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サッカー日本代表による欧州遠征とデッドマールクラマーの来日(1960年)

1959年5月26日、ミュンヘンで開かれたIOC(国際オリンピック協会)の総会で1964年のオリンピックを東京で開催することが決まった。

次の五輪のサッカー競技では、日本代表は予選無しで本戦出場できる事となったが、当時の代表チームは、東京開催だった1958年のアジア大会で1勝もできず、1959年のローマ五輪予選も通過できない状態であり、早期のチーム強化が必要となった。

1960年、日本体育協会選手強化対策本部は、東京五輪・サッカー競技への対策として、日本代表チームによるヨーロッパ遠征を計画した。この遠征には国から援助が出ることとなったので、同年8月から9月末にかけての大遠征を実行する事となったのである。ちなみに遠征先は、西ドイツ・スイス・ソ連・チェコスロバキア・イングランド・イタリアとなった。

遠征先での戦績は10試合で1勝1分け8敗、スコアは次の通り。

8月23日 0-5 アレマニア・アーヘン(西ドイツ)
8月25日 1-4 グラスホッパー(スイス)
9月02日 0-8 トルペドモスクワ(ソ連)
9月06日 1-6 パフタコール(ソ連)
9月09日 1-3 カイラート(ソ連)
9月14日 3-1 ベラルーシ(ソ連)
9月20日 2-3 チェコスロバキアU-23選抜
9月22日 2-7 ウエストファーレン州選抜(西ドイツ)
9月27日 1-6 イズミアン・リーグ選抜(イングランド)
9月29日 1-1 テヴェレ(イタリア)


この遠征の前、日本蹴球協会の野津謙会長は西ドイツ協会に、日本代表コーチの派遣を要請した。
野津会長は、国際的にレベルの低い日本代表チームの強化には優秀なコーチが必要と考え、太平洋戦争終結後に一時低迷した後、1950年代後半に再びサッカー大国となった西ドイツからの人材を希望したのである。
そして紹介されたのが、西ドイツサッカー協会・西部地域担当のデッドマール・クラマーだった。

クラマーは当時36歳とまだ若く、コーチとしての実績はこれからという時期だったが、彼がその後の日本サッカーを革命的に向上させることになるのである。彼は、同年10月29日に来日している。


同じ年の11月、韓国の首都ソウルにて、ワールドカップ・チリ大会予選が行われた。

この予選の第1戦は、日本代表チームでは戦後初の韓国での試合となった。反日政策の旗印を掲げた李承晩(イ・スンマン)大統領が失脚し、後任に尹普善(ユン・ポソン)大統領が就任、そして戦争終結からすでに15年の経過していることからくる韓国世論の変化があった。

第1戦は11月16日に行われ、観衆が3万人を超える大盛況となり、試合は1-2で韓国代表の勝利した。第2戦は1961年6月に日本で行われる事になっていたが、翌17日には同じカードで親善試合が行われ、2-2で引き分けとなった。
この2試合で、開催地ソウルでは特に混乱は見られなかったという。試合当日に韓国政府は軍隊を出動させて備えていた事もあったが、戦争から15年経過しており、両国間の友好を臨む世論が高まってきていた事もあったと思われる。
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by wataridori21 | 2007-11-30 23:48

アジアユース選手権大会とローマ五輪予選(1959年)

1959年4月には、マラヤ連邦(後のマレーシア)の首都クアラルンプールにて、アジアユース選手権大会(後のAFCユース選手権)が開催された。

アジアユース選手権とは、各国の20歳以下の選手達が出場して、この年代のアジアチャンピオンを決める、アジアサッカー連盟(AFC) 主催の大会。
この1959年に第1回大会が行われ、1978年以降は2年に1度に開催し、2006年で34回目を迎えた。
現在では、この大会の上位チームに「FIFA U-20ワールドカップ」のアジア代表での出場権を獲得できることになっている。

1959年大会で日本代表チームは高校選抜(監督は高橋英辰)で臨んだが、結果は参加10チーム中の3位と健闘した。
このメンバーには、後にメキシコ五輪で活躍する杉山隆一・宮本輝紀らが含まれており、後々の日本代表チームの強化に大きな成果となった大会だった。

同じ1959年9月には前年と同じマラヤ連邦で第3回ムルデカ大会が開催され、アジア各国の代表チームと試合を行った。成績は次の通りで、日本は6試合で1勝2敗3分けとなった。

8月31日 香港戦→1-1
9月02日 香港戦→2-4
9月03日 シンガポール戦→4-1
9月05日 韓国戦→0-0
9月06日 韓国戦→1-3
9月09日 ぺラク州戦→2-2

そして日本代表チームは、大会終了後にベトナムに移動し、南ベトナム選抜と2試合戦い、1-3、1-2の成績を残して、日本に帰国した。


暮れの12月には1960年に開催されるローマ五輪の予選が、東京・後楽園競輪場にて開催された。
監督は竹腰重丸で、メンバーは古川好男・平木隆三・高森泰男・宮本征勝・小沢通宏・鎌田光夫・二宮寛・内野正雄・渡辺正・佐々木康治・北口晃・川西武彦・川淵三郎。

相手は、現在まで五輪・W杯を通してアジア予選の宿敵・韓国。韓国の監督は朴大鐘(パク・テジョン)、コーチには元日本代表・金容植(キム・ヨンシク)。竹腰重丸監督と金容植コーチはベルリン五輪・日本代表チームのメンバーだったことから、かつてのメンバーが集まって試合前に「ベルリン会」という同窓会が開かれたという。

第1試合は12月13日に行われ、0-2で敗退したが、20日の第2試合では70分に二宮寛の決勝ゴールが決まり、1-0で日本の勝利となった。しかし2試合の総得点差で韓国が五輪出場権を獲得した。
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by wataridori21 | 2007-11-30 17:56

第3回アジア競技大会と東南アジア遠征(1958年)

1958年5月8日、東京にて、第3回アジア競技大会が開催された。

アジア大会が初めて日本で開催される事から、それまで規模の大きなサッカー大会が開催されていた明治神宮外苑競技場は解体され、新たに国立霞ヶ丘陸上競技場が建設された。

明治神宮外苑競技場は、もともと宗教法人・明治神宮が所有していたが、アジア大会用の競技場にする為には規模が小さかった。その為、1956年に国の所有に移し、国立競技場として新たに建設したのである。
更にこの年には、同じ東京の小石川にあった旧砲兵工場跡地に東京都立小石川サッカー場が建設された。

この大会でサッカー日本代表チームは2試合を戦った。まず5月26日のフィリピン戦は小石川サッカー場で戦い0-1、続く28日には東京霞ヶ丘陸上競技場で香港と戦い、0-2と連敗。特に当時アジアで最弱といわれたフィリピンに零敗だった事は、当時の日本代表のレベルをよく表している。ちなみに大会は、台湾が2大会連続優勝を飾っている。当時の台湾はプロ選手を多数選抜して結成した強豪であった。


同じ1958年、マラヤ連邦(後のマレーシア)の首都クアラルンプールにて、AFC総会が開催された。

この総会で5代目会長に選出されたのが、マラヤ連邦のトゥンク・アブドゥル・ラーマン首相。その時に日本蹴球協会の野津謙も、複数のAFC副会長の1人に選出された。

マラヤ連邦は、かつて中世の頃はポルトガル、その後イギリス領となり、太平洋戦争開戦の際には日本の植民地となった歴史があり。終戦後に再びイギリス領となったが、1957年にマラヤ連邦として独立を果たし、1963年にはシンガポール・北ボルネオ・サラワクを統合してマレーシアが成立した(その後1965年にシンガポールのみが離脱し独立)。

その独立したマラヤ連邦の指導者がトゥンク・アブドゥル・ラーマン首相であり、この1958年は、独立からちょうど1年後だった為、独立一周年祝賀蹴球祭(ムルデカ・フェスティバル)が開催された。その時に行われたAFC常任理事会にて、ラーマン首相の提唱で、翌年からアジア・ユース・トーナメントの開催が決められた。このトーナメントはアジアのサッカーレベルの向上を目的につくられたものである。


この年の12月、日本代表チームは香港・マラヤ連邦に長期遠征を行った。これはマラヤ連邦のラーマン首相の招きで実現したもので、マラヤだけでなく途中で香港とも試合を行っている。

12月25日の香港戦が初めで2-3で敗退、続いて27日に南マラヤ選抜戦で0-2、28日のマラヤ戦で2-6、31日のぺラク州戦で3-0、年が明けて1959年1月3日のペナン州戦は2-2、4日のマラヤ戦が3-1、7日のマラヤンマラヤ戦が1-2、8日のスランゴール戦が2-2、10日のシンガポール第1戦目が4-3、11日のシンガポール第2戦が2-3、そして14日に香港選抜戦で1-1の成績を残して全日程を終了となり、日本に帰国した。
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by wataridori21 | 2007-11-28 23:47

サッカー日本代表チームの中国遠征とアフリカネイションズカップ(1957年)

1957年10月、サッカー日本代表は中国遠征を行った。

当時の中国は1949年に成立した中華人民共和国で、共産党の毛沢東主席が政権を握っていたが、政策の行き詰まりから穏健派の周恩来首相に実質的な実権が移っていた。

周恩来首相は戦後の「文化大革命」で有名だが、スポーツでの国際交流に積極的な人物でもあり、1965年には「東洋の魔女」の異名を持つ日本女子バレーボールチームを率いた大松博文監督を招聘して、その後強豪・中国バレーチームの基礎を築いた(もっとも大松監督の指導は凄まじかったらしく、見学に訪れた周首相も驚いて「君、手加減を」と止めに入ったという)

この時の日本と中国は、太平洋戦争後は国交がなく、スポーツでの交流は途絶えたままだったが、この年に「日本スポーツ代表団」としての入国許可が中国から出て入国が実現、その代表団にサッカーの日本代表チームも参加し、現地で交流試合を行ったのである。
当時イギリス領だった香港からのルートでの入国だったが、中国国境では一旦鉄道を降りて、徒歩で入国し、再び中国の鉄道で移動を行ったという。当時の世情が伺える。

この時、代表団の団長に竹腰重丸が就任した為、サッカー日本代表チームは高橋英辰監督で臨み、メンバーには古川好男・平木隆三・高森泰男・佐藤弘明・小沢通宏・大村和市郎・北口晃・八重樫茂生・渡辺正・佐々木康治・岩淵功・二宮寛・北島秀夫・耳野篤広・内野正雄・皆本吉丸が参加していた。

10月20日の人民解放軍八一隊戦で0-2、23日の北京市戦は1-2、27日の瀋陽市戦は2-3、29日の全国第一機械体協隊戦は2-3、11月3日の上海市戦は1-1、5日の紅旗体協隊戦は2-1、10日の広州市戦は3-2。

この時期、中国のA代表チームは、同年5月・6月にワールドカップ・アジア予選に出場しており(他にインドネシアが出場し中国は敗退している)、その影響からか対戦していない。
その為これらの試合は国際Cマッチとして行われ、計7試合で2勝1分け4敗の負け越しとなった。遠征中は、中国の東北部と南部では寒暖の差が激しく、体調を崩す選手が続出し、長距離移動での疲労の中など、代表団の苦労はかなりのものだったらしい。

ちなみに中国は、戦前からFIFA(国際サッカー連盟)に加盟していたのだが、翌1958年にFIFAを脱退した。
これは太平洋戦争終結後に中国国内で、当時政権を握っていた国民党と共産党との間で、国の覇権を巡って内戦が勃発し、1949年に共産党による中華人民共和国が成立し、国民党は台湾に逃れて現地で政権を樹立、この時に中国・台湾それぞれがFIFAに加盟する事態となり中国が反発、結局中国側が脱退することとなったのである。
この中国・台湾の問題はサッカーに限らずあらゆるスポーツ競技に影響を及ぼし、オリンピック大会では常に懸念の話題として取り上げられている(しかしプロ野球アジアシリーズやWBCではそれほど問題とされず、それぞれ独立した代表として参加している)。


1957年2月には、CAF(アフリカサッカー連盟)の主催で第1回アフリカネイションズカップが開催された。開催国はスーダンで出場国はスーダン・エジプト・エチオピア・南アフリカ共和国の4カ国が参加し、南アフリカはアパルトヘイトの施行を理由に失格となり、エジプトが優勝した。
この大会は去年(2006年)で25回大会を迎え、現在は2年に1度開催されている。1992年より優勝国代表チームにはFIFAコンフェデレーションズカップへの出場権が与えれられる事となった。
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by wataridori21 | 2007-11-25 10:14

高橋大輔選手(フィギュアスケート選手)その3

11月29日より、宮城県仙台市の仙台市体育館にて「2007NHK杯国際フィギュアスケート競技大会」が開催される。

この大会で一番の注目は、女子シングルでは安藤美姫選手(外国勢ではカロリナ・コストナー選手、サラ・マイアー選手あたり)、そして男子シングルでは何と言っても(個人的にトマシュ・ベルネル選手も捨てがたいが…笑)、高橋大輔選手。

高橋選手は、先日のスケートアメリカで見事に優勝を飾っている。彼の持ち味は何と言ってもステップ。
ストレートラインステップでのリズミカルな演技は、アウェーであるはずの会場では沢山の歓声、すっかりアメリカ人のフィギュアスケートファンを虜にしてしまったようだった。僕自身も思わず見入ってしまった、本当に鮮やかで高度なテクニックを駆使していたからだ。

彼は本当に王者としての自信を身につけたようだ。

演技の一つ一つに、「俺はこんな演技も出来るんだぜ、じっくり観てなよ!驚くなよ!腰抜かすなよ!」と主張しているかのように、観る者を圧倒する迫力があった。

そしてニコライ・モロゾフコーチの振り付けも素晴らしい。競技会のプログラムだからもちろん高度な技術を駆使しているのだが、それでいて、プログラムの節々に、彼の「遊び心」を感じる。

モロゾフコーチは、このプログラムを通して「フィギュアスケートの基本はあくまでエンターテイメントだ」と、繰り返し僕に教えてくれる。だから、演技を観ながら僕はアイスショーを観ているような楽しさを感じた。そして彼が何故、名コーチとして称えられているのか、何となく分かる気がした。

ショート・フリーともに、本当に楽しいプログラムだった。

よほどの事でもないかぎり高橋選手の優勝は動かないだろう。ともかく仙台の地で、あの優雅で、リズミカルで、美しい演技が再び観られる事を、今から楽しみに待ちたい。
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by wataridori21 | 2007-11-24 00:43

荒川静香プロ(プロフィギュアスケーター)

フィギュアスケート・グランプリシリーズも中盤を迎えている。

ベテランも若手も様々なプログラムを披露し、それぞれ趣向を凝らした演技を見せてくれるので、僕自身、週末のテレビ中継を観るのが本当に楽しみだ。

それにしても今年は、男女共にどの選手も演技力に磨きが掛かっている。それまでの、どちらかといえば「スポーツ的な部分」でのレベルアップはもちろんだけど、演技をする上での美しさ、優雅さ、鮮やかさが、より求められる時代になった。
「ジャンプさえレベルが高ければ」の時代から、本来のフィギュアスケートの醍醐味である、「観る側を、美しさで感動させる」演技が強く求められてきている。

これからトップの地位につく為には、「スポーツ選手」と「役者」を同居させた選手になる事を、求められていくだろう。

Number642(2005年12月15日号)では、当時現役だった荒川静香選手の特集記事が組まれていた。2005-06年シーズンのGPSでのエリック・ボンパール杯で総合3位に終り、ファイナルへの出場が微妙な状況となった時点(その後ファイナルへは進出できなかったが、五輪出場権を得て、トリノ五輪で金メダルを獲得している)でのインタビュー記事。フリーの「幻想即興曲」(後にこれはショートに、フリーは「トゥーランドット」に変更された)でトリプル・トリプルが成功した話に及んだ時、彼女はこう語った(以下、原文のまま抜粋、著者は宇都宮直子氏)、

「昔、佐藤有香さんに『前だけじゃなくて、後姿も大事なんだよ』って、教えてもらったんです。最初は『え、背中?」って思ったんですよ、私は踊らないことで有名だったので。でも、それからは背中での表現も意識するようになりました」

スケーターは、会場での演技中は、常に視界360度全ての観衆を意識して演技している。テレビではよく分からないけれど、実際に会場で生観戦すれば本当によく分かる、それこそ一番奥の立ち見席ですら、スケーターのいろんな表情を感じ取る事が出来る。
彼らの演技する感覚は、言ってみれば舞台俳優のそれと同じではないかと思う。会場では、スケーターを正面から見るだけでなく、横からの姿、後ろ姿も、どの客席からもよく見える。そして演技者はその観衆の視線を常に意識しながら演じ続けるのだ。


僕もまだフィギュアスケート競技を見始めたばかりの頃は、フィギュアスケーターを「スポーツ競技者」としてしか見ていなかった。けれども、観戦の回数を重ねる毎に、スポーツ的に見る視点だけでは、この競技を、本当の意味で堪能することは難しいと思うようになった。採点方式とか、順位とかにばかりこだわりすぎると、本当の醍醐味は見えてこなくなる。

最近はフィギュアスケートを「競技」として観るよりも、舞台を見るような感覚で観戦するようになった。いや、「観戦する」ではなくて、「観賞する」といったほうが良いかもしれない。演じるスケーターの美しさばかりを追い求めるようになってきた。現在は僕自身、競技会である事はわかっているのだが、本音では順位はどうでも良くなってきている。


フィギュアスケーターの演技は本当に美しい。そしてフィギュアスケートは本当に素晴らしいスポーツだ。最近、しみじみと、そう思う。
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by wataridori21 | 2007-11-23 00:15

AFCアジアカップと欧州チャンピオンズカップ(1955年)

1955年、アジアサッカー連盟(AFC)が主催のAFCアジアカップが創設された。

このアジアカップは、前年に設立されたAFC傘下の各国代表チームのチャンピオンを決める大会で、2007年大会で通算14回を数える大会。4年に1度行われ、その後2007年に時期を変更し、4年に1度開催のワールドカップの翌年に開催される事となり、1988年より、優勝チームには「FIFAコンフェデレーションズカップ」への出場権が与えられる事となっている。

今回の第1回大会では韓国・イスラエル・香港・南ベトナム(当時はまだベトナムは北と南でそれぞれ独立国家となっていた)の4カ国で争われ、韓国が優勝している。当時から韓国はアジアの強国であった。
ちなみに日本代表は、最初はこの大会には出場しておらず、初出場したのは1967年の予選大会であり、それもフル代表ではなく予選で敗退している。本戦初出場は1988年、この時のメンバーに至っては学生選抜で出場していた。今から考えれば信じられないほどに、当時の日本はアジアカップを軽視していた。


同年9月には欧州サッカー連盟(UEFA)第1回欧州チャンピオンズカップが開幕した。

この大会は、世界トップレベルを誇る欧州のクラブチームが参加し王者を決める大会で、1992年に再編されて、現在はUEFAチャンピオンズリーグとして、世界最高峰のリーグ戦として名高い。
この第1回大会ではスペインのレアル・マドリードが優勝し、これから見事5連覇を勝ち取った。

この時期は、世界各国で、ワールドカップやオリンピック以外にも、規模の大きな国際大会・リーグ戦がいくつか創設されるようになり、世界各国のサッカー競技レベルが確実に上がっていった。
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by wataridori21 | 2007-11-21 23:42

メルボルンオリンピック(1956年)

1956年11月にオーストラリアで開催されたメルボルンオリンピックは、当時の暗い世情が大きく影響を与えた大会たっだ。

五輪開幕前の1956年10月、イスラエルがエジプトに仕掛けた第2次中東戦争(いわゆるスエズ動乱)が勃発。この戦争は、当時のエジプト政府がスエズ運河の国有化を計画、それに対しそれまでこの運河で長年利権を持っていたイギリス・フランス両政府が、利権の死守を目的に、先に第1次中東戦争を起こしていたイスラエルを利用して起こした戦争であった(当時はまだ世界大戦の名残で、西ヨーロッパの国々が、国益の名の下に戦争に走る事は珍しくなかった)。

更に同じ10月、今度はハンガリーで、当時の経済政策の失敗により不況の只中にいた民衆が政府への不満から首都ブダペストで大規模なデモを行った。そこにワルシャワ条約機構で同盟関係にあったソ連軍がハンガリーに侵攻して武力制圧を行い多数の死傷者を出した、いわゆるハンガリー動乱が起こった。

この2件の戦争・動乱により、初の南半球でのオリンピック開催であったメルボルン五輪は大きな影響を受けた。

スエズ動乱に対してエジプト、レバノン、イラクが、ハンガリー動乱に大してスペイン、オランダ、スイスが、それぞれ不参加を表明。更に台湾(中華民国)の参加に対する中国(中華人民共和国)の不参加。

大会が始まると、競技でも影響が現れた。水球では、皮肉なことにハンガリーとソ連が対戦する事となり、試合は前回大会で金メダルを獲得していたハンガリーが4-0で圧勝していたが、競技中に両チーム選手同士の殴り合いとなり怪我人が続出、試合終了後には観客による乱闘騒ぎに発展、警官隊の突入で事態を収める後味の悪いものとなった(後に「メルボルンの流血戦」と呼ばれ、大会後にハンガリー選手団による西ヨーロッパ諸国への集団亡命も起きた)。

このような世情の中、サッカー日本代表チームは1936年以来20年ぶりのオリンピック出場を決め、オーストラリアに乗り込んだのである。

日本代表は豪州入りの前の10月25日に東京・後楽園競輪場にて、五輪出場前に来日してきたアメリカ代表チームと対戦して3-5で敗退、豪州入りした11月17日には地元クラブチーム・ハコアクラブと対戦して3-0で勝利、そして五輪代表のユーゴスラビア代表とも対戦したが2-7で大敗。

そして五輪本戦を迎えた。
監督は竹腰重丸が務め、GKに下村幸男・古川好男、FBに平木隆三・高森泰男、HBに高林隆・三村恪一・佐藤弘明・大村和市郎・小沢通宏、FW鴇田正憲・小林忠生・長沼健・岩淵功・八重樫茂生・内野正雄・北口晃。
メンバーの内の9人が実業団チームからの選出となっており、この頃になると、主力が学生から社会人選手に移行しつつあった。この事からも、日本の世情が、戦争後の混乱期から高度成長時代に移り変わりつつあることを感じさせる。

本戦は11月27日、一回戦の相手は地元オーストラリアだった。しかし試合の数日前、FW長沼健が腹痛で入院しこの試合に出場出来なかった。得点能力の高い長沼が不在とあって試合は劣勢となり、0-2で敗退となってしまった。
優勝したのはソ連、準優勝はユーゴスラビア。当時のオリンピックでは東欧諸国はあらゆる競技で強さを発揮していた。

ちなみにこの大会では、第二次大戦後に分裂して誕生していた西ドイツ・東ドイツが連合チームで参加している。この連合チームは1968年のメキシコ五輪まで続いた。
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by wataridori21 | 2007-11-20 20:13

グラスホッパーの来日(1955年)とメルボルン五輪予選(1956年)

日本代表チームがビルマ遠征中の1955年1月22日、世界一周遠征中のスイス1部リーグ所属のクラブチーム・グラスホッパーが来日してきた。

日本代表チームはビルマ遠征中だったので、グラスホッパーに対しては、ベテラン主体の新たな日本代表チームを結成して臨んだ。川本泰三監督・二宮洋一選手兼コーチの体制を組み、後楽園競輪場で試合が行われ、1-7で大敗。ベテラン中心のメンバーだったとは言え、力の差をあらためて見せ付けられた結果だった。

1956年6月にメルボルン五輪の予選が開催された。相手はW杯予選と同じ韓国、場所は後楽園競技場、まさに因縁の対決だった。しかしこの時もW杯予選同様2試合とも日本で開催された。
監督は竹腰重丸、メンバーは古川好男・平木隆三・影山泰男・佐藤弘明・小沢通宏・大村和市郎・岩谷俊夫・八重樫茂雄・内野正雄・岩淵功。

6月3日の第1戦は54分に内野正雄、77分に岩淵功と後半に2点を取り2-0で勝利。
6月10日の第2戦では、韓国が成楽雲(ソン・ナクン)と雀貞敏に続けてゴールを決められ0-2で敗退。

2試合を戦い、対戦成績は1勝1敗で、得失点差も同数となってしまった。当時はPK戦のルールもなかった為、試合終了後にグラウンドで抽選が行われ、始めに金鎮雨主将が引き、次に竹腰茂丸監督が引き、竹腰監督が引き当て、1936年のベルリン五輪以来、20年ぶりのオリンピック本戦への出場が実現することとなった。
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by wataridori21 | 2007-11-19 22:04

日本代表によるビルマ遠征とCAF(アフリカサッカー連盟)の成立(1955年)

1954年12月には、ビルマ体育協会の招きでサッカー日本代表による長期遠征が行われた。

当時ビルマと日本は国交が結ばれていなかったが、当時アジアの中でのサッカーレベルは非常に高かったという。
日本代表チームは監督は竹腰重丸、コーチに岩谷俊夫(選手兼任)、メンバーは生駒友彦・平木隆三・青木要三・佐藤弘明・三村恪一・福田克己・木村現・岡野俊一郎・岡本久敬・岩淵功。

明けて1955年1月2日に保険大臣チームと対戦し1-1の引き分け、1月5日の体協会長チーム戦で0-3、1月8日のアマチュア蹴球協会選抜チーム戦で1-1、1月11日の体協選抜戦は1-0、1月13日の来たビルマ選抜戦は3-2と、この遠征で日本代表は2勝2分け1敗の成績で終わった。
ちなみにこの対戦相手の5チーム、監督も選手も殆ど同じ顔ぶれだったという。これはFIFA認定の国際Aマッチの試合は、原則として入場料の一部をFIFAに上納金として納める規定があった為、そのうちの体協選抜戦の1試合のみを国際Aマッチとして、後の試合は国際Cマッチとしていたのである。つまり上納金をケチる目的で、チーム名を次々と代えて試合を開催したのである。当時の世情が伺える出来事といっていいだろう。

日本代表チームはその後隣国のタイにも立ち寄り、現地チームと2試合を行っている。1月18日の在タイ全華人戦で3-1、1月19日の全バンコク戦では5-1の成績を残した。

同じ1955年10月に、今度はビルマ代表チームが来日して親善試合を行った。ビルマ代表はまず全関東チームと全関西チームとの練習試合を行い、いずれもビルマの圧勝となった。やはり当時アジアの強豪のチームであった。
そして、10月9日、東京・後楽園競輪場にて日本代表とビルマ代表が対戦し、一進一退の攻防の末、0-0の引き分けに終わった。


同じ1955年にはアフリカサッカー連盟(Confederation africaine de football、略称CAF)が設立された(文献により1956年に設立の記述もあり、はっきりしない)。AFC・UEFA同様、このCAFはアフリカにおけるそれぞれのサッカー協会を統括する機関で、所属する国々との国際試合はこの連盟の下に行われる。
国際サッカー連盟(FIFA) はこれにより、1916年設立の南米サッカー連盟(Confederacion Sudamericana de Futbol、略称CONMEBOL)、AFC(アジアサッカー連盟)、UEFA(欧州サッカー連盟)、CAF(アフリカサッカー連盟)などとともに世界中のサッカー協会・連盟を統括する巨大な組織となっていき、ワールドカップの地位も不動のものとなっていくのである。
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by wataridori21 | 2007-11-18 17:39