任が決まった。

しかし同年5月、マニラで開催された第4回極東選手権大会・蹴球部門への出場は出来なかった。日本は学生中心のチーム編成である事から、大日本体育協会が大会の開催時期を夏休みのある8月への変更を要望し、大会側が断わったので、大会を脱退してしまった為である(ただし体育協会の代わりに有志団体・日本青年運動クラブが陸上・水上・庭球の3種目に選手派遣している)。

そして日本の蹴球関係者は、1921年に開催予定の第5回極東選手権に向けて、国内の組織固めと大日本蹴球協会の設立に動くのである。
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by wataridori21 | 2007-09-13 22:04

「近畿蹴球大会」と「東海蹴球大会」の開催(1918年)

一方、関西では1917年に奈良師範の主催で「近畿蹴球大会」が開催された。
この「近畿蹴球大会」では奈良師範・明星商業・御影師範・京都師範の4校が出場し、トーナメント戦の結果、明星商業が優勝。

翌1918年1月12・13日に、大阪毎日新聞社の主催で「日本フートボール大会」が開催され、「近畿蹴球大会」と同じ奈良師範・明星商業・御影師範・京都師範の他に関西学院高等部・神戸一中・堺中学・姫路師範の計8校が出場し、御影師範が優勝した。
この大会は「ア式蹴球」「ラ式蹴球」の2部門で構成、「ラ式」とはラグビーの試合の事で、当時関西ではラグビーも盛んだった為、同時に行われたのである。
ちなみに「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編、講談社出版)によると、試合のラインズマンを野球担当の記者が行った為、オフサイドなしのルールだったという。

さらに東海地方でも1918年2月17日に、新愛知新聞社の主催で「東海蹴球大会」が開催され、第八高等学校・明倫中学・愛知第一師範・愛知三中の4校が出場、第八高等学校が優勝を収めた。この大会は現在の名古屋市鶴舞公園で行われている。


このように1917・1918年と、日本各地で「蹴球大会」が開催されたが、それぞれ主催者は全く違い、特別連携していたわけではなかった。
しかしこれらの大会を観た海外の通信社の特派員は、さも日本国内では全国レベルでサッカー競技が普及していると勘違いをしたという。

「日本サッカーのあゆみ」には当時をこのように書いている(以下、原文のまま抜粋)、

1918(大正7)年の1月と2月に、関東・中京・関西の3地域で盛んに蹴球大会が行われたということは、芝浦の極東大会の影響とはいえ、まったくはじめてのことだった。それはそれぞれ別個に企画され、実施されたのであったが、外国から来ている通信社の特派員の目には、全日本選手権の地方予選がときを同じくして行われたと映ったようである。しかもそれが日本にナショナル・アソシエーションができて、その行事の一環として行われたように、誤った報道となってロンドンに伝わったのである。
ロンドンにあるフットボールの総本家"The Football Association"は非常に喜んで、日本の蹴球がいよいよ盛んになって欲しいとの願いを込め、優勝チームの為にと大銀杯を送ってくれたのだった。1919(大正8)年3月のことである。


もちろん当時の日本にはサッカー協会はなく、全日本選手権も存在していなかった為、関係者は対策に乗り出し、「大日本蹴球協会」の設立や、「ア式蹴球全国優勝大会」(後の天皇杯・全日本サッカー選手権大会)の開催を実現することになる。
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by wataridori21 | 2007-09-12 18:38

東京蹴球団の設立と関東蹴球大会の開催

極東選手権での惨敗後、日本の関係者は国内のサッカーレベルの向上を目指して全国各地で蹴球大会を開いた。

まず企画されたのは「関東蹴球大会」、主催は東京蹴球団。東京蹴球団は1917年、極東選手権終了からまもなく結成されたクラブチームで、メンバーは師範学校OBで占めていた。
のちに大日本蹴球協会の初代理事を務めた武井群嗣が当時を書いている。(「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編、講談社出版)から抜粋)

大正6年5月に東京芝浦で行われた第3回極東選手権の蹴球競技には日本代表選手の一員として出場し、中国およびフィリピンの両国と戦って散々に敗れた。
しかしこれがよい刺激となって同士の者は蹴球をもっと一般に普及させる為に、まずその指導と奨励を目的とする団体を組織する必要を認め、さしあたり、都市に散在している元の蹴球選手を集めて1つのクラブを設けることを衆議一決、さいわい先輩や同志の骨折りでやがて出来上がったのが東京蹴球団であった。


のちのJFA(日本サッカー協会)初代理事の内野台嶺も書いている。(「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編、講談社出版)から抜粋)

かねて、学校を卒業してしまうと競技を続けてゆくことができないのを残念に思っていた。学生としに対しては機会があるごとに「論語とフットボール」という題で自分の主張は話してきたが、とうとう自分達も1つのチームをつくってゲームを続けてゆく計画を立てるようになった。そこへ芝浦の大会が行われ、中華民国、フィリピンに大敗することとなったので、さっそく、高等師範、青山・豊島両師範の卒業生で、もと選手をしていた人たちを集めて、東京蹴球団をつくった。

関東蹴球大会は1918年2月9日から11日にかけて東京で開催された。主催は東京蹴球団だったが、大会運営の経費は朝日新聞社が負担、大会の宣伝も同新聞社が行っている。
参加チームは豊島師範A、同B、青山師範A、同B、埼玉師範、明治学院、佐倉中学、横浜2中の6校8チーム、決勝は90分、他は60分。

最終日には皇室から6人の若宮をお迎えして開催、決勝戦を経て豊島師範Aが優勝した。
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by wataridori21 | 2007-09-11 06:42

サッカー日本代表の歴史の始まり・第3回極東選手権(1917年)

日本のサッカーチームで最初に国際大会に参加したのは1917年、東京・芝浦で開催された第3回極東選手権である。

極東選手権とは1913年、当時アメリカ領だったフィリピンに設立されていた極東体育協会が主催して開催された、いわば「東洋のオリンピック」と言える大会。およそ2年毎に開催され、1934年の第10回大会まで行われた。
1913年の第1回大会で日本は陸上・野球の2競技のみ参加し、サッカーでは参加せず、15年の第2回大会も参加しなかった。この時の出場チームは中国・フィリピンの2チーム。第1回でフィリピン、第2回では中国が優勝。


1917年の第3回大会は地元・東京で開催されることとなった為、日本もサッカー競技に初参加。しかし当時国内ではまだサッカーがそれほど普及していなかったので、東京高等師範学校チームが単独で出場。

中国の代表は、当時イギリスの植民地だった香港にいた中国人学生が結成したチームで、サッカーの本家イギリスから来た英国人が作ったクラブチームと数多くの試合経験を積んでいた「アジアNo.1」の強豪だった。さらにフィリピンチームには、FCバルセロナでプレーした実績を持つプロ選手が加入していた。
まだサッカーを憶えたての学生チームでは歯が立たず、日本にとって記念すべき「国際大会デビュー戦」は、中国戦で0-5、続くフィリピン戦では2-15の大敗で終わり、参加3チーム中の3位、最下位で終わった。
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by wataridori21 | 2007-09-02 18:21

ブログ再開のお知らせ・その2

長らく放置してしまったけれど、今日からこのブログを再開します。

8月は私事でいろいろ多忙な状態が続き、気が付けば9月に入ってしまった。これからも毎日とはいかないけれど、楽しく書いていきたいです。

さて、今回から「サッカー日本代表」がテーマ。主に国際Aマッチでの記録をもとに書いていきたいと考えています。

僕もサッカーの知識は今だに乏しい状態ではあるけれど、勉強しながら書いていく。お付き合い宜しくお願いします。
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by wataridori21 | 2007-09-02 17:11