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横山謙三(元日本代表監督・選手、浦和レッズ監督・GM)

1988年から1991年までサッカー日本代表監督を務めたのは横山謙三。

彼は東京都出身で、埼玉県立川口高校から1962年に立教大学に進学し、同大学サッカー部で活躍。

1964年、東京五輪が開催された際には、代表チームのGKとしてベスト8進出に大きく貢献。
1966年、JSL(日本サッカーリーグ)の三菱重工業サッカー部に入部。
1968年、メキシコ五輪に出場し、日本代表チーム不動のGKとして銅メダル獲得。
1969年、三菱重工のJSL初制覇に大きく貢献。

1976年、三菱重工の監督(選手兼任)に就任。
1977年、現役を引退。
1978年、JSLで優勝。
1979年、1月の天皇杯で優勝。
1983年、三菱重工監督を退任。

1988年、サッカー日本代表監督に就任。3-5-2のシステムを採用し、当時の日本ではまだ一般化していなかったウィングバックを重視した戦法を執った。
1989年、W杯イタリア大会・1次予選で敗退。
1991年、第12回キリンカップで、日本代表が悲願の初優勝を飾る。
1991年、バルセロナ五輪・予選でU-23日本代表の総監督を務めたが予選敗退し、U-23総監督およびA代表監督を辞任。

1994年、森孝慈監督の後を受けてJリーグ・浦和レッズ監督に就任したが、サントリーカップ・ニコスカップ共に最下位争いを演じ、辞任。
1995年、浦和レッズGMに就任しチームの建て直しを行ったが1999年にJ2陥落。
2000年、J1復帰間近から終盤に失速したチームを奮起させるべく、当時の斉藤和夫監督を更迭 し自らが総監督に就任、チームは勢いを取り戻しJ1復帰を果たす。
2002年、浦和レッズGMを退任し、浦和レッズ常務取締役に就任。
2006年、浦和レッズ常務取締役を退任し、埼玉県サッカー協会・専務理事に就任。
2006年、日本サッカー殿堂入り。

現役時代は名GKとして活躍し、メキシコ五輪・銅メダル獲得の立役者の1人だったが、1980年代終盤で主力の世代交代の時期の日本代表監督を務めたり、戦力が崩壊していた時期の浦和レッズの監督を務めたりと、戦力不足のチームに縁が多く、不遇な指揮官だった。
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by wataridori21 | 2007-12-31 19:06

石井義信(元日本代表監督・選手、フジタ工業監督)

1986年から1987年までサッカー日本代表監督を務めたのは石井義信。

広島県福山市出身で、福山葦陽高等学校から1957年、東洋工業に入社し、同社蹴球部に入部。
1962年、日本代表メンバーに選出、東南アジア遠征中の9月21日のシンガポール戦で代表初出場、しかし代表出場はこの1試合のみだった。

1965年、JSL(日本サッカーリーグ)が創設され、東洋工業が初制覇。
1967年、東洋工業によるJLS3連覇に貢献(東洋工業は翌年の制覇し4連覇)。
1968年、JSL2部に創設された藤和不動産サッカー部(後のフジタ工業)に選手兼コーチとして移籍。
1972年、藤和不動産がJSL1部に昇格。
1975年、フジタ工業(藤和不動産から名称変更)サッカー部の監督に就任。
1977年、マリーニョ・古前田充・植木繁晴・上田栄治らを擁してJSLで優勝。
1979年、JSL2度目の優勝。
1980年、フジタ工業サッカー部監督を退任。

1986年、森孝慈監督の後任として、サッカー日本代表監督に就任。
1987年、ソウル五輪・最終予選に進出するも、中国に1勝1敗ながら得失点差で予選通過ならず。大会終了後に監督を辞任。

1988年、フジタ工業に総監督として復帰し、直後の天皇杯で準優勝。
1990年、フジタ工業総監督を退任。
1993年、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の取締役強化部長に就任し、中田英寿ら有望選手の獲得に奔走し、同チームを強豪チームに作り上げる。
2001年、 FC東京のアドバイザーに就任。

JSL監督時代から名将で鳴らし、日本代表監督に就任後の僅かな期間で五輪・最終予選進出など、指揮官としての手腕は高く評価されている。もしJリーグのチームの監督に就任していたら、今よりもっと名を馳せていたに違いない。
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by wataridori21 | 2007-12-31 18:34

森孝慈(元日本代表監督・選手、浦和レッズ監督・GM)

1981年から1985年までの5年間、サッカー日本代表監督を務めたのは森孝慈(もりたかじ)。

彼は広島県福山市出身で、修道高等学校時代の1961年、国体と全国高校サッカー選手権の2冠制覇に大きく貢献。
兄の森健兒の進学した慶応大学への進学を目指したが、1年浪人した後、1963年に早稲田大学政治経済学部自治行政学科に進学し、先輩の松本育夫・釜本邦茂らとともに同大学蹴球部の黄金時代を築き上げた。

1964年、1月の天皇杯決勝で、日立本社を3-0で破り、同大学の26年ぶりの天皇杯制覇に貢献。更に同年に日本代表メンバー入り、10月に開催された東京五輪・本戦のメンバーにも選出されたが、出場機会はなかった。
1965年、日本代表のソ連への遠征中、アララット・エレバン戦(Cマッチ)で代表選手として初出場。
1966年、1月の天皇杯では、同蹴球部の主将として決勝進出し、当時JSL(日本サッカーリーグ)で1965年~68年に掛けて4連覇を達成するなどしていた全盛時代の東洋工業に勝利して日本一を達成(天皇杯における大学チームの優勝は、2007年まででこれが最後)。
1966年、12月の第5回アジア競技大会で国際Aマッチ初出場。

1967年、三菱重工サッカー部に入部。当時の三菱重工には、メキシコ五輪代表の杉山隆一・横山謙三らが所属しており、彼らと共にJSLで優勝争いを演じた。
1968年、この年のJSLでは、東洋工業に次いで惜しくも準優勝。
1968年、メキシコ五輪に出場して銅メダル獲得。
1969年、前年までJSL4連覇を続けていた東洋工業を退けて優勝。
1971年、天皇杯で優勝。
1973年、天皇杯で優勝。
1973年、JSLで優勝。
1977年、現役を引退。

1979年、西ドイツへコーチ留学を経験。彼はもともと現役時代から、将来の指導者として期待されていた。この年に日本体育協会による各種スポーツのコーチ養成を目的とした留学が企画され、サッカー競技のコーチ候補として彼が選ばれたのである。

1981年、川淵三郎監督(五輪・強化部長を兼務)の後を受けて日本代表監督に就任。
1984年、原博実・水沼貴史・加藤久・木村和司・風間八宏らを擁して臨んだロサンゼルス五輪・予選でまさかの4戦全敗。
1985年、W杯メキシコ大会・最終予選で韓国に1-2で惜しくも敗退、大会終了後に日本代表監督を辞任。

1992年、三菱浦和フットボールクラブ(後の浦和レッドダイヤモンズ)の監督に就任。
1993年、Jリーグ元年のサントリーシリーズ・ニコスシリーズ共に最下位となり僅か1年で辞任。
1995年、横浜マリノスのGM(ゼネラルマネージャー)に就任。
1998年、横浜マリノスのGMを退任。
1998年、アビスパ福岡の監督に就任したが、18位で最下位(しかしJ1参入戦で辛くもJ1残留)。その年限りで監督を辞任。
2002年、浦和レッズのGM(ゼネラルマネージャー)に就任し、ハンス・オフトを監督に招聘。
2004年、ギド・ブッフバルト監督・ゲルト・エンゲルスヘッドコーチの体制とし、大型補強を断行してシーズンに臨み、第2ステージで悲願のステージ優勝。
2005年、浦和レッズが天皇杯で優勝。
2006年、浦和レッズが2年連続優勝。これを置き土産に、同チームGMを退任。

2006年、日本サッカー殿堂入り。

1980年代は日本代表監督として名将ぶりを発揮したが、1993年のJリーグ開幕時は「リーグ最弱チーム」監督として有名となったりと、落差の激しい指揮官だった。
日本代表監督時代には、選手や代表チーム全体の待遇改善に熱心に取り組んでいた。この経験がその後、浦和レッズGMに就任してから、大きく生かされた事は面白い。

全体的には、監督としてよりも、マネジメント能力に長けた人物であった。
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by wataridori21 | 2007-12-31 17:49

第12回キリンカップでの優勝と横山謙三監督の辞任(1991年)

1991年6月、1988年以来休止していたキリンカップを再開した。

ジャパンカップ時代から数えて通算12回目となったこの大会、遂に日本代表は初優勝を飾る事となった。
この大会の3試合で、三浦知良が3得点、北澤豪が2得点、中盤のラモス瑠偉・福田正博・堀池功、DF井原正巳・柱谷哲二、GK松永成立といった面々が活躍し、3戦目のトッテナム・ホットスパー(イングランド)戦では4-0と圧倒しての勝利を収めた。

6月02日 タイ戦→1-0
6月05日 バスコ・ダ・ガマ(ブラジル)戦→2-1
6月09日 トッテナム・ホットスパー(イングランド)戦→4-0

7月、来日してきたユーゴスラビアのパルチザン・ベオグラード(監督はイビチャ・オシム)と対戦して1分1敗。

7月18日 パルチザン・ベオグラード(ユーゴスラビア)戦→1-1
7月20日 パルチザン・ベオグラード(ユーゴスラビア)戦→0-1

そして、長崎・諫早にて日韓定期戦が開催されたが、フル代表で来日してきた韓国に敗退。

7月27日 韓国戦→0-1

同じ年、バルセロナ五輪・予選が行われた。山口芳忠監督の指揮で1次予選を通過したが、A代表の横山謙三監督がW杯本戦出場を狙えるチーム作りと並行したい意向から、このU-23日本代表の総監督を兼務する事とした。
しかし最終予選では惨敗を続け、6チーム中の5位となり、横山監督はU-23総監督とA代表チームの監督を辞任した。
この辞任は、当時技術委員長と務めていた川淵三郎の意向が強く働いた。川淵は実質プロ選手が集まっている日本代表に、アマチュア出身の横山謙三監督では務まらないと判断したかららしい。

そして1992年、オランダ出身のハンス・オフトが日本代表監督に就任する事になるのである。
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by wataridori21 | 2007-12-31 13:01

第1回ダイナスティカップと第11回アジア競技大会(1990年)

1990年のサッカー日本代表による親善試合は全く行われなかったが、第1回ダイナスティカップと第11回アジア競技大会に参加した。

ダイナスティカップ(皇朝杯)とは、極東地域のサッカーレベル向上を目的に創立された大会で、第1回大会は中国・韓国・北朝鮮・日本の4カ国が参加して行われた。その後1998年の第4回大会まで続き、2002年に「東アジアサッカー連盟」が設立された際に大会は再編され、2003年から「東アジアサッカー選手権」となった。

この第1回ダイナスティカップ(開催地は中国・北京)で日本は惨敗を繰り返し、3試合で何と無得点で、勝ち点0の最下位となってしまった。リーグ戦1位は韓国となり、決勝で中国と韓国が対戦し、同点からPKで中国が優勝。ちなみにこの大会から、永島昭浩・中山雅史が代表入りしている。

7月27日 韓国戦→0-2
7月29日 中国戦→0-1
7月29日 北朝鮮戦→0-1

9月、第11回アジア競技大会(開催地は中国・北京)が開催された。
日本代表はグループリーグでサウジアラビア・バングラディッシュと対戦し、1勝1敗で予選通過したが、準々決勝で、イランに0-1で敗退した。その後イランは準決勝で韓国に勝利、更に決勝で北朝鮮に勝利して優勝。
ちなみにこの時、新たに日本代表入りしたメンバーには、ブラジル帰りの三浦知良(当時23歳)や、日本に帰化したばかりのラモス瑠偉がいた。この2人はその後1990年代における、日本サッカー界の代表的選手として活躍する事になる。

9月26日 バングラディッシュ戦→3-0
9月28日 サウジアラビア戦→0-2
10月1日 イラン戦→0-1(準々決勝)
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by wataridori21 | 2007-12-31 12:17

五輪での年齢制限とW杯イタリア大会・1次予選(1989年)

1989年はW杯イタリア大会・予選のある年だった。

これまで日本代表は、プロ選手中心のW杯よりも、アマチュア選手中心の五輪を重要視する風潮が強かった。

しかし1992年に開催されるバルセロナ五輪からは、何と23歳以下の選手しか出場できないことになってしまった。
これはIOC(国際オリンピック委員会)が、FIFA(国際サッカー連盟)に対して主張してきた「五輪へのプロ選手の参加」が認められ、1988年のソウル五輪からプロ選手の参加が解禁となったが、FIFA側の主張により1992年のバルセロナ五輪から「五輪への参加資格選手を、23歳までに制限する」という年齢制限を付けることにしたのである。

かねてからFIFAは、「ワールドカップは世界に1つ」という考えがあり、オリンピックがW杯と同等に扱われる事を嫌っていた。その為、長年に渡って五輪へのプロ選手参加の禁止の姿勢を取ってきた。
それに対しIOCは、粘り強く「プロ選手の参加」の解禁を要望してきた。これが1988年のソウル五輪から実現したのだが、それでもFIFAは「W杯の商業価値」が下がる事を嫌い、バルセロナ五輪より23歳以下の制限を掛ける事を要求、IOC側もしぶしぶ受け入れる事としたのである。

しかしこの年齢制限により、日本代表は、五輪にフル代表で臨む事が出来なくなり、必然的にW杯を重視する事となった。

※五輪の年齢制限について、この記事を最初に書いたときは、僕自身「五輪の公平性と保つ為」と思い込んでしまっていたが、FIFAとIOCの関係を知るに至りました。お詫びの上、訂正します。

1月、日本代表は前年同様、中東遠征を行った。

1月19日 イランU-23代表戦→1-0
1月20日 イランA代表戦→2-2
1月22日 コゼスタン州選抜(イラン)戦→1-3
1月27日 アル・イティハド(シリア)戦→1-1
1月30日 スパルタク・ブリベーン(ブルガリア)戦→2-0
2月03日 シリア・ユース代表戦→1-2
2月06日 テシュリーエン(シリア)戦→0-0
2月08日 シリア・ユース代表戦→4-2

5月、韓国・ソウルにて恒例の日韓定期戦が開催され、帰国後に来日してきた中国と2試合を行った。

5月05日 韓国戦→0-1
5月10日 中国戦→2-2
5月13日 中国戦→2-0

そして5月中旬、W杯イタリア大会・1次予選が開催。相手は北朝鮮・香港・インドネシアでホーム&アウェーでの2回戦総当りで行う。
日本代表は北朝鮮と1勝1敗と善戦したが、香港・インドネシアとの引き分けが多く、連勝を続けた北朝鮮が、勝ち点の差で予選通過を果たした。ちなみに最終予選では韓国とUAE(アラブ首長国連邦)が本戦出場を決めている。

5月22日 香港戦→0-0
5月28日 インドネシア戦→0-0
6月04日 北朝鮮戦→2-1
6月11日 インドネシア戦→5-0
6月18日 香港戦→0-0
6月25日 北朝鮮戦→0-2

予選終了後の7月、日本代表は南米遠征をおこなった。

7月09日 エストゥディアンテス・デ・ラプラタ(アルゼンチン)戦→1-2
7月11日 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)戦→2-2
7月13日 インデペンディエンテ(アルゼンチン)戦→0-2
7月18日 コリチーバFC(ブラジル)戦→0-1
7月20日 ジョインビーレ(ブラジル)戦→1-1
7月23日 ブラジル代表戦→0-1
7月27日 パルメイラス(ブラジル)戦→0-1

帰国後の8月、イングランドの名門であるマンチェスター・ユナイテッドと対戦し、この試合では48000人の観衆を集める大盛況だった。その後来日してきたボカ・ジュニアーズと2試合を戦った。

8月07日 マンチェスター・ユナイテッド(イングランド)戦→0-1
8月10日 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)戦→0-0
8月13日 ボカ・ジュニアーズ(アルゼンチン)戦→0-1

この年の日本代表の試合はこれで終了、次の試合は翌年の7月まで行われていない。
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by wataridori21 | 2007-12-31 11:29

JSL(日本サッカーリーグ)の「プロ化」への動き(1988年)

1988年のサッカー日本代表の戦績は思わしくなかったが、この年はその後のJリーグ設立のきっかけとなる、大きな動きがあった。

日本代表チームは、1970年代を通して国際大会で惨敗を繰り返してきた。日本サッカー協会は、かつてのメキシコ五輪(1968年)の強さを取り戻そうと、1981年から85年までの森孝慈長期政権で若い選手を数多く育成するなどしてチーム強化を進めたが、1985年のW杯・予選で韓国に完敗した。

韓国は、1966年にW杯ベスト8進出するなど「アジアの強国」を誇っていた北朝鮮に対抗するべく、1970年代から国をあげて代表チームの強化に取り組み、1983年には「スーパーリーグ」というプロサッカーリーグを創設していて、ここで育った選手達がW杯や五輪の主力となっていた。
この事から、1985年のW杯最終予選で敗退後に「韓国のプロリーグに習って、日本のJSLもプロ化できないか」との議論が沸き起こってきた。しかし当時の日本サッカー協会の関係者の多くには「アマチュア至上主義」が強く、なかなか具体化してこない。

そこで協会とは別に、JSLの方でプロ化を検討し始めた。
1988年3月、JSL(日本サッカーリーグ)の森健兒と木之本興三事務局長(古川電工OB)を中心に「JSL活性化委員会」を設立した。

メンバーは木之本興三・森健兒・石井義信・森孝慈・小倉純二・村田忠男・浅野誠也・杉山隆一・佐々木一樹の9人で構成され、委員長に小倉純二が就任、ここに数人のメンバーを加えてプロ化の為の骨子をまとめた。

そこに、当時日本サッカー協会の会長となっていた元メキシコ五輪・日本代表監督の長沼健が、協会内に「プロ化検討委員会」を設立した。
当時のサッカー協会では「プロ化」への動きに警戒感を持つ幹部が多く、この「抵抗勢力」に対抗する為に、長沼会長自らが「プロ化推進」の旗を振る行動に出たのである。これによりJSLのプロ化は一気に加速する事となった。

同年8月、元日本代表監督の川淵三郎がJSL総務主事に就任した。
川淵は1984年のロス五輪・予選での大敗を機にサッカー界から離れ、親会社の古川電工で会社勤めをしていたが、社業に専念する為に総務主事を降りる事にした森健兒が、自分の後任にと、彼を呼び戻したのである。

川淵はその後1990年代に入ると、日本のプロサッカーリーグ創設の際の、象徴的な存在として、連日のようにテレビカメラの前に登場する事になるのである。
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by wataridori21 | 2007-12-31 10:38

横山謙三監督の就任とキリンカップの休止(1988年)

1988年、横山謙三新監督の初陣は1月の中東遠征だった。

横山監督は遠征に先立ち、日本代表のフォーメーションを3-5-2に変えた。それまで日本代表では採用されなかった中盤に5人を置くという、当時ではまだ新しいシステムであり、このときにウィングバックに平川弘・福田正博が採用された。
更にDFに井原正巳、ボランチに柱谷哲二が代表入り。この2人はその後、長きに渡って日本代表の主力となり、特に井原は国際Aマッチ通算123試合出場の金字塔を打ちたてる事になる。

1月27日 アラブ首長国連邦戦→1-1
1月30日 アラブ首長国連邦戦→0-2
2月02日 オマーン戦→1-1

5月には第11回キリンカップが開催された。しかし前年の五輪・最終予選の雪辱が掛かっていた中国戦でも0-3と大敗したりと、新システムはなかなか機能しない。
ちなみにキリンカップはこの年を最後に、数年間開催が中止された。同大会での日本代表の成績は振るわず、ここ数年間観客の伸びが悪くなり、興行的に見合わなくなって来た事も一因と思われる。その後、1991年に再び開催された。

5月29日 フラメンゴ(ブラジル)戦→1-3
6月02日 中国戦→0-3
6月05日 バイヤー・レバークーゼン(西ドイツ)戦→0-1

6月下旬、ヨーロッパ遠征が行われた。初戦相手の西ドイツのアッシュハイム戦で10-0の大勝を収めたが、全体的に低調な成績で終わっている。

6月23日 アッシュハイム(西ドイツ)戦→10-0
6月26日 MSVミュンヘン(西ドイツ)戦→2-2
6月30日 ランドシュット(オランダ)戦→3-1
7月02日 SVザルツブルグ(オーストリア)戦→4-4
7月04日 ランスバーク(西ドイツ)戦→1-3
7月06日 FCバッカー(西ドイツ)戦→6-1
7月09日 トルコ五輪代表戦→0-3
7月12日 SSVロイトリンゲン(西ドイツ)戦→2-1
7月14日 FCホンブルク(西ドイツ)戦→0-2
7月16日 ヴァルトホフ・マンハイム(西ドイツ)戦→0-4
7月17日 SVサルムロール(西ドイツ)戦→1-1
7月18日 ダルムシュタット(西ドイツ)戦→0-5

帰国後の8月にイタリアから来日のナポリと対戦、9月にはソウル五輪出場を前に「調整目的」で来日してきたアルゼンチン代表・ソ連代表と対戦。

五輪のサッカー競技では、ソウル五輪からプロ選手の参加が解禁される事となった(ただしW杯の出場経験が無いことが条件)。その為、この時に来日してきたソ連・アルゼンチン代表にはプロ選手も多く参加してきている。

9月08日 アルゼンチン代表戦→0-1
9月13日 ソ連代表戦→2-2

10月には恒例の日韓定期戦が、日本で開催されたが敗退。

10月26日 韓国戦→0-1
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by wataridori21 | 2007-12-31 09:27

ソウル五輪・予選と石井義信監督の辞任(1987年)

1987年、日本サッカー協会は、前年に導入した「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」を廃止した。

JSL(日本サッカーリーグ)はアマチュアリーグだが、1980年に入ると、読売クラブを筆頭に、選手に会社業務を免除してサッカーのみに集中できるようにするチームが数多く出てきた。これはプロ選手の扱いと殆ど代わらず、彼らは「事実上のプロ選手」と言ってよく、サッカー界では公然の秘密だった。そこにこの「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」制度が導入されたのは自然の流れといっていい。
しかし「セミプロ的」な雰囲気のするこのスペシャルライセンスは結局1年で廃止して、普通に協会に、プロ登録出来るようになった。

この年のサッカー日本代表は、1月から東アジア各国に遠征を行った。

1月08日 上海市(中国)戦→1-0
1月10日 湖南省(中国)戦→3-0
1月13日 広州市(中国)戦→1-1
1月15日 広東省(中国)戦→0-0
1月17日 上海市(中国)戦→0-0
2月24日 台北選抜(台湾)戦→1-0
3月24日 大宇(韓国)戦→1-1

4月、ソウル五輪直前の壮行試合として、日本リーグ選抜と対戦したが、0-1で、何と敗退してしまった。選抜チームには、代表を外された岡田武史や、ラモス(1989年に帰化してラモス瑠偉に改名)、菊池新吉らがメンバーに入っていた。

4月02日 日本リーグ選抜戦→0-1

そしてソウル五輪・1次予選が始まった。グループリーグの相手はインドネシアとシンガポールで、ホーム&アウェーで対戦する方式だったが、日本にとってこの2チームは格下であり、4戦全勝で最終予選に進む事となった。

4月08日 インドネシア戦→3-0
4月12日 シンガポール戦→1-0
6月14日 シンガポール戦→1-0
6月26日 インドネシア戦→2-1

五輪1次予選の最中、5月に第10回キリンカップが開催された。今回の対戦相手はブラジルのフルミネンセ、セネガル代表、そしてイタリアのトリノの3チームで、結果は2分1敗と惨敗。

5月24日 フルミネンセ戦→0-0
5月27日 セネガル代表戦→2-2
5月29日 トリノ戦→0-1

9月にソウル五輪・最終予選が行われた。1次予選と同じホーム&アウェーで、相手はタイ・ネパール・中国。日本と中国はともにネパール・タイに全戦負け無しで、この2チームに本戦出場が絞られた。
しかし日本は敵地の中国・広州で1-0で快勝したが、続く国立競技場で0-2で敗退し、得失点差で中国の出場となってしまった。
中国は戦後の文化大革命の影響で国際的に孤立し続けてきた経緯があり、1970年代後半から国際社会に本格的に復帰してきた。その中での、久しぶりのスポーツでの桧舞台だった。

9月02日 タイ戦→0-0
9月15日 ネパール戦→5-0
9月18日 ネパール戦→9-0
9月26日 タイ戦→1-0

10月04日 中国戦→1-0
10月26日 中国戦→0-2

この、あまりにも痛い予選敗退により、石井義信監督は辞任し、後任に元メキシコ五輪のGKだった横山謙三監督が就任した。
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by wataridori21 | 2007-12-27 21:25

奥寺康彦のサッカー日本代表復帰と第10回アジア競技大会(1986年)

1986年3月、石井義信監督が就任し、そこに西ドイツで複数のプロチームに所属し、通算9年に渡って活躍していた奥寺康彦が日本代表に復帰する事となった。

すでに全盛期は過ぎていたが、本場欧州のプロサッカーで鳴らした存在感に、周囲の期待は大きかった。
しかし彼はあくまでプロ選手であり、復帰先の古巣・古川電工サッカー部はアマチュアチーム。そこで日本サッカー協会は「スペシャルライセンス・プレーヤー」という制度を作った。これはアマチュアチームに属するプロ登録選手というもので、これが奥寺に適用される時に、同時にMF木村和司も登録された。これにより、奥寺は晴れて日本代表チームへの復帰も果たす事となった。

この年の初試合は、5月に開催された第9回キリンカップ。この年は日本代表を含めて僅か4チームしか参加していない。ちなみにこの中のヴェルダー・ブレーメンには代表復帰直前の奥寺康彦が参加していた。

5月11日 アルジェリア選抜戦→2-1
5月14日 ヴェルダー・ブレーメン(西ドイツ)戦→0-2
5月16日 パルメイラス(ブラジル)戦→0-2

7月にはマレーシアで第30回ムルデカ大会が開催された。

7月23日 オロモーツ(チェコスロバキア)戦→1-2
7月25日 シリア戦→2-1
7月27日 中国選抜戦→4-2
8月01日 マレーシア戦→1-0

9月には第10回アジア競技大会が開催された。日本代表は2勝2敗で予選リーグで敗退。

9月20日 ネパール戦→5-0
9月22日 イラン戦→0-2
9月24日 クウェート戦→0-2
9月28日 バングラディッシュ船→4-0
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by wataridori21 | 2007-12-26 23:10