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「サッカー日本代表」関連記事の締めくくり&ブログ休止のお知らせ

さて、今回で「サッカー日本代表」の記事は、ひとまず休止という事になる。

もう2007年まで書いてしまったわけだから、「岡田ジャパン」の今年の戦績が、そのまま次の記事になる。

今年の6月の時点で、僕はサッカーに関しては全くの素人だった。それが一つのきっかけでJリーグに関して書こうと思ったのが2007年7月6日。
以来、まさかJリーグ31チームと消滅した横浜フリューゲルス、更に日本サッカー協会の傘下のJFLの組織について書くようになり、9月からは、休止の期間もあったけれど、戦前から続く「サッカー日本代表チーム」の歴史まで書く事になるとは、7月の段階では全く考えもしなかった。

そして日本代表関係の記事は50くらいと思っていたところ、まさか今回で120記事にまで膨らんでいくとは、驚かされた。実は後半1970年代あたりからは、かなり省略した出来事もある。多分全力で書いたら300記事くらいまで膨らんでいた可能性さえあった。

書き上げて思うのは、日本サッカーの歴史の深さである。

今の日本代表チームがあるのは、戦前の1917年の第3回極東選手権で中国代表と対戦して以来、大勢の先人達の血のにじむ努力の賜物である。
一度は1936年のベルリン五輪で当時の欧州の雄・スウェーデンに勝利するほどの実力を手にしながら、太平洋戦争でそれまでの努力の全てを失ったかに見えた日本代表が、生き残った元選手達が必死になって組織を立て直し、学生サッカーの「素材」を、なけなしの資金を集めて海外に遠征させて将来の幹部候補生に育て上げた。
そして彼ら学生達がその後指導者となり、その指導者が育てた選手達が結成した新たな日本代表は、東京五輪・メキシコ五輪で大きな戦績を残した。

その後の日本サッカー界は「厳しい冬」の時代を迎えたが、メキシコ五輪世代の選手達が指導者になると再び数多くの選手達が育ち、1方は代表選手、もう1方は海外選手として巣立っていった。そしてサッカー界のOB達が結集してプロサッカー「Jリーグ」を設立し、外国からすぐれた指導者を招聘し、アジアで3本の指に匹敵する代表チームに成長した。

そして五輪・本戦復帰やW杯・本戦出場と続き、そしてW杯の日本への誘致、ユース世代の育成システムの確立、2006年のW杯では惨敗ながら、続く若手がU-23日本代表のメンバーとして今年、北京に乗り込むのである。おそらく彼らの中から2年後のW杯の主力が台頭していくだろう。

現在、日本代表チームはまだまだ発展途上である。南米や欧州の代表には、まともに戦えばはっきり言って太刀打ちできる力はない。その上去年のアジアカップで、戦争の影響が収まりつつありようやく若い力が台頭してきたイラク、そして再び力をつけてきたサウジアラビア、そして近年成長著しいオーストラリア、更にもともと人口が破格に多い中国の代表チーム強化の動向も気になるところだ。そして長年のライバル・韓国代表も健在。

日本代表も、アジア諸国の代表チームの成長は、決して見逃してはならない。

しかし、これはある意味喜ばしい事でもある。アジアのサッカーが数年先に、南米や欧州と肩を並べる時代も、そう遠くないという事だ。その中で日本代表も切磋琢磨して、再びアジアチャンピオンの座に着けば、必然的に世界レベルに達する事が出来るはずだ。

日本代表チームの歴史はまだ91年。Jリーグに至っては僅か15年しか経っていないのだ。焦ってはいけない。今は1年1年を大事にこなしていくのが必要だ。

僕自身、これからも日本サッカー界には注目していきたいと思っている。



さて、ここでお知らせがあります。

前に「お知らせ」記事で書いたけれど、去年の後半あたりから僕の仕事関連や生活スタイルが大きく変化してきており、今年からこのブログを更新することは大変難しくなってきた。

10月初めの頃は週1のペースで書こうと思っていたけれど、これからしばらくスポーツ観戦から離れざるを得ないと思うようになった。それは僕のこれからの人生においてとても大事な決断だと考えたからだ。人間、30代ともなれば、否応なく訪れる時期なのだと自分では考えている。

だから去年の10月下旬から、駆け足で「サッカー日本代表」の記事を完成させた。本当に120もの記事になるとは想像していなかったので12月に終了するつもりが1月の正月明けまでずれ込んでしまった。ともかく完成できてよかった。本当にホッとしている。

これからしばらく意識的にスポーツ観戦の世界から、一旦離れるつもりだ。そしてこれから自分自身の人生をどう生きていくか、じっくり考えてみたいと思っている。

その為、このブログを一時休止します。再開時期はまだ考えていない。少なくとも今年1年は休むつもりで、もしかしたら2年・3年先になるかも知れないけれど、いずれ必ず復活するつもり。

これまで訪問してくれた人達には感謝にたえません。相互リンクしてくれた人達にはこの場を借りまして厚く御礼申し上げます。本来なら1人1人のブログに挨拶に行くべきですけど、必ず帰ってくるので、その時はよろしくお願いします。


では皆さん、また会う日まで、さようなら。

管理人・渡り鳥
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by wataridori21 | 2008-01-06 06:47

イビチャ・オシム(元日本代表監督、ユーゴスラビア監督・選手、ジェフ千葉監督)

2006年7月から2007年11月まで日本代表監督を務めたのはイビチャ・オシム。

彼はセルビア出身で、1959年に18歳にして、サラエボのプレミイェル・リーガ所属のプロチームのFKジェリェズニチャル・サライェヴォに入団し活躍。

1964年、ユーゴスラビア代表に選出され、東京五輪に出場し、順位決定戦で日本代表と対戦して2ゴールを決める。
1968年、UEFA欧州選手権でユーゴ代表として活躍し、準優勝に貢献。
1978年、現役を引退。

1979年、ジェリェズニチャル監督に就任。
1985年、ユーゴ代表チームのコーチとしてロサンゼルス五輪で銅メダル獲得。
1986年、ユーゴA代表の監督に就任。
1990年、W杯イタリア大会でベスト8。
1990年、パルチザン・ベオグラードの監督に就任(引き続き、ユーゴ代表監督も兼務)
1992年、ユーゴ代表・パルチザンの監督を辞任。

1993年、オーストリア・ブンデスリーガ所属のSKシュトゥルム・グラーツ監督に就任。
1995年、SKシュトゥルム・グラーツ監督としてブンデスリーガ準優勝。
1996年、オーストリア・カップでチーム初優勝。
1997年、オーストリア・カップ2連覇。
1998年、オーストリア・ブンデスリーガでチーム初優勝。
1999年、ブンデスリーガ2連覇、オーストリア・カップ優勝の2冠達成。
2002年、SKシュトゥルム・グラーツ監督を退任。

2003年、ジェフユナイテッド市原の監督に就任。
2005年、ジェフユナイテッド市原・千葉監督としてヤマザキナビスコカップで優勝。
2006年、ジーコ監督の後任として日本代表監督に就任。
2007年、急性脳梗塞で倒れ、日本代表監督を辞任。

ユーゴ代表監督時代は、代表監督として結果を残しながらも、紛争に翻弄された不幸な経歴の持ち主。しかし監督としての実績は、本当に素晴らしい。
2007年夏にアジアカップ4位となり、いよいよこれから「オシムサッカー」の真骨頂が見られると、楽しみにしていた矢先の不幸は本当に残念だった。今はただ早く元気な姿をみせてくれる事を祈るばかりである。
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by wataridori21 | 2008-01-06 01:41

ジーコ(元日本代表監督、ブラジル代表選手、トルコ共和国・フェネルバフチェ監督)

2002年7月から2006年6月まで日本代表監督を務めたのはジーコ(本名はアルトゥール・アントゥネス・コインブラ)。

彼はブラジル・リオデジャネイロ出身で、現役時代の全盛期頃には、世界中のサッカーファンの間では知らぬものはない、と断言できるほどの有名なサッカー選手だった。

1971年に、ブラジルに設立された国内リーグ「カンピオナート・ブラジレイロ」所属のフラメンゴに入団し、数年でブラジルのスーパースターに成長、フラメンゴではMFながら通算731試合出場で508ゴールを決めた。
W杯出場の常連で、1978年(アルゼンチン大会)、1978年、1982年、1986年の3大会に出場。1982年のスペイン大会ではソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとともに「黄金の4人」と呼ばれ、W杯の花形選手として活躍したが2次リーグで敗退。1986年のW杯メキシコ大会ではベスト8。
1983年、イタリアのセリエA所属のウディネーゼに移籍。
1985年、ウディネーゼを退団し、古巣のフラメンゴに復帰。
1990年、1度は現役を引退し、ブラジルスポーツ省長官に就任。
1991年、現役復帰し、住友金属サッカー部に入部。
1992年、住友金属サッカー部がJリーグ設立に伴い「鹿島アントラーズ」に名称変更。
1994年、現役を引退し、鹿島アントラーズのテクニカルアドバイザーに就任。

2002年、日本代表監督に就任。
2003年、第6回FIFAコンフェデレーションズカップに出場し、グループリーグで1勝2敗。
2004年、第13回AFCアジアカップで優勝。
2005年、第7回FIFAコンフェデレーションズカップに出場し、グループリーグで1勝1敗1分。
2005年、W杯ドイツ大会・予選で1次・最終含めて12試合で11勝1敗という驚異的な勝率でアジア予選を1位で通過。
2006年、W杯ドイツ大会・本戦に出場し、グループリーグ3戦で1分2敗で1勝も出来ずに決勝トーナメント進出ならず。

2006年、7月にトルコ共和国のプロサッカーリーグ・シュペルリガの強豪・フェネルバフチェの監督に就任。
2007年、シュペルリガでリーグ優勝し、2008年のUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント進出を決めた。

現役時代から日本と非常に関係が深く、日本代表監督としても大変に人気が高かった。それだけに2006年W杯ドイツ大会・オーストラリア戦を境に、彼の監督としての評価が180度変わってしまったことは残念だった。
しかし現在、トルコのクラブチーム・フェネルバフチェの監督として名将ぶりを発揮している事は素晴らしい。
いつの日か、再び日本の地で活躍できる事を祈りたい。
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by wataridori21 | 2008-01-06 01:04

フィリップ・トルシエ(元日本代表監督、FC琉球・総監督)

1998年9月から2002年6月まで、日本代表監督を務めたのはフィリップ・トルシエ。

彼はフランス・パリ出身で、1976年、21歳の時にフランス2部リーグのASアングレームに所属。
以来、レッドスターFC93(元FIFA会長ジュール・リメが創設したクラブチーム)、FCルーアン、そしてスタッド・ランスと、フランス2部リーグのチームを渡り歩いた。

1983年、28歳で現役引退し、同年にU-15フランス代表の監督に就任。U-15とはいえ、指導者転向1年目から代表監督を務めている事からも、早くから指導者として期待されていた事が推察される。
1989年、アフリカに渡り、コートジボワールサッカーリーグのASECミモザ・アビジャンの監督に就任。1990年から1992年までリーグ3連覇。
1993年、前年にアフリカネイションズカップで優勝したコートジボワール代表の監督に就任するが、同年の「アジア・アフリカ選手権」直前に辞任。
1997年、ナイジェリア代表監督に就任し、チームを1998年フランスW杯・予選通過させる手腕を発揮したが、サッカー協会と金銭面での対立が生じて、解任される。
1998年、すでにフランスW杯出場を決めていた南アフリカ代表の監督に就任し、本戦グループリーグで指揮を執り3戦で2分1敗となり1次リーグ敗退。大会終了後に代表監督を退任。

1998年、9月にフランスサッカー協会の紹介で日本代表監督に就任。この時、日本A代表とともにU-21日本代表の監督を兼任。
2000年、シドニー五輪でU-23日本代表監督として、1968年以来32年ぶりの大会ベスト8。
2000年、第12回アジアカップで、1992年以来8年ぶりのアジアチャンピオン。
2001年、第5回FIFAコンフェデレーションズカップで準優勝。
2002年、W杯日韓大会で日本代表初の決勝トーナメント進出を果たし、ベスト16。
2002年、日本代表監督を退任。

2003年、カタール代表監督に就任するが、翌2004年、成績不振で解任。
2004年、フランス1部リーグのマルセイユ監督に就任、しかし翌2005年に解任。
2005年、モロッコ代表監督に就任、しかし同年の内に解任。
2007年、JFL(日本フットボールリーグ)・FC琉球の総監督に就任。

日本やアフリカ諸国などで代表監督を務め、数々の実績を挙げながら、実直なのか奇矯なのか判断しにくいが、行く先々で物議を醸し出す人物(ある意味、人間味のある指導者とも言える)。

人によって賛否両論はあるが、歴代の日本代表監督の中で、彼ほどの実績を残した人物はなく、やはり指揮官としては高く評価されて良いだろう。
今年はJFLチームの総監督との事で、どこまでチームをレベルアップさせていくか、大いに期待したい。
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by wataridori21 | 2008-01-05 20:32

第14回アジアカップとイビチャ・オシム監督(2007年)

2006年7月、ジーコ監督の後任として、当時ジェフユナイテッド千葉の監督を務めていたイビチャ・オシムが日本代表監督に就任した。

オシム監督は、1990年のW杯イタリア大会で、当時ユーゴ紛争で混乱状態だったユーゴスラビアのサッカー代表監督を務め、ベスト8進出した経歴を持ち、2003年から日本のジェフユナイテッド千葉の監督を務めてきた人物。

就任会見でオシム監督はこう語った。

「いまの日本は故障した車のようなもの、その車を押さなければならない。進化を続ける世界のサッカーに追いつかなければならない。ただし、他の国のコピーではいけない」

就任早々、日本代表選手に「考えて走るサッカー」をスローガンに掲げ、代表チームの意識改革を推し進めた。

このスローガンについて、「FAIR PLAYの記憶」(フジテレビ製作)で元日本代表監督の森孝慈氏は、こう語る。

「え?走るのサッカーでは当たり前でしょ、え?考えるってのも当たり前でしょ、でもそういう事が足りないから、そういう言葉が出たんだな、代表選手に対して。

という事は、もうちょっと『難しい戦術がどうだ、こうだ』とか言う前に、やるべき事が抜けてたのかな、抜けてるのかな、という見方をちょっとしたんです。

だから、『もっと基本をしっかりやれ』、と。それが当たり前になって、その上で、いろんな作戦とか戦いとか、これからでてくるんじゃないかな、と」


8月、2月から続く第14回AFCアジアカップ・予選試合。グループリーグでの対戦相手はイエメン・サウジアラビア・インド。日本代表は6勝1敗でサウジアラビアと並んだが得失点差で予選を1位で通過。

8月16日 イエメン戦→2-0
9月03日 サウジアラビア戦→0-1
9月06日 イエメン戦→1-0
10月11日 インド戦→3-0
11月15日 サウジアラビア戦→3-1

明けて2007年6月、第28回キリンカップが開催された。対戦相手はモンテネグロ代表とコロンビア代表。2試合で1勝1分となり日本代表が優勝。

6月01日 モンテネグロ戦→2-0
6月05日 コロンビア戦→0-0

そして8月、第14回AFCアジアカップが開催された。今回のアジアカップはマレーシア・タイ・インドネシア・ベトナムの4カ国による共同開催となっている。その為各チームともに試合毎の移動・宿泊にかなりの困難をともなった。

日本のグループリーグの対戦相手はベトナム・カタール・UAE(アラブ首長国連邦)で、2勝1分でリーグ1位で決勝トーナメント進出を決めた。

7月09日 カタール戦→1-1
7月13日 UAE戦→3-1
7月16日 ベトナム戦→4-1

準々決勝の相手は、前年のW杯ドイツ大会で惨敗した相手オーストラリア。かつてオセアニアサッカー連盟に加盟していたが、AFC(アジアサッカー連盟)に移籍し、今回のアジアカップ初出場となったのである。既にヒディング監督は退任していたが、この大会での優勝候補の筆頭に上げられている強豪であり、日本にとってとても重要な試合だった。
やはりオーストラリアは強く、1-1のままPK戦にもつれ込んだが、4-3で辛くも日本代表の勝利となった。川口能活の好セーブがまた光った。

しかし準決勝で対戦したサウジアラビアに敗退してしまった。オーストラリア戦と同じベトナム・ハノイでの試合なので移動の負担が少なく、コンディション良く試合に臨んだのだが、この時期になると、中東やオセアニアの代表チームは国際的に力をつけてきており、日本代表もアジアの枠内でも安心できない状況になってきている。

その上、韓国との3位決定戦も、0-0のままPK戦にもつれ込み、5-6で敗退してしまい、韓国の勝利。アジアカップは残念ながら4位に終わってしまった。

7月21日 オーストラリア戦→1-1(PK4-3、準々決勝)
7月25日 サウジアラビア戦→2-3(準決勝)
7月28日 韓国戦→0-0(PK5-6、3位決定戦)

そして決勝はイラクとサウジアラビアのカードになり、29日・ジャカルタで開催された試合では1-0でイラクが優勝を決めた。イラクは2004年のアテネ五輪ではU-23代表がベスト4入りしていて、更に2006年のアジア競技大会では準優勝を決めていた。

今回のアジアカップは、中東のサッカーレベルが、非常にレベルアップしている事を印象付けた。確実に中東の代表チームがかつての力を取り戻しつつある事は、日本・韓国の両国ともに決勝進出できなかった事が、それを物語っている。

ともあれ、イビチャ・オシム監督も日本代表監督2年目を迎え、いよいよレベルアップが進んでいくのかと思った矢先の11月16日、千葉県内の自宅で急性脳梗塞で倒れ入院。数日後に日本代表監督を辞任、後任に1997~98年にかけて日本代表監督を務めた岡田武史が選ばれた。
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by wataridori21 | 2008-01-04 22:38

W杯ドイツ大会・本戦(2006年)

2006年はW杯ドイツ大会の年である。「ジーコ・ジャパン」の4年間の全てが注がれる大会の筈だった。

この年の日本代表の初戦は、2月にサンフランシスコで開催されたアメリカ代表戦だったが2-3で敗退。帰国後の18日にフィンランド代表戦に臨み2-0と快勝。
6日後には翌年東南アジアで開催予定の第14回アジアカップ・予選が開幕し、インド戦で6-0で大勝。6日後にはドイツ・ドルトムントでボスニア・ヘルツェゴビナ戦に臨み2-2。帰国後の3月にはエクアドル代表戦が行われ1-0。着々と代表チームの調子が上がってきた。

2月10日 アメリカ戦→2-3
2月18日 フィンランド戦→2-0
2月22日 インド戦→6-0
2月28日 ボスニア・ヘルツェゴビナ戦→2-2
3月30日 エクアドル戦→1-0

5月、第27回キリンカップが開催された。今回の対戦相手はブルガリア代表とスコットランド代表。2試合で1分1敗となった。

5月09日 ブルガリア戦→1-2
5月13日 スコットランド戦→0-0

これでW杯前の日本国内での試合は全て終了し、福島のJヴィレッジでの合宿を経てドイツに出発した。

ドイツでは5月30日に地元ドイツと練習試合を行い、2-2の引き分けに終わったが、結果よりも相手ゴールを守るGKオリバー・カーンから2点を取ったことが大きな話題となった。しかし続くマルタとの対戦では、格下のチーム相手に1-0の僅差だった事から、何ともいえない不安感が残った。

5月30日 ドイツ戦→2-2
6月04日 マルタ戦→1-0

日本代表のグループリーグの相手はオーストラリア・クロアチア・ブラジル。クロアチアとブラジルは強豪で苦戦は避けられず、サッカー関係者の間では第1戦のオーストラリア戦の勝敗が決勝トーナメント進出への鍵になると予想された。しかしオーストラリアの監督は、4年前に韓国をW杯ベスト4に導いた知将フース・ヒディングだった。

そして6月、W杯ドイツ大会が開幕した。

日本代表メンバーは次の通り、

監督はジーコ
GK土肥洋一・川口能活・楢崎正剛
DF宮本恒靖・三都主アレサンドロ・中澤祐二・中田浩二・坪井慶介・加地亮・駒野友一・茂庭照幸
MF福西崇史・中田英寿・中村俊輔・小笠原満男・稲本潤一・小野伸二・遠藤保仁
FW柳沢敦・高原直泰・玉田圭司・大黒将志・巻誠一郎

12日、オーストラリア戦が開始、この時の気温は30度を超える猛暑、更に中村俊輔が数日前から高熱を出していた。一進一退の攻防が続き26分、ペナルティライン付近で中村俊輔が高くボールを打ち上げるとそのままゴールに入り幸運な1点先制。

しかしそこからなかなか追加点が奪えず、後半に突入。気温が更に上がり38度に達し、日本選手は次第に動きが鈍くなった。
日本のパスが繋がらなくなってからオーストラリアは攻勢に転じ、途中53分から出場のティム・ケーヒルが84分・89分、そしてこれも途中75分から出場のジョン・アロイージが92分に3点目を決めた。

その時の事を「スポーツハイライト2006」(NHK製作)で両チーム各選手が語っている。

「70分を過ぎてからじゃないかな、と思います。そのあたりから日本の選手のスタミナが消耗していって、奪ったボールをすぐ相手ボールにしてしまったり、そういうあたりから、こちらもエネルギーがなくなってきてるかなって…」(宮本恒靖選手)

「みんなの足が止まって、こぼれ球が拾えなくなってからの失点だったと思う」(中澤祐二選手)

「日本は中盤が空き、疲れが見え始めたので我々はそこにつけ込み優位に立った。日本戦はハードな試合だったが、明らかに我々が体力で上回っていた。」(ティム・ケーヒル選手)


日本代表にとって、このオーストラリア戦がすべてだった。第2戦のクロアチア戦は引き分け、第3戦のブラジル戦は34分に玉田圭司の先制ゴールがあったが、その後はブラジルの猛攻が続き1-4の惨敗。これにより日本は0勝1分2敗で、まさかのグループリーグ敗退となった。

6月12日 オーストラリア戦→1-3
6月18日 クロアチア戦→0-0
6月22日 ブラジル戦→1-4

大会はその後、決勝でイタリアとフランスが対戦し、1-1からPK戦を制したイタリアが優勝を飾った。

大会終了後、1990年代半ばから日本代表の中心選手として活躍したMF中田英寿が現役を引退。
ジーコ監督は日本代表監督を退任、後任にジェフ千葉のイビチャ・オシム監督が就任する事となった。
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by wataridori21 | 2008-01-04 19:15

第7回FIFAコンフェデレーションズカップと第2回東アジア選手権(2005年)

2005年はW杯ドイツ大会・最終予選がある年である。

日本代表のグループリーグの対戦相手は北朝鮮・バーレーン・イラン。バーレーンとイランは前年のアジアカップで対戦しているだけに、お互い手の内を知り尽くしていると言ってよく、北朝鮮は情報不足で、不気味な印象があった。

2月09日 北朝鮮戦→2-1
3月25日 イラン戦→1-2
3月30日 バーレーン戦→1-0
6月03日 バーレーン戦→1-0
6月08日 北朝鮮戦→2-0
8月17日 イラン戦→2-1

結果は5勝1敗でグループ1位で最終予選を通過した。1997年の最終予選を思えば、8年間での日本代表の成長は、感慨深いものがある。
ちなみにアジア予選通過チームは、他にサウジアラビア・韓国・イランとなっており、アジアからの本戦出場は合計4カ国ということになる。

5月、第26回キリンカップではペルー代表とUAE(アラブ首長国連邦)と対戦したが0勝2敗となってしまった。今後に不安を感じさせる結果だった。

5月22日 ペルー戦→0-1
5月27日 UAE戦→0-1

6月、ドイツ・フランクフルトで第7回FIFAコンフェデレーションズカップが開催され、日本代表もAFCアジアカップ優勝国として出場した。
グループリーグの相手はメキシコ(2003年CONCACAFゴールドカップ優勝国)・ギリシャ(ユーロ2004優勝国)・ブラジル(2004年コパ・アメリカ優勝国)だったが結果は1勝1分1敗でリーグ戦で白旗を挙げる事になってしまった。
ちなみに決勝ではブラジルとアルゼンチン(2004年コパ・アメリカ準優勝)のコパ・アメリカ決勝と同じカードでの対決となり、ブラジルが優勝している。

7月、韓国で第2回東アジア選手権が開催された。日本は3試合を戦い1勝1分1敗で中国に次いで2位の成績で終わった。ちなみにこの大会で日本代表メンバーに「黄金のカルテット」は1人も参加していなかった。

7月31日 北朝鮮戦→0-1
8月03日 中国戦→2-2
8月07日 韓国戦→1-0
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by wataridori21 | 2008-01-04 01:50

AFCアジアカップでの大会2連覇(2004年)

2004年の日本A代表はW杯ドイツ大会・予選とAFCアジアカップに備えて試合を重ねた。

2月07日 マレーシア戦→4-0
2月12日 イラク戦→2-0

そして2月という早い時期にW杯1次予選が始まった。グループリーグの相手はオマーン・シンガポール・インド。年間通しての1次予選結果は次の通りで、6戦全勝となり、やはり力の差は歴然としていた。

2月18日 オマーン戦→1-0
3月31日 シンガポール戦→2-1
6月09日 インド戦→7-0
9月08日 インド戦→4-0
10月13日 オマーン戦→1-0
11月17日 シンガポール戦→1-0

7月、第25回キリンカップが開催された。今回の相手はスロバキア代表とセルビア・モンテネグロ代表で、日本代表は2連勝で優勝を決めた。

この年最大の国際大会は7月に中国で開催されたAFCアジアカップ。グループリーグの相手はイラン・オマーン・タイ。メンバーは次の通り、

監督はジーコ
GK土肥洋一・川口能活・楢崎正剛
DF三浦淳宏・田中誠・茶野隆行・宮本恒靖・松田直樹・三都主アレサンドロ・中澤佑二・加地亮
MF藤田俊哉・山田卓也・福西崇史・中村俊輔・小笠原満男・中田浩二・遠藤保仁・西紀寛
FW鈴木隆行・本山雅志・玉田圭司

予選リーグで、日本代表は2勝1分0敗で決勝トーナメント進出が決まった。

7月20日 オマーン戦→1-0
7月24日 タイ戦→4-1
7月28日 イラン戦→0-0

そして準々決勝でヨルダンと対戦、しかし1-1でPKにもつれ込み、GK川口能活の見事なセーブが光り4-3で勝利。更に準決勝でバーレーンと対戦して4-3、そして決勝では地元・中国と対戦した。
中国は大変に反日感情が強く、35度を超える猛暑と観客からの強烈なブーイングの中での試合だったが、宮本恒靖主将を中心に中国代表を圧倒、3-1で勝利、日本代表は2大会連続でアジアカップを制覇した。

7月31日 ヨルダン戦→1-1(PK4-3、準々決勝)
8月03日 バーレーン戦→4-3(準決勝)
8月07日 中国戦→3-1(決勝)

なおこの大会で海外組の選手は中村俊輔1人だけがフル出場したのみ。中田英寿・稲本潤一・高原直泰の3人は故障等で、この時期は代表チームにあまり参加していない。この「空白期間」は、後のW杯ドイツ大会前に「国内組」と「海外組」との間の意志の疎通が行き届かなくなる原因になり、チームワークに大きな支障をきたす事になるのである。
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by wataridori21 | 2008-01-04 01:09

アテネ五輪での惨敗と「なでしこジャパン」の健闘(2004年)

2004年はAFCアジアカップとアテネ五輪の年である。

U-23日本代表は3月に五輪最終予選に出場。監督はトルシエ監督時代にヘッドコーチを務めた山本昌邦。グループリーグの相手はバーレーン・レバノン・UAE(アラブ首長国連邦)でまず3月1日から5日までUAEのアブダビで1回戦総当りし、それから日本で14日から18日まで1回戦総当りする方式でリーグ戦を行い、総合1位となったチームは五輪本戦に出場できる。

日本代表は6試合で4勝1分1敗で、見事に1位で予選通過を果たした。
戦績は次の通り、

3月01日 バーレーン戦→0-0
3月03日 レバノン戦→4-0
3月05日 UAE戦→2-0

3月14日 バーレーン戦→0-1
3月16日 レバノン戦→2-1
3月18日 UAE戦→3-0

そして8月の本戦、グループリーグでの対戦相手は、パラグアイ・イタリア・ガーナ。U-23日本代表・男子のメンバーは次の通り、

GK曽ヶ端準・黒河貴矢・林卓人
DF田中マルクス闘莉王・茂庭照幸・那須大亮・菊地直哉・徳永悠平・北本久仁衛
MF阿部勇樹・今野泰幸・森崎浩司・小野伸二・松井大輔・駒野友一・石川直宏・前田遼一
FW高松大樹・田中達也・大久保嘉人・平山相太・坂田大輔
※曽ヶ端準・小野伸二はオーバーエイジ枠

しかし結果は1勝2敗でリーグ最下位となり、2大会連続決勝トーナメント進出はならず。

U-23日本代表・男子の戦績は次の通り、

8月12日 パラグアイ戦→3-4
8月15日 イタリア戦→2-3
8月18日 ガーナ戦→1-0

ちなみにサッカー日本代表・女子(いわゆる「なでしこジャパン」)は大健闘を見せ、グループリーグで強豪スウェーデンを破り1勝1敗で決勝トーナメントに進出、準々決勝でアメリカに1-2で惜しくも敗退したが、日本初のベスト8の快挙を成し遂げ、当時この活躍で「なでしこジャパン」は日本国内で、一大ブームを巻き起こした。
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by wataridori21 | 2008-01-04 00:26

第24回キリンカップと第1回東アジア選手権(2003年)

2002年7月、「ジーコ・ジャパン」が誕生した。

ジーコ監督就任の発表は、当時の日本サッカーファンからは絶大な支持を集めていた。ジーコ監督は、現役時代は世界の1980年代のプロサッカー選手の中でもトップクラスの実力と人気を誇っており、その後来日して1993年の「Jリーグ元年」には鹿島アントラーズの看板選手として活躍した事もあり、日本にとって馴染みの深い人物であった。
その上、トルシエ監督時代の日本代表選手は当時まだ若く、主力の大半は2006年W杯あたりで20台半ばを迎える、まさにこれ以上ないタイミングでW杯に臨めるのである。期待は大変に大きかった。

ジーコ監督の初陣は2002年10月16日のジャマイカ戦だった。先発メンバーには中村俊輔・稲本潤一・小野伸二・中田英寿の4人が名を連ねていた。当時のマスコミは彼らを「黄金のカルテット」と呼び、日本代表の代名詞として称えた。

10月16日 ジャマイカ戦→1-1

さらに11月にはアルゼンチン代表と対戦し、明けて2003年3月にウルグアイ代表と対戦。しかしなかなか白星がつかない。そして4月、ソウルでの韓国戦でようやく1-0で「ジーコ・ジャパン」の勝利を決めた。監督就任から10ヶ月目の事だった。しかし5月にホームで再び韓国と対戦すると敗退、なかなか波に乗れない。

11月20日 アルゼンチン戦→0-2
3月28日 ウルグアイ戦→2-2
4月16日 韓国戦→1-0
5月31日 韓国戦→0-1

6月の第24回キリンカップが行われた。相手はアルゼンチン代表とパラグアイ代表。アルゼンチン戦は前年の雪辱を果たすチャンスだったが1-4で大敗。続くパラグアイ戦も引き分け。

6月08日 アルゼンチン戦→1-4
6月11日 パラグアイ戦→0-0

それからすぐにフランスに飛び、第6回FIFAコンフェデレーションズカップに出場した。前回大会から2年しか経っていないので、2000年アジアカップ優勝国の日本が出場する事になったのである。
しかしここでもチームはピリッとしない。グループリーグの相手はニュージランド・フランス・コロンビアで、結果は1勝2敗で決勝トーナメント入りはならず。

6月18日 ニュージーランド戦→3-0
6月20日 フランス戦→1-2
6月22日 コロンビア戦→0-1

その後も国内外で、世界中のナショナルチームと立て続けに対戦した。

8月20日 ナイジェリア戦→3-0
9月10日 セネガル戦→0-1
10月08日 チュニジア戦→1-0
10月11日 ルーマニア戦→1-1
11月19日 カメルーン戦→0-0

ここまでで4勝5分6敗と、17ヶ月15試合で僅か4勝と勝率の悪さが目立った。

この年の締めくくりは12月に日本で開催された第1回東アジア選手権。この大会は1998年まで極東地域で開催されていたダイナスティカップ。その後休止していたが、前年(2002年)に東アジアサッカー連盟が発足した際、休止状態だったダイナスティカップを「東アジア選手権」として復活させたのである。
出場国は予選を勝ち抜いた香港と、W杯・日韓大会・本戦に出場していた日本・韓国・中国はシード国として予選抜きで出場できた。この大会で日本代表は2勝1分0敗ながら総得点差で韓国の優勝となった。

12月04日 中国戦→2-0
12月07日 香港戦→1-0
12月10日 韓国戦→0-0

優勝は出来なかったが、終わってみれば2位と、ジーコ監督にとって、ようやく成果の現れた大会だった。
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by wataridori21 | 2008-01-03 19:31