スキー用具の輸入と強化合宿と猪谷千春のアメリカ留学(1953年)

昭和27年、全日本スキー連盟では、オスロ五輪の結果を踏まえスキー用具の対策に乗り出した。

当時の日本選手に比べ、欧州の五輪代表選手のスキーは非常に性能に優れていたが、日本国内のスポーツメーカーでは対抗できる製品はおいそれとはできない。そこで連盟では、外国製のスキーの調達を考えた。「激動の昭和スポーツ史」ではこう書かれている。

戦後の物資不足、技術力も不足した時代。戦後のものを使ってはいるが、それも底をつきだし、米軍用スキーの改造が幅を利かせていた。それ以上に困ったのはメーカーが戦前のものしかできない、というより「作ろうとしない」ことだった。

スキーのフレキシビリティー(柔軟性)など全くチンプンカンプン。そこでスキー連盟の小川副会長、竹節理事長に伊黒・野崎・堀の技術委員が相談した結果、「選手の希望をとって輸入しよう」ということになった。だが当時は輸入の外貨枠は非常に貴重で1銭のプラスにもならないこの輸入をやってくれる業者がない。

小川副会長が「訳を話して頼めば美津濃(※現在のミズノ)なら…」というところから急に局面が開けた。美津濃の水野健次郎会長が当時は東京支店長だったので、業者としてではなくスキー仲間として相談したところ、
「わかりました。業者が輸入すれば卸値になるし、外貨の準備や業務一切は当方でやります。手数料はいりません、必要経費だけはください」
という願ってもない申し出に無事輸入が完了。アルペン用は中欧、距離とジャンプ用は北欧から届いた。選手が喜んだのは当然、メーカーは素材の違い・塗装技術・弾力分布の変化・接着剤の違いを含め製作技術に格段の差が生じたことを確認し、その後のスキー用品の大きな進歩のきっかけとなった。


さらに同年4月、五輪から帰ってきた日本代表選手と国内の有望な若手選手を集めて強化合宿を行った。距離は青森県八甲田山の酸ヵ湯で、複合とジャンプは長野県野沢温泉で、アルペン競技は長野県八方尾根で、それぞれ行われた。
距離では山本謙一、複合・ジャンプでは吉沢広司・渡部竜雄・藤沢良一・川島弘三、アルペンでは猪谷千春・水上久がそれぞれ合宿先で、五輪での体験談や欧州の技術を参加選手に話した。ここから次の若手選手が大勢育つことになる。

明けて昭和28年(1953年)1月、山形県米沢で第26回全日本学生スキー選手権大会が、2月には秋田県大館で第31回全日本スキー選手権大会がそれぞれ開催。

2つの大会に先立ち、全日本スキー連盟は翌1954年にスウェーデンで開催されるFIS(国際スキー連盟)主催の世界選手権大会に、日本から選手12名を派遣する事を決めた。そして全日本スキー選手権の結果を選考基準とし、最終的に次のメンバーが決まった。

監督→稲葉忠七
距離コーチ→上石巌
ジャンプコーチ→伊黒正次
アルペンコーチ→野崎彊

選手
距離→角昭吾・小西健吾
ジャンプ→吉沢広司・柴野宏明
複合→藤沢良一・石坂良治
アルペン→斉藤貢・茂原博太郎

尚、この年の大会から国内大会から猪谷千春の姿はなくなった。猪谷は五輪終了後に立教大学に進学したが、オスロ五輪1ヶ月前から欧州で練習できる環境を提供した保険会社AIUのスター社長の計らいで、アメリカの留学し、ダートマス大学に入学する事になったのである。この留学が、彼のその後の運命を大きく変える事になった。
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# by wataridori21 | 2009-09-11 18:39

オスロ五輪(1952年)

昭和27年(1952年)、ノルウェーのオスロで第6回冬季五輪が開催された。

それに先立つ昭和26年12月、日本選手団のスキー競技監督・小川勝次は、田島一男を介してアメリカの保険会社AIGのコーネリアス・バンダー・スター社長と面会した。
スター社長は、自らスキー場を経営するほどのアルペンスキー愛好家で、日本選手の活躍の援助を願い出てきた。内容は、オーストリアのサンアントンに日本選手を送り、そこで十分にトレーニングをさせてからオリンピックに出場させる、というものだった。小川は、願ってもない事と快諾。そして選ばれたのはアルペン複合の猪谷千春と水上久で、12月22日に日本を出発した。
両選手は現地でさっそく練習を開始したが、持参したスキーは戦前のものでヒッコリーで製作された単材の板だったが欧州ではすべて合板であり、現地のスキー用具の性能の良さに驚き、すぐそれに取り替えた。

明けて昭和27年1月26日、日本選手団は羽田を出発し、28日にオスロに着いた。戦前は船・鉄道での移動だっただけに隔世の感がある。前回のガルミッシュ五輪参加からすでに16年が経過していた。

小川監督は現地で、日本選手を指導するスキーコーチとして、ロルフ・コルビーという青年を紹介された。コルビーはスキー用具から始まり欧州のスキー技術を細かく話した。その時の事を「日本スキー発達史」で書いている。

日本のスキーは安達が8位をとり伊黒が7位となった頃から「一番有望なのはジャンプだ」ということになっている。この考えから今回もジャンプ陣は複合の藤沢を併せると4名のフルメンバーを連れてくることができた。ところがオスロのスキーを見、コルビーから4選手の練習振りを見ての感想をきき、私は心からガッカリした。空白の間に彼らは大きく進歩し、われらは退歩したことを認めざるを得なかったのだ。

正確にして強い踏切り、悠々たる空中姿勢、スキーの上向きによる遠距離の飛行、揃っているスキー、両腕を回さない飛行、素人目にも彼等のジャンプはやわらかくて綺麗である。そしてわれらのそれは動作があまりにもあわただしくてすべてに見劣りがする。
単に用具の相違なら、進歩した用具に取り替えれば良い。せいぜい1週間も使用すれば自分のものになる。しかし技術の相違となると、オリンピックを控えての2週間や3週間で彼らに追いつくことは不可能である。困った事になった、と思った。

私の悩みは4選手の悩みでもある。そこで私はコルビーとも相談し「彼等の新しい型を見て、それを真似ても今からでは成功は至難だ。君らは日本で覚えたジャンプでオリンピックに出場せよ。但しわれわれは今幸いにも日本を代表して世界第一のスキーの都オスロに来ているのだ、勉強して彼等の技術を習得し日本へ持って帰る義務がある。したがってオリンピックが終わってからホルメンコルン大会までに、なおそれから帰国の日までもよく勉強して新しい技術を我が物としてくれ、それが何より大きな土産だ」と宣言した。


2月4日、猪谷・水上両選手がオスロ入りして日本選手団と合流。小川監督は2人がサンアントンでの1ヶ月余りですっかり「外国ずれ」して用具の近代化・技術の進歩が身についていた事に感心したという。
2月15日、冬季五輪・開会式がビスレット競技場で行われた。参加国は30カ国だったが、日本選手団が入場すると猛烈な歓声が上がった。参加国の大半が欧州国で、黄色の日本人は一際目立ち「ヤパン」の人気は高かったのである。

開会式と同日に、別の会場で大回転が始まった。1位は地元ノルウェーのステイン・エリクセンで2分25秒、日本の猪谷千春は20位で2分36秒1、水上久は26位で2分40秒1。続いて16日は滑降。1位はイタリアのツエノ・コロで2分30秒8、猪谷は2分45秒で24位、水上は4分で44位。
一見惨敗のようにも見えるが、参加者は80名であり、欧州入りから1ヶ月余りで、他国選手とほとんど遜色ない成績が取れた事は大きかった。

17日はオスロでノルディック複合。1位はノルウェーのシモン・スラトヴィック、藤沢良一はジャンプで63mを出すなどして10位に食い込んだが距離18kmが振るわず14位。参加者は28人だった。
18日には距離18kmが行われ、1位がノルウェーのハルゲア・ブレンデンで1時間1分34秒、山本謙一が1時間8分49秒で22位。「日本スキー発達史」で山本はこう話す。

「コースは雪が少ない上に凸凹が多く、それに岩あり、切り株あり、さらに林間に急カーブがあったりしていやなコースだった。全コース猛烈な声援を受け、特に意外にも日の丸の旗を振って応援してくれたノールウェーの一団があって嬉しかった。コースは終始人垣が作られていて間違うようなことはなく、コースを横切る者も伴走もまったくなかった。伴走のないことは日本も学ぶべきだ」

19日はルツクライバで回転。参加者は90人で、猪谷は20番スタートとなった。猪谷の1回目はスタートから好調な滑りを見せたがゴール直前で旗をまわり損ねてタイムロスしてしまい62秒6。2回目は63秒1。総合1位はオーストリアのオテマール・シュナイダーで2分0秒、猪谷は2分5秒7で11位。日本人が初出場で11位を記録、さらに1回目のコースアウトの際、そのまま後ろ向きでスキー逆行させる大胆な滑りをした為、ノルウェー市民の間でそれが話題となり、猪谷の名前は有名になった。

50kmと40kmリレーは日本は不参加、そして24日はジャンプ競技である。会場はホルメンコーレンで、当日は15万人もの観衆を集めた。
結果は1位がノルウェーのベルグマンで226点(67.5,68)、渡部竜雄は189点(59,59.5)で27位、藤沢良一は183.5点(57.5,55.5)で34位、吉沢広司は182.5点(59.5,56.5)で36位、川島弘三は148.1(59.5,56)で42位。参加者は44名だった。

25日、ビスレット競技場で閉会式が行われ、第6回冬季オリンピックは幕を閉じた。

五輪終了後、日本選手団はスウェーデンに移動し、国際スキー大会に出場。その後オスロに戻りホルメンコーレン大会に出場、ジャンプ競技で山本謙一が立つと大歓声が起ったという。そしてコペンハーゲンで国際ジャンプ大会にも出場し、渡部竜雄が6位の成績を挙げた。

3月21日、日本選手団は帰国。途中で猪谷・水上はアメリカに渡り、スター社長の経営するスキー場で練習し、現地で開催された全米アルペン競技選手権に出場、4月14日に帰国した。
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# by wataridori21 | 2009-09-11 06:11

全日本スキー連盟(SAJ)のFIS復帰とオスロ五輪代表選手の選出(1951年)

昭和26年(1951年)は全日本スキー連盟(SAJ)のFIS(国際スキー連盟)への復帰の年である。

連盟にとって、FIS復帰は長年の悲願だった。これにより翌年オスロで開催される第6回冬季オリンピックへの日本選手出場が実現する事になり、この年の全日本スキー選手権は、その出場選手を決める重要な大会となった。

それに先立つ1月、青森県大鰐で第24回学生スキー選手権大会が開催。滑降は阿闍羅山の頂上から降りるコースで、降雪の少なさから転倒者が続出、法大の湯浅栄治の1人勝ち。距離では17kmで早大の関戸茂が1位。ノルディック複合では、ジャンプ競技は強風で転倒者が多く、明大の藤沢良一が1位。全体的に優勝者が他の選手に比べて突出した成績で勝利したケースが多かった。総合では1位・明大、2位・早大、3位・法大、4位・慶大、5位・日大。

2月28日、新潟県高田で第29回全日本スキー選手県大会が開催。前述の通り、冬季五輪の選考がかかった大事な大会であったが、ここで思わぬ事故が起った。ジャンプ競技が行われる3月1日の朝、「県営高田ジャンプ台」の着陸斜面が中央付近から大崩落してしまったのである。さらにその下部の沢にあった距離コースも雪解け水で溢れ帰り、ノルディック競技の全てが中止となった。暖冬に加えて前日から季節はずれの雨が大きな原因であった。この時の様子を「日本スキー発達史」で小川勝次が書いている。

六百五十万円かけて竣工した「県営高田ジャンプ台」は10年ぶりに大会を迎える高田市民の熱意によって年末に出来上がった。そして万一の場合を考えて、雪が消えて距離競争ができなくなっても、ジャンプだけは必ず決行する意気込みで十分な雪を確保していた。一方距離競争の方もコース係長高橋正雄以下の努力によって、山間の全コースに青年団や部落の人々が待機していて、雪が消えればすぐに搬入してコースを接続させる手筈を整えていたのだった。
このような手筈を整えていたところ、いよいよ大会の第1日である3月1日の朝になって、突如この大異変にぶつかったのだ。ジャンプ台の崩壊も1日の未明で、その大音響は付近の民家でも聞くことができたといい、着陸斜面は長さ50m深さ2mにもおよんで上がえぐり取られ下に押し流されていた。もちろん金谷山一帯の雪はすっかり消え失せて、スキーどころじゃない。この光景を見た選手も役員も呆然と手を措いてただ長歎するのみだった。

高田で行う書目を赤倉で開催してはどうかという説についても討議され研究された。しかし急に準備ができるはずもない。遂に高田会場での競技は一切中止のやむなきにいたった。継走には本年から天皇杯が下賜されたので「せめて継走だけでも」という希望も多かったが所詮どうする事もできなかった。スキー発祥を誇りとする高田市民はあげて、そして選手も、役員も泣いて悔しがったという。こんな支障は、大正12年選手県大会開始以来実に初めての事故である。


一方、アルペン競技は赤倉で行われたが、競技中選手達は濃霧に悩まされ、失敗する選手が続出したが、実力のある選手は無事に優勝している。壮年の部では、滑降・回転・アルペン複合ともに例年活躍を続けていた久慈定雄(北海道)が1位、富井英三(長野)が2位と綺麗に並んだ。アルペン複合・成年では、下馬評通りに猪谷千春が優勝している。

大会終了後、選手候補メンバーを選出。しかし全日本スキー選手権での事故によりノルディック競技に関しては、宮様スキー大会・学生スキー選手権大会・全日本選手権の地方大会の成績を参考に選出された。そしてアルペン複合・ノルディック複合・距離の選手は、それぞれ別々に合宿を行い、4月に冬季五輪の最終代表選考が行われ、日本選手団のメンバーは次の8人で決定した。
ちなみに選抜した当初は選手だけでも15人いたが、「敗戦日本が関係国に対する賠償もまだ取り決めていないのに、五輪に沢山の選手を派遣するとはけしからん」といった世論があり、それに日本体育協会と文部省がおされる形で8人に削減されてしまった。

監督→小川勝次
飛躍→浅木文雄、吉沢広司、川島弘三
アルペン複合→猪谷千春、水上久
ノルディック複合→藤沢良一
距離→山本謙一

その後、ジャンプの浅木文雄が病気の為に失格となり、渡部竜雄を代替選手として選出した。
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# by wataridori21 | 2009-09-10 20:05

日本初のスキーリフト誕生と電気計時装置の採用(1950年)

昭和25年(1950年)頃になると、日本の幾つかのスキー場にスキーリフトが登場してきた。

日本最初のスキーリフトは、昭和21年(1946年)秋に長野県志賀高原・丸池スキー場と北海道・札幌の藻岩山に、米軍専用として建設。そして民間で最初は昭和24年(1949年)、群馬県草津温泉の天狗山に作られたリフトで、昭和25年(1950年)には長野県野沢温泉に建設された。
野沢温泉でリフトが建設された時の事を「激動の昭和スポーツ史」(ベースボールマガジン社)の中で、片桐匡(後の全日本スキー連盟副会長)が語っている。

「草津に刺激を受けて野沢でもスキークラブを中心にその着工工事が始まったのですが、しかしその頃はまだリフトなど作る会社もあるわけでなく、いろいろ考えた末、知り合いの所長のいる小串鉱山から鉄索の技術屋さんである佐々木さんを頼んできて、櫓は手作りの木製で、機械は近くの前田鉄工所に依頼、ワイヤーは鉱山から中古品を買ってきて、といった具合にすべて手作りでやったものでした。
日影ゲレンデの第1リフトがそれで、車の入らない山道をワイヤーを運ぶのに思案の末、小中学生を動員して、ワイヤーを伸ばしてそれにつかまらせて運び上げたり、搬器にはスキーヤーが乗るのだから外れて落ちてはいけないとクリップをダブルにする事を考えたりしました。
それでもスチール板が切れたりするので運転している間じっと監視を続けたり、いったん止まるとワイヤーが逆回転して、スキーヤーは急いで飛び降りなければならないなど、ハプニングが続出したのも思い出します。

そんな危険なこともありまして、それではまともな料金も貰えないだろうと、乗り物に箱をおいて、気持ちがあったら10円入れてくださいといった程度の経営状態だったのです」


昭和2年(1950年)1月、秋田県にて第23回全日本学生スキー選手権大会が開催。アルペン競技は大湯、ノルディック競技は大館で行われ、アルペンでは湯浅栄治・伊藤文雄(ともに法大)ら若手が数多く台頭してきた。総合では1位・明大、2位・日大、3位・慶大、4位・法大、5位・早大となり、各大学とも群雄割拠の様相をみせ始めている。

3月には、山形県にて第28回全日本スキー選手権大会が、国体スキー大会を兼ねて開催。競技は五色・米沢で分担して行われ、アルペン複合で猪谷千春が前回大会の雪辱を果たして優勝。女子の部で木谷初子が優勝し、前々回から数えて大会3連覇を記録した。
この大会で大きな話題となったのは、選手の記録よりも電気計時装置を導入した事である。それまでスキー競技のタイムは大雑把な計り方しか出来なかった。そこに、戦前からアルペン競技に興味を持っていた山形大学の長谷川太郎教授が、戦時中に使用していたレーダーの部品を使って日本初の電気計時装置を発明した。それまで10分の1程度の計測しかできない時計を使っていたものが、この装置により一気に100分の1秒を楽々計測できる事となった事から多くの選手達の支持を集めた。
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# by wataridori21 | 2009-09-10 18:48

第27回全日本スキー選手権大会と落合力松(1949年)

昭和24年(1949年)は暖冬の中でのスキー選手権となった。

1月、新潟県中越にて第22回全日本学生スキー選手権が開催。ノルディック競技は小千谷スキー場、アルペン競技は湯沢スキー場で行われたが、雪不足で大会運営は困難を極めた。特に小千谷では大会前夜から雨が降り、各選手も不振続き。その中で耐久の村田吉雄(日大)、薮内勤二(明大)の活躍が目立った。

3月には第27回全日本スキー選手権大会が札幌で開催。第4回国民体育大会を兼ねての開催で、当日は高松宮・三笠宮両殿下も臨席しての開幕となった。種目は距離40km・16km、ジャンプ、アルペン複合、ノルディック複合、32kmリレー。
アルペン複合では前年の覇者・猪谷千春は、手稲山からの滑降コースにしては平坦な土地柄に苦しみ24位となり、地元の水上久が優勝。距離では40kmで、地元の落合力松が2位以下を大きく引き離しての優勝。

落合力松は戦前からの名選手で、「宮様スキー70年史」では彼について特記している。

本道が生んだ名レーサーは高橋昴、岡村源太郎にはじまって数多いが、落合くらい長い歳月にわたって"常勝将軍""雪の超特急"の名をほしいままにした選手は見当たらない。

昭和13年、北商3年生の時、倶知安で行われた地区予選会で優勝したのが、常勝街道ばく進のスタートで、インタミドル3連勝、宮様大会は14年は少年組で、15年は青年組で優勝。14年は全日本選手権の少年組でも勝って、向かうところに敵はなかった。

その勝ち方がまた、ひと味もふた味も違う。中学最後の15年の宮様大会のときなどは、社会人、大学生を相手に、3分29秒をぶっちぎったほどだ。明大へ進んで学生大会で2連勝、昭和16年はじめて全日本へ挑戦(それ以前は少年組)したが、このデビュー戦、なんと2位に4分45秒もの差をつけて勝ったのだ。レース後「落合はコースを間違ったのではないか」と、大会本部が全関門員に再点検を命じたという。

戦後、スキー競技が復活すると落合の"常勝"がまた始まった。昭和21年、第17回大会から宮様5連勝、この連勝記録はいまだに破られていない。北海道選手権は長距離4連勝、耐久3連勝、全日本は23年長距離、24年耐久優勝、当時の新聞は明けても暮れても落合である。だから、昭和23年の全道工場礦山大会で、発熱を押して出場、4位に終わった時は大騒ぎとなった。

落合は美唄の我路の出身。スキーの盛んな小樽に憧れて北商へ進んだ。奥沢の下宿先からスキーで通学していたが、コースは天狗山の頂上まわりというからすごい。こうした練習によって、脈拍が常時30台という鋼鉄の"心臓"が出来上がってしまった、という。「軍隊時代も特別のはからいでスキーが出来たし、戦後は勤め先(酪農)の好意で、食べるものに恵まれたから」と、どこまでも謙虚な人柄である。

悔やまれるのは、時代に恵まれず、国際試合を経験することなく、競技生活を終えてしまったことである。


彼は引退後はSAJ(全日本スキー連盟)で活躍し、1980年から86年までSAJ理事、1984年のサラエボ五輪・日本選手団スキー部門監督。1998年に逝去。
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# by wataridori21 | 2009-09-10 06:37

第26回全日本スキー選手権大会(1948年)

昭和23年(1948年)は、戦後の日本スキーが本格的に復活した年である。

北海道・小樽で第21回全日本学生スキー選手権大会が、1月15日から4日間の日程で開催。種目はアルペン複合・耐久・長距離・ノルディック複合・ジャンプ・リレー。総合では前年に続いて明大が優勝、2位が慶大・3位が日大、4位が法大、5位が早大、6位が小樽経専、7位が北三師、8位が北大。2位に慶応大学が台頭している事が注目される。

そして長野県野沢温泉にて、第26回全日本スキー選手権大会が3月11日から4日間の日程で開催。これは第3回国民体育大会冬季スキー大会を兼ねたもので、戦後初の全日本スキー選手権である。出場者の多くは戦争からの復員者で占められていたが、この中で猪谷六合雄・猪谷千春の親子2人が出場し、これが全日本選手権初出場でもある千春は、アルペン複合で初出場初優勝を飾った。
開催種目は耐久・長距離18km・アルペン複合・ノルディック複合・ジャンプ・40kmリレー

この時の模様を「激動のスポーツ40年史」(ベースボールマガジン社)では、こう書かれている。

全国から集まった役員、選手達の顔はドス黒く栄養失調ぎみだったが、表情は一様に喜びにあふれていた。スキーをやれる喜び、噛みしめている思いが体からにじみでているようだった。
滑降トレーニングのスロープ、回転バーン、そして距離コース、さらにジャンプ台のあちこちで「おい!死ななかったな」「お互い悪運が強いようだ」「××はどうした」といった、お互いの無事を喜び合うとともに、まだ会えぬ仲間の安否をきづかう会話ばかりが聞こえた。

猪谷六合雄、千春の親子選手が群馬から出場したのをはじめ、距離では増田慎一、矢崎力、井上健二、落合力松、鈴木幸太郎、ジャンプでは宮島巌、森敏雄、浅木文雄、菅野俊一、若本松太郎、アルペンには片桐匡、橋本茂生、奥村末男など、戦前の日本を代表する選手が元気で活躍した。もちろん、昔使った古いスキー、スキー靴を引っ張り出し、進駐軍の払い下げを加工したユニフォームに身を固めていた。

明るい話題その一は、猪谷少年と称えられた猪谷千春(赤城山に移っていた)が成人として抜群のテクニックというより、ただ1人外側荷動のスキーを見せ、楽々と優勝したのである。
その二は、滑降で新潟県から出場した久保強、茂原博太郎少年は、競技終了後に新制中学校で出場資格のないことが判明して記録は抹消されたが、成、少、壮年を通じてのベストタイム。もちろんコンディションの違い、特に、3月で朝の早い時間と午後では、スキーの滑りの差はあるにしても、久保少年は4分9秒、茂原少年は4分15秒、成年1位の若木が4分12秒だった。猪谷に続くものと期待された。

初の国体を演出してくれたのが、常盤屋旅館のご主人であり早大のOBでもある高井宜雄さんをはじめ選手も兼ねた酒屋旅館の森敏雄さん、同じくお店をやりながらの片桐匡さん、さらに記録、成績表作成を一手に引き受けてくれたのは桐屋旅館のご主人といった人たちだった。


この年の1月30日、スイスのサンモリッツで第5回冬季オリンピック大会が開催された。しかし日本とドイツは第二次世界大戦によってFIS(国際スキー連盟)から除名処分を受けており、この大会には出場していない。両国のFIS復帰は昭和26年4月まで待たなければならなかった。
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# by wataridori21 | 2009-09-10 05:36

ブログ休止のお知らせ

管理人・渡り鳥です。

現在仕事が多忙の為、1ヶ月ほどブログを休止します。

再開は10月中旬を予定しています。復活の際には、宜しくお願いします。

※9/10 仕事内容の変更で多少時間が取れるようになった為、不定期ながら復活します。今後とも宜しくお願いします。
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# by wataridori21 | 2009-09-06 20:11

第20回全日本学生スキー選手権大会(1947年)

昭和20年の終戦に伴い、国外にいた日本人は続々と復員してきた。

復員者の中にはスキー関係者も多数含まれており、「日本スキー発達史」でもその様子が書かれている。

応召者の復員は割合に早く行われた。特に内地勤務の者は昭和20年8月終戦と同時に行われ、外地に勤務していた者も年内一杯か、翌年頃までには帰還した。しかし樺太・朝鮮・満州にいた民間人はなかなか帰国できなかった。

昭和21年9月末に田村節郎と馬場光雄が突如満州から帰ってきた。田村君は新京吉野町に「横浜商行」という堂々たる雑貨店を経営し、スキー関係者としては成功した第一人者と考えられていた。馬場君は満州中央銀行チャムス支店長として羽振りをきかせていたが、ともに着のみ着のままの姿で家族とともに哀れな帰還姿であった。
しかし馬場君が終戦の報を聞くや、銀行の金庫を解放して何千万円という現金を全部邦人に分配した大胆にして適切な処置をとったことを聞いて、スポーツマンらしい彼の姿にひどく感心した。
満州でも朝鮮でもスキー関係者が、終戦の際にとった処置と態度は立派であり、そのうえ引揚げの際はいずれも責任者の地位を買って他の人々の面倒を見てくれた事実は嬉しい。

昭和22年1月に樺太豊原にいた上石巌が帰還した。上石君は樺太のスキー、特に距離選手を養成して、打倒北海道を実現した名コーチである。彼は案外にも元気であり、終戦の際も樺太は朝鮮や満州ほどの混乱はなかったらしい。その上帰国する荷物の中にはスキーまで持ち帰る事ができた、と語った。私は彼の元気な姿を見て喜んだ。そして「今度はジックリ内地に落ちついて日本の選手を強くしてくれるよう努力たのむ」と激励した。


昭和22年(1947年)1月17日、北海道・小樽にて第20回全日本学生スキー選手権大会が、3日間の日程で開催された。
昭和21年9月に日本体育協会が「第1回国民体育大会」を開催し、SAJ(全日本スキー連盟)は翌22年年2月に国体冬季大会・スキー競技会を第25回全日本スキー選手権を兼ねて開催する予定で準備を進めていたが、日本国内は食料・輸送事情が終戦時以上に悪くなり、翌23年に延期する事となった。その為、今回の学生選手権のみ全国区の大会となったのである。

種目は大回転・長距離・ジャンプ・ノルディック複合の4種目が行われ、大回転では明大が1位から3位まで独占、長距離でも明大・薮内勤二が1位、複合では法大・高野栄が1位、ジャンプでは地元・小樽経専の渡部竜雄が1位。

尚、地方で開催された大会は、鳥取・大山で開催された西日本選手権、札幌の第二中学校、全道工場鉱山、第18回宮様スキー大会、日光の関東選手権、野沢の北日本選手権、小樽の北海道大回転、そして冬季国体は中止となったが地方予選だけは行われ札幌・青森・秋田・長野で開催されている。
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# by wataridori21 | 2009-09-06 07:10

「第1回全道スキー選手権大会」と錦戸善一郎(1946年)

昭和21年(1946年)の日本は、戦災の影響から前年同様、全国的なスキー大会は行われなかった。

しかしその中で北海道では、立て続けにスキー講習会やスキー大会が開催されていった。
まず1月18日から小樽で文部省主催のスキー講習会が3日間の日程で行われ、20日に札幌荒井山シャンツェで札幌雪友ク主催の記録会、26日から旭川市井の沢スキー場で「第15回中部北海道スキー選手権大会」が2日間の日程で、27日には札幌三角山で雪友ク主催の「紅白対抗大回転」、2月9日には「全道中学校スキー大会」が開催された。

そして3月1日から3日間の日程で、「第1回全道スキー選手権大会」を兼ねた「第17回宮様御来道記念スキー大会」が開催。全道スキー選手権大会を企画したのは錦戸善一郎。彼は戦前の冬季五輪・距離競技のトレーナーを務めた人物だが、同時に北海道内でバレーボールやリュージュなどのスポーツ振興に多大な功績を残している。「日本スキー発達史」では、大会を終えての感想が残されている。

「食料、輸送、宿舎等の悪条件なんのその、道内から420名の参加は日本選手権級だった。質的に見てもかつてのインタカレヂ、日本選手権の雄者が集まり、久し振りに快心の競技会を開く事ができた。新進も輩出した一方、学連OBの健在は心強く、それに大部分は復員者たちで、この大会で心のわだかまりが一度に吐き出されたような気がした。この気持ちは参加者全部にもあったようだ。そしてみんなよく走り、飛び、この選手連の姿を見て私は涙が出るほど嬉しかった。万難を排してこの大会を計画し、実行に移してよかったと思う。スキー北海道健在です」

ちなみに本州でのスキー界の動きとしては、3月10日に山形県蔵王で滑降競技会、さらに秋田県横手と新潟県小千谷で「社会体育スキー指導者講習会」が行われた。講習会では基礎スキーの講習が行われ、この時期に「戦技スキー指導者制度」は廃止・無効となった。

10月17日、戦後初の代表者委員会が開催された。メンバーは次の通り。

会長→小島三郎、
副会長→小川勝次
専務理事→竹節作太

理事→岩崎三郎・稲葉忠七・錦戸善一郎・保科武雄・吉岡竜太郎・高橋次郎・丹内正一・小林辰雄・秋野武夫・宮川恒雄・三沢竜雄・千家哲麿

幹事→佐藤助九郎・田村義輝

技術委員→伊黒正次・竜田峻次・栗谷川平五郎・佐々木直・春日俊一・阿部一美・猪谷六合雄・笹川速雄・清水麟一・伊部猪吉・丹内正一・川畑憲雄・三浦敬三・宮村六郎・高橋次郎・稲葉忠七・山田勝巳・秋野武夫・安達五郎・杉村鳳次郎・四谷勇・宮島巌・柴田信一・栗山魏・葛西儀四郎・藤沢伸光・矢崎力・新妻正一・岩崎三郎・片桐匡・野崎彊・鈴木正彦・小竹実・村井栄一・安藤光潔
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# by wataridori21 | 2009-09-05 06:44

終戦と「財団法人全日本スキー連盟」の復活(1945年)

昭和20年(1945年)は、年明けから日本各地で米軍の空襲が続いた。

1月19日、大日本体育会は傘下の各競技で優勝者に送る銀製品のカップを政府に献納した。これは日本政府が発令した銀器献納政策にしたがったもので、全体で実に120個にも及んだ。
スキー関連では朝香宮賜盃(耐久競走)、全日本スキー連盟盃4個(長距離壮年組、同少年組、複合競技少年組、ジャンプ少年組)、岸清一盃(長距離成年組)、稲田会長盃(複合成年組)、大谷光照盃(回転競技)、大谷光暢盃(女子アルペン複合)、厚生大臣盃(男子アルペン複合)があった。

さすがにこの年は、まともにスキーの大会を開く状況ではなかったが、北海道でただ1つ大会が開催されている。第16回宮様スキー大会である。「宮様スキー大会70年史」では、こう書かれている。

2月25日、札幌総合競技場で開かれた。戦技スキーのみとはいえ、「スキー大会」と名のつく催しはこれが唯一であって、道内各地から集まり、参加者は20団体、500人に及んだ。
この時のプログラムはガリ刷りで「必勝戦力増強北海道雪上錬成大会兼第16回秩父宮高松宮殿下御来道記念スキー練成大会」という長い名称と、大会の趣旨、選士(選手ではない)心得8ヵ条、それに警報発令時の処置といった注意書きが印され、長い歴史の1項を見ることが出来る。


8月15日、日本は連合国軍のポツダム宣言を受け入れ降伏。その後は食料難と治安の悪化で、まだしばらく国内は騒然とした雰囲気が続いた。
その中での11月20日、空襲を免れた岸記念体育館にスキー関係者が集まり、今後のスキー界の復興について話し合った。メンバーは伴素彦・小林辰雄・千家哲麿・宮川恒雄・竹節作太・鈴木正彦・鈴木保二・三沢竜雄・富永正信・野崎彊・奈良勉・竜田峻次・田村義輝・戸田正太郎・小川勝次。

そしてその年の暮れ、大日本体育会は「財団法人日本体育協会」に改称され、各競技のスポーツ部会はもとの独立したスポーツ団体となり、スキー部会も「財団法人全日本スキー連盟」として再出発することとなった。昭和17年4月の体育会への統合から実に約3年半が経っていた。
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# by wataridori21 | 2009-09-04 07:12