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小野寺歩選手(カーリング選手)

僕は最近、テレビドラマ「働きマン」を見ている。

菅野美穂が演じる三十路前の雑誌記者が、結婚するかしないか悩みながらも、仕事に生きがいを感じ、スクープを狙って走り回る、半分コメディ・半分シリアスなドラマ。
元気一杯に飛び回り、仲間やライバルと絡みながら、成功と挫折を繰り返す、観た後には何ともいえない爽快感が残る。今週で4話目を迎えるのだが、すっかりハマってしまった(笑)

その中で印象に残る言葉があった。

「働く、という文字は、人が、動く、と書く
 迷っても、迷っても、とまらずに、動く」


この言葉から、何故か、カーリングの小野寺歩選手を思い出した。

主演の菅野美穂と容姿がよく似ている事もあるけれど、小野寺選手の生き方に「常に、動く人生」を連想するからだ。

彼女の雰囲気が、常に周りに流されず、飄々としていて、肩で風を切って突き進んでいく。言い訳は嫌い、沢山迷う事はあるけれど、結局は足を止めず、自分の信じる通りに進み、自分の生き方に決して後悔しない。彼女を見ていると、いつもそんな感じを持っていたのである。

女性だけど、どこか少年のような純粋さを持った生き方・雰囲気にいつも爽快感を感じる。そんな彼女の姿を見るといつも心地良さを覚える。僕自身、大好きなアスリートである。

そんな彼女が先日(27日)、このほどカーリング競技に選手として復帰することが報道された。

復帰戦は、12月に北海道北見市で開催される「第1回ミックスダブルス日本選手権(※)」の予選大会からとの事(予選は11月に開催する)。
ペアの相手は、かつて長野五輪(1998年)で話題を集めた日本代表チームの名スキップ・敦賀信人選手。敦賀選手は北海道常呂町(現在の北見市常呂自治区)出身で、同郷の小野寺選手がソルトレイク五輪・トリノ五輪に出場した際に相談相手にもなっていた人物である。

いよいよ復帰するのですね。

競技大会の解説や講演する姿も良いけれど、やはり彼女には「現場」を走り回る、元気よく声を上げて競技に打ち込む、カーラーとして「働く」姿が一番似合う人だ。

小野寺選手、現役復帰おめでとうございます。
これからも頑張ってください!


※ミックスダブルスとは男女2人でペアを組んで対戦するカーリングの種目で、今シーズンから開始する新競技である。2014年に開催予定の冬季五輪・ソチ大会から正式種目化することを目標に、世界カーリング連盟(WCF)が設立した。12月の日本選手権で優勝すると、来年3月の世界選手権(フィンランド)に日本代表として出場する事ができる。
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by wataridori21 | 2007-10-31 00:37

安藤美姫選手(フィギュアスケート選手)その3

いよいよ今日(10/27)からグランプリシリーズが開幕する。

第1戦はスケートアメリカ。女子は期待の安藤美姫選手が出場する。前にもこのブログで詳しい経歴は書いたので、ここではあえて書かない。女王としての演技が今シーズン、どこまで伸びていくのか今から楽しみだ。

Number620(2005年2月10日号)では、当時まだ17歳だった頃の安藤選手が特集されていた。
すでに3年前(2002年)のジュニアグランプリシリーズにて、女子選手では初となる4回転サルコウを成功させ、2003・04年と全日本選手権連覇を達成し、この年、日本女子選手では人気・実力No.1の呼び声が高くなってきていた。
この記事では3月にモスクワにて開催される事になっていた世界選手権への出場を前に、取材を受けたのである。
前年暮れのグランプリシリーズでの事、年末年始のエキシビションやアイスショーで多忙となり、殆ど家族と過ごせなかった事、自身のトレードマークであるジャンプの事、前年の世界選手権の覇者・荒川静香選手や当時14歳で自身の練習相手でもあった期待の若手・浅田真央選手、幼少の頃に師事した門奈裕子コーチやシニアとなってから師事していた佐藤信夫コーチの事、自身の引退時期の事、プライベートでの恋の話…

そして自分自身の内面について、こう話した(以下、原文のまま抜粋。著者は宇都宮直子氏)、

「みんな、美姫のこと、強いって言うけれど、美姫は人が思っているほど強くないんです。精神的にも弱くて、人に何か言われるとすぐに悲しくなるし、泣いてしまう」

この記事から今日まで、僅か2年半あまり。
人はここまで変われるものなのだろうか?

トリノ五輪での挫折、強烈なバッシングを乗り越え、今年(2007年)の世界選手権での優勝。キスアンドクライでの涙は印象的だった。

本当にたくましくなった、本当に…
もう気安く「ミキティ」なんて呼べなくなったね…

今年は真価を問われるシーズンとなるのは間違いない。去シーズンは「挑戦者」として各大会を乗り越えた。しかし今シーズンは違う。
彼女は今シーズン中、常に「女王」の称号がついて回る立場になった、つまり「他の全女子選手から追われる立場」に変わったのである。この重圧に耐えて、長いシーズンを乗り越えなければならない。まだ19歳の彼女が、これから沢山の苦難に正面から立ち向かっていかなければならない。

先日の日米対抗戦を観るかぎり、体調は万全ではない。
けれどもこの苦難は何としてでも乗り越えて欲しい。ここを乗り越えれば誰もが認める「真の女王」になれる。
世界中のフィギュアスケートファンの記憶に残る選手として、一時代を築いて欲しい。

僕自身、心から応援していますので、安藤選手、頑張ってください。
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by wataridori21 | 2007-10-27 02:08

第6回極東選手権(1923年)とウィリアム・ヘーグ書記官

1923年、第6回極東選手権が開催された。

蹴球協会や全日本選手権を設立したりと体制はかなり整い、更に開催地が地元の大阪市立運動場とあって、日本の関係者の間ではこの大会にかなりの期待が集まっていた。しかし前回大会では選抜チームの「全関東蹴球団」が出場していたが、この大会では再び予選を勝ち上がったチームを代表に送り込む事となった(これについてのいきさつは僕自身調べたが、よく分からない)。

前年の1922年11月の第2回ア式蹴球全国優勝大会は、極東選手権の予選を兼ねて開催され、決勝戦で名古屋蹴球団が広島高等師範に勝利した。その後、この名古屋蹴球団と、関西学院や明星商業OBで構成されたクラブチーム「関西サッカー倶楽部」が対戦し、3試合を経て2勝1敗で関西サッカー倶楽部が勝利、同倶楽部が代表権を獲得した。

そして1923年5月に第6回極東選手権は開幕した。

同5月22日にはサッカー競技が開始。日本は23日にフィリピンと対戦、前半に清水隆三による先制で1-0とリードしたが、後半に2点を返され1-2と惜しくも敗退。24日には中国と対戦したが、1-5で連敗(その中国チームのFWには、後にFIFA副会長になる李恵堂も参加していた)。またも日本チーム初勝利はならず、最下位(3位)となった。


この年の9月1日は、東京にて関東大震災が起こり多くの犠牲者を出したのだが、その中に大日本蹴球協会の設立に尽力した、イギリス人のウィリアム・ヘーグ書記官がいた。

ヘーグ書記官は、日本のイギリス大使館に在任中、大使館チームを結成し、国内のチームと多くの親善試合を行いサッカー好きとして日本の多くのサッカー関係者から慕われた。その後1度帰国したが1921年に横浜総領事として再来日し、第5回極東選手権で代表チームが上海に遠征する時にも尽力したという。
そして震災で亡くなった際には、聞きつけたサッカー関係者が集まり、同年12月23日に青山師範校庭にて追悼試合を開催、14チームによる計7試合が行われた。後日、イギリス大使館が感謝の印として、主催者「東京蹴球団」に小型の銀製カップが寄贈された。その後1925年には「ヘーグ・メモリアルカップ」というカップ戦が設立されたのである。
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by wataridori21 | 2007-10-23 21:12

トレイ・ヒルマン監督(プロ野球・北海道日本ハムファイターズ監督)

先日、プロ野球パリーグ・クライマックスシリーズを制したのは、前年の覇者・北海道日本ハムファイターズだった。

僕自身、東京時代のファイターズも見てきただけに感慨深いものを感じている。土橋正幸監督時代(1992年)や大島康徳監督時代(2000~02年)を思えば、とても同じチームとは思えない、本当に強いチームになった。

Numbar568号(2003年2月6日発行)では、当時就任したばかりのトレイ・ヒルマン監督と白井一幸ヘッドコーチの特集が掲載されていた。
この時期は2001年は6位、02年は5位と低迷し、観客数の低迷に加え、親会社のスキャンダル報道も重なり、チームの雰囲気はかなり暗い状態だった。しかしこの特集では、数年前から球団改革がある程度進み、ヒルマン監督の就任を契機に更なる改革に繋げようという意欲が球団内で盛り上がっていたという。

特集記事の中心は白井ヘッドコーチ。
白井コーチは現役時代は同チームの中心選手として活躍し1996年限りで引退したのだが、1997年から2年間アメリカにコーチ留学した経験を持つ。
ニューヨークヤンキース傘下のマイナーリーグで、コーチ修行とともに、ルーキーリーグからメジャーリーグまでの組織を細かく学び、スカウティング技術や若手育成のシステムも学び、その成果をまとめたレポートをファイターズ球団に送り続けた。そしてそのレポートを元に球団は、チームのシステム改革を長年続けてきたという。
そして帰国後に白井コーチは2軍監督となり、1年目は最下位だったが、2年目に2位とチームを躍進させている。白井コーチは、ヤンキースで学んだことで一番大きかったのは、「『勝たなければいけない』ということは分かりきっている。しかし本当に問題なのは『本当に勝とうとしているのか』ということ」なのだという。その成果が2軍チーム成績の躍進として現れたのだ。

そして2003年、ファイターズは、ヤンキース傘下のマイナーリーグで監督としての数多くの経験を積んできたトレイ・ヒルマン氏を招聘してシーズンに臨んだのである。白井コーチはアメリカ留学時代にヒルマン氏と会い、親交を深めてきた、まさに旧知の仲だった。

この記事で、白井コーチのヒルマン監督に対する印象をこう語った(以下、原文のまま抜粋)、

「実に忍耐強い人物で、問題になるような選手にもキチンと対応できる。そして、選手の能力を上手に引き出せる能力がある。メジャーの経験はないが、マイナーで2000試合近く指揮を執っている。いずれメジャーの監督になる器です」

記事を読み終えてから僕は現在のファイターズの姿を思い浮かべた。5年前と現在では、まるで別の球団を見ているようだ。

考えてみれば他球団でも短期間でチーム成績が劇的に変化したケースがある。共に1990年代に暗黒時代を過ごしてきた阪神タイガーズと千葉ロッテマリーンズ。しかし2000年代に入るとこの2球団も短期間で完全に生まれ変わった。阪神では星野仙一、千葉ロッテではボビー・バレンタインと、監督が代わり、いずれも就任から僅か2年で優勝している。
この2人の監督に共通するのは「勝利への執念」が並外れて高かった事に尽きるのではないか、と思う。白井コーチの考える『本当に勝とうとしているのか』という問いに対して、明確に「絶対に勝つ!」という意識がこの2人の監督にはにじみ出ていた。

僕自身、「青臭い精神論」は好きではないけれど、ヒルマン監督を見ていると、やはり名将と呼ばれる監督には、この「絶対に勝つ」という気持ちを持っていなければならないとつくづく感じる。
今年のファイターズは開幕前の下馬評は決して高くはなかった。しかしいざ蓋を開けてみたら圧倒的な強さを見せてリーグ優勝を決め、クライマックスシリーズでも千葉ロッテを圧倒して勝利をもぎ取った。
ヒルマン監督の「勝利への執念」が、この5年間で、選手はもちろん球団全体に蔓延していった結果が、現在の「黄金時代の到来」に繋がっていったのではないか、と思う。

「野球はメンタルのスポーツ」というけれど、まさに「自分達が、最後に必ず勝つ」という気持ちが他球団を圧倒し、その結果がこの「2年連続パリーグ制覇・日本シリーズ進出」だったのではないか、と思うのだ。

それだけに今度の日本シリーズはとても楽しみにしている。

最後に同じ記事で白井コーチが将来の球団のあり方について語っていた言葉を引用する。まさに現在のファイターズ、そして北海道の野球界の姿を暗示していた、とても印象深い言葉である(以下、原文のまま抜粋)、

「球団がやっている改革の究極の目的は、常勝チームにすること。今はみんなでそのシステムを作っているわけです。球団は野球の開拓をするつもりで北海道に行くんです。そして、これから20年くらいしたら、北海道の高校が常に甲子園で優勝を争うぐらい強くなっているかもしれない。我々はその北海道のチームから選手を迎え入れて、ますます強いチームにしていく。それが球団の理想の姿なんです」
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by wataridori21 | 2007-10-19 23:27

チョウ・デイン(Kyaw Din)の功績

戦前の日本サッカー界のレベルアップに貢献した名コーチにチョウ・デインという人物がいる。

チョウ・デインとは、1920年代初め頃に日本の東京高等工業学校(後の東京工業大学)に来ていたビルマ人留学生で、たまたま見かけた早稲田高等学院サッカー部の試合がきっかけで同サッカー部の指導に当たったという。
そして1923年に開催された全国高等学校(旧制)選手権大会ではその早稲田高等学院が優勝、翌年も2年連続優勝を決めた為、彼の名は一挙に全国に知れわたった。
更に同1923年に起きた関東大震災で在学していた東京高等工業学校の校舎が全壊し、授業がしばらく行われなくなった事から、全国各地の学校に飛んでサッカーの巡回コーチを精力的にこなした。
チョウ・デインの指導の内容は次の通りだったという(以下、「日本サッカーの歩み」(日本蹴球協会)から抜粋)、

1.もっと強い球を蹴ること。ペナルティキックでも、フリーキックでもインステップで蹴ること。
2.正確に蹴るにはサイドキックが役に立つ。パスもシュートもサイドキックをもっと利用すること。
3.ヘディングでシュートを決める事。ヘディングは正面へはじく場合と、首を振れば横にも斜めにも打ち出せるものだ、と形を示している。
4.正確度がなければ役に立たない、正確度は練習の積み重ねで得られるものである、といってポストやバーに蹴りつける実演を度々やってみせた。
5.ドッシング(当時はフェイントという言葉は使わなかった)は、主としてボールをドリブルで進めている間の上体の使い方で教えてくれた。ボールを持たぬ仲間の位置の取り方の重要性を教えたのである。
6.タックルは全面からでも、側面からでも、後方からでも、直接ボールに向ってタイミングよくやれば、肉体的な相手との接触なしでボールが奪い取れる、とまったく新しい面を開いてくれた。


彼は日本在住期間は関東大震災をはさんで約5年程度だったが、その間に行った全国巡回コーチでの功績は非常に高く、全国の学生サッカー選手レベルを大幅に引き上げる事となり、彼が教えたショートパスの技術はその後、日本伝統の戦術「パスサッカー」に繋がっていくのである。ちなみに1923年には、彼が自ら手がけた「How to play Association Football」が出版され、当時多くの話題を集めたという。

そして彼の指導を受けた学生の中から、竹腰茂丸(後の日本代表監督・戦後には日本蹴球協会理事長を歴任)を初め、数多くの名選手が誕生したのである。
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by wataridori21 | 2007-10-19 01:29

第5回極東選手権と大日本蹴球協会・ア式蹴球全国優勝大会の設立(1921年)

1921年に開催された第5回極東選手権を前に、大日本体育協会の常務理事・近藤茂吉は岡部平太と相談し、日本代表メンバーを単独チームではなく選手を関東各地から選抜する事とし、国内予選を経て開催地・上海に送り込む方法を取った。これにより誕生したのが「全関東蹴球団」である。

全関東蹴球団は結成後、東京で合宿を行った際にビルマ人留学生チョウ・デインの指導を受けた。そして上海に渡ると今度は、以前に立教大学で豊島師範でサッカーを指導した経験を持つドレーク神父の助言も受けた。

しかし同年5月の極東選手権ではフィリピン戦で1-3、中国戦では0-4とまたしても1勝出来ずに最下位、3位に終わった。とは言え第3回大会のスコアに比べれば大きな前進といえた。


そして同年9月10日、念願の「大日本蹴球協会」(後の日本サッカー協会)が設立された。
これは1919年にイギリスから「全日本選手権の優勝チームに」と送られた大銀杯をきっかけにつくられたものである。組織には、大日本体育協会の筆頭常務理事・今村次吉が会長、名誉会長に徳川家達公爵・エリオット英国大使、顧問に嘉納治五郎・鍋島直映・後藤新平・岸清一。体協から初年度補助金として1000円の支出を受けての設立だった。

さらに同年11月には、日本初のサッカー全日本選手権「ア式蹴球全国優勝大会」が始まった。
東部予選は参加希望が20チームに膨れ上がり3日間かけて数試合を行い東京蹴球団が優勝。中部予選は3チームが参加し、主催者である名古屋蹴球団が優勝。近畿予選では大阪毎日新聞社が推薦した御影師範、西部予選では山口高等学校が代表となった。(近畿・西部に関しては、僕自身データ不足で予選試合があったかどうかはわからない)

そして東京・日比谷公園にて全日本選手権・全国優勝競技会・決勝大会が開催された。
まず近畿代表・御影師範が中部代表・名古屋蹴球団に勝利し決勝進出。一方、東部代表・東京蹴球団と西部代表・山口高等学校の試合は、山口高等学校が東京までの旅費を捻出が出来ずに棄権し東京蹴球団の不戦勝となった。
決勝戦は11月27日に開催され5-3で東京蹴球団が御影師範に勝利し、初代王者となった。決勝戦終了後、前述のイギリスからの大銀杯が大会名誉会長・エリオット駐日大使から東京蹴球団主将・山田午郎に渡された。

※この「ア式蹴球全国優勝大会」は、戦時中に1時中断された事もあったが、戦後まもなくして「天皇杯・サッカー全日本選手権大会」として復活し、現在に至るまで毎年開催されている。
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by wataridori21 | 2007-10-13 19:14

ブログ復活のお知らせ

皆さん、お久しぶりです、ブログ管理人の渡り鳥です。

ブログ閉鎖のお知らせから1ヶ月経ち、放置状態でこのままにしておこうと決めていたのですが、つい3日前に友人から「まだやり残している事があるんじゃないか?」と言われました。

「やり残している事」とは先月初めにスタートした「サッカー日本代表」に関する歴史の記事のことです。実は僕もずっと気になっていた連載でした。

この1ヶ月、僕自身、仕事などでいろいろな事がありました。もちろん多忙な状態はこれから何年先までも続くけれど、いろいろ考えて、やはりこのサッカー日本代表の歴史だけは完結させておきたい気持ちになりました。

いろいろと心配を掛けてしまいましたけれど、やっぱり今回から復活させて頂きます。今回は本当にお騒がせしました。

とはいえ前のような更新は、現実的に出来ないので、週1回のペースで書いていきたいと思います。1年掛ければ50個の記事になるので、おそらく完成するはずです。
しかしこれから始まるフィギュアスケートをはじめウィンタースポーツ関連、バレーボールのV・プレミアリーグ、バスケットボールのbjリーグ、プロ野球、そして来年の北京五輪などは書くことは多分出来ないと思います。これはとても残念ですが…、でも「Numberアーカイブ」は時間が空いたときに少しずつでも追加していけたらいいな…と考えています。

この連載を書き上げた後、ブログを存続させるかどうかは全く未定ですが、ともかく頑張って書いていきたいと思いますので、これからも宜しくお願いします。
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by wataridori21 | 2007-10-13 19:07