戦技スキー兼壮丁皆スキー訓練指導養成中央講習会(1944年)

昭和19年(1944年)1月6日、大日本体育会は長野県菅平にて「戦技スキー兼壮丁皆スキー訓練指導養成中央講習会」を開催した。

すでにこの年の日本では、米軍による日本本土への空襲が始まる時期だったが、国民の士気高揚を狙った行事が多く、まともにスポーツができる環境ではなくなった。その為他のスポーツ大会は次々と中止となり、スキー大会もその例外ではなかった。しかしスキー自体もともと軍隊の雪上移動を目的に発達してきた歴史があり、スキー講習会そのものは継続された。
豪雪地帯での戦争を想定した訓練として「戦技スキー」なるものができ、山岳書専門の「梓書房」の経営者・岡茂雄が編集した「戦技スキー要綱」という冊子を参考に、戦技スキーの講習会を開く事となった。
参加者は大日本体育会スキー部会関係119人、青少年団25人、在郷軍人33人、日本新聞会24人、さらに海軍機関学校と陸軍幼年学校から数名。講師は陸軍戸山学校、スキー部会の計35人。

内容は、スキーを履き、夜間での移動(吹雪の日を選んで行う)、橇(そり)を曳く訓練、雪中炊さん、雪中露営などで、主に四阿山で行った。日程は1月6日から11日の6日間で、零下18度の極寒の環境であったという。

この年は学徒スキー大会・選手権大会は戦況の悪化で行われず、第14回明治神宮国民錬成大会冬季スキー大会は行われたが、実際には開催地・新潟県長岡市の小中学校の生徒のみの参加で、内容も分列行進・スキー体操・雪上戦技訓練・橇(そり)の曳行競争・雪上薙刀訓練といった、およそ競技大会とはいえない戦時色のみ大会となった。それ以外では北海道で第15回宮様スキー大会が明治神宮大会北海道大会を兼ねて開催されたくらいであった。

その年の暮れ近くから、東京をはじめ日本各地で米軍による空襲が頻発するようになった。もうすでにスポーツの事など考えられない状況に追い込まれていった。
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# by wataridori21 | 2009-09-03 07:32

「全国学徒スキー大会」と「国民錬成大会」(1943年)

昭和18年(1943年)、「大日本学徒体育振興会」が創設された。

大日本学徒体育振興会とは、当時の厚生省が、全国の学生・生徒のスポーツ大会の全てを主催する機関として設立した外郭団体で、これにより全日本学生スキー選手権大会は「全国学徒スキー大会」、明治神宮国民体育大会は「国民錬成大会」に名称変更した。

1月15日、北海道・小樽にて全国学徒スキー大会が3日間の日程で開催。この時は文部省の指令により、大学生だけでなく、それまで別個に開催されていた高専、中等も同時にここで行われた。種目は耐久30km・長距離18km・大回転・ジャンプ・ノルディック複合で、総合で久しぶりに早大が優勝、明大は大会5連覇を逃した。

2月4日、栃木県奥日光で国民錬成大会が全日本スキー選手権大会を兼ねて開催、運営は厚生省の外郭団体である大日本体育会スキー部会が行った。スキーの全国大会が日光で開催されたのはこれが初めてで、主催する厚生省としては東京に近い場所で開催して国民の士気を高揚させる目的があった。
しかし大会開始前から終了まで豪雪にみまわれ、会場である湯元までのバス輸送が思うようにはかどらず、湯元で宿泊した選手・関係者はともかく日光で宿泊した人々はほとんど観戦できなかった。当時の湯元は宿泊施設が少なく、関係者の大半が麓の日光で宿泊していた事も大きく影響した。大会終了後、全選手は帰りのバスが湯元まで登ってこられない為、麓まで徒歩で移動する羽目になった。

「日本スキー発達史」で小川勝次が、当時の様子を書いている。

こんな次第だったので湯元で宿泊した者以外は、ろくに競技を観る事もできなかった。いわんや日光の町に宿泊して、競技を観ようと計画した者はまったく失望してしまった。この年の奥日光の雪は大雪とのことだったが、それにしてもあまりにも輸送計画は無力に過ぎた。

もう一つ不愉快なことがあった。それは湯元の宿舎で盗難が実に多かったことである。すでに物資は全て配給制になっていたが、良い品物の配給はない。したがって古い品物ほど良いわけで、杖、スキー、それに靴下その他の衣類等が頻々と盗まれた。食堂へ行っている留守に室に置いておいたスキー靴が盗まれる始末に、一同戦々兢々たる有様で「まさに末世とは今この現象を云うのだろう」と永嘆させた。

結局厚生省が国民の士気を鼓舞しようと考えて力瘤を入れた大会も、大雪に見舞われて除雪する力がなく、さらに世相がこうまで悪化しては成功するはずがない。私は八日の朝、昨日の拭うがごとく晴れ上がった戦場原の粉雪を蹴りながら「あと味の悪い大会だった。これが日本の姿だとしたら大変な事になる」と考えながら帰路についた。


この大会で特記すべきは、後に五輪銀メダリストとなる猪谷千春が、アルペン競技の選手達と練習に参加した事である。
当時猪谷千春はまだ11歳の子供で、当時住んでいた長野県乗鞍から父・猪谷六合雄に連れられて大学選手の滑りを見学に来ていたのだが、練習中とはいえ滑降競技で他のどの選手よりも早いタイムを出した為、大会関係者・選手が一斉に驚き、大きな話題を集めた。
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# by wataridori21 | 2009-09-02 07:04

「全日本スキー連盟」の解散と「大日本体育会スキー部会」の設立

昭和17年(1942年)、太平洋戦争の開戦の翌年ながら、この年もスキー選手権は行われた。

1月17日から5日間の日程で、山形県で第15回全日本学生スキー選手権が開催。種目のうち、滑降のみが山形県と福島県の境にある吾妻連峰で、それ以外は米沢市で行われた。各競技ともに明治大学が大活躍をみせ、同大学は総合1位で、これは4年連続1位の快挙。とくにジャンプ選手のレベルアップは目を見張るものがあった。ちなみに種目は、アルペン複合・耐久20km・16km・40km、ノルディック複合。

2月6日から3日間の日程で「第12回神宮スキー大会」開催。この大会は「第20回全日本スキー選手権大会」を兼ねて開催され、種目は軍隊競争・団体競争・距離45km・17km・アルペン複合、女子大回転、40kmリレー。

昭和17年4月8日、大日本体育協会が解散。そしてスキー部も大日本体育会の1つの部署となった。これは戦時下のスポーツ団体を統一する必要から実行した。前年にせっかく設立した「財団法人全日本スキー連盟」も解散し、部会の発足させることした。
さらに各スポーツの表記は「片仮名の名称を持つ部会は漢字の名称に変更すべき」との意見が国内で出てきた。その為、バレーボールを「排球」、スケートを「氷上」。バスケットを「篭球」、ハンドボールを送球に変更している。

この年、SAJは「国防」を全面に押し出して、「国防スキー列車」を走らせている。1月から3月まで毎週土曜日の夜に運転され、上越線・岩原スキー場まで専用列車で移動し、3日間の日程で軍事教練を行った。
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# by wataridori21 | 2009-09-01 23:23

全日本スキー連盟(SAJ)の財団法人化(1941年)

昭和16年(1941年)は日本軍による真珠湾攻撃の年である。

この頃になると、日本国内でのスキー用具の確保は難しい環境になってくる。昭和12年(1937年)9月に外国製スキー用具の輸入が禁止され、翌13年には国家総動員法が成立し木材・革靴・鉄類・アルミニウム・ゴム・綿布類・毛糸類・石油などスキーに必要な物資は軍需にまわり、新規に調達はできなくなった。

昭和13年時点ではまだそれまで使っていた用具でまかなうことができたが、昭和16年くらいになると用具の不足が深刻な問題となってきた。その中でも例年行われる選手権は粛々と開催されていった。

北海道・小樽で第14回全日本学生スキー選手権が、1月15日から4日間の日程で開催。すでに前年までに明治大学が総合2連覇しており、この大会でも圧倒的な活躍をみせ、明大は3連覇を達成。明大はアルペン複合で1・2・3位、耐久で1・3位(2位は北大)、リレーで1位(2位・早大、3位・北大)、ノルディック複合で2位(1位・早大、3位北大)、ジャンプで2位(1・3位は早大)とタイトルのほぼ独占。すでに早大・北大の栄光は過去のものになっていた。

2月4日からは札幌・小樽で第19回全日本スキー選手権が第11回明治神宮国民体育大会を兼ねて開催。

この前年には「紀元二千六百年奉祝」を謳った「紀元二千六百年奉祝第11回明治神宮国民体育大会」が開催されており、その中のスキー大会としてこの年に開催されたのである。「紀元二千六百年」とは、初代天皇の神武天皇が即位したとされる年を紀元として、1940年が2600年目にあたる年という意味である。参加者は、実に1143人にのぼる盛大な大会となった。
種目は、軍隊競争・青年学校府県対抗伝令・リレー・距離18km・50km・ノルディック複合・ジャンプ・滑降・回転・アルペン複合。全体的に悪天候だったが、一部日程を変更してすべての競技を実施した。

同じ昭和16年4月23日、SAJは「財団法人・全日本スキー連盟」となった。全国で大会を毎年開催するとなると、連盟は事前に文部省・外務省・鉄道省などの官庁や地方府県との折衝をする為、その際の信用を取る為には「財団法人化」したほうが良く、SAJ設立当初から悲願となっていて、そのために必要な基金1万円がこの年にようやく集める事ができたので、今回の設立となったのである。
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# by wataridori21 | 2009-08-31 07:02

「団体競争」と「軍隊競争」(1940年)

昭和15年(1940年)は全国的に雪の多い年となった。

本来、札幌五輪が行われる予定の年であったが、日中戦争は泥沼化し国内のスキー選手権も次第に戦時色の強いものに変貌していった。

1月17日から21日にかけて、長野県野沢温泉にて第13回学生選手権大会が開催。野沢温泉では前年に続き2大会連続で開催された。
アルペン複合(滑降・回転)では明大の3人が3位までを独占(1位・若尾金之丞、2位・大島田鉄郎、3位・星野昇)。長距離では1・3位が明大(1位・菊池富三、2位・坂田時人(慶大)、3位・斉藤行男)。ノルディック複合も1・2位が明大(1位・菊池富三、2位・逸見三郎、3位・及川良彦(日大))。ジャンプは北大の姿がめっきり減り、早大が2・3位と目立ってきた(1位・菅野俊一(小樽高商)、2位・大西哲司、3位・竜田鳳三)。リレーは1位・早大、2位・明大、3位・日大。この頃になるとほぼ明大の1人勝ちの印象が強くなっている。

2月8日から5日間にかけて第18回全日本スキー選手権(第10回神宮スキー大会を兼ねる)が、新潟県高田で開催された。この大会では、新種目として「団体競争」と「軍隊競争」の2つが設定された。

団体競争とは、5人でチームを編成して同時スタートし、全員がゴールしたタイムで競うもので、鉄道・逓信・営林・青年団・工場鉱山・警防団の各府県対抗(これのみ3人でのチーム編成)でそれぞれ行った。最後の1人がゴールしたタイムで順位が決まる為、1人突出した選手がいても勝てないことからチームワークを問われる競技といえる。
軍隊競争とは、文字通り軍人達が参加し5人でチームを編成して、途中5人中4人が5発ずつ計20発の射撃を行い、命中1発について1分の計算で所要時間から差し引き、順位を決めるものであった(ルールは違うが競技風景は現在のバイアスロンを連想させる)。
選手権では他に、18km、36km、リレー、ノルディック複合、府県対抗リレー(男子・女子)、アルペン複合(男子・女子)

全日本選手権では秩父宮殿下が出席していたが、彼は大会終了直後に満蒙へ出張し滞在先で大病を患い長い闘病生活に入った。彼にとってこれが最後のスキー選手権への出席となった。
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# by wataridori21 | 2009-08-30 06:53

「第1回全国スキー講習会(バッジテスト)」と「第1回指導員検定講習会」(1939年)

昭和13年(1938年)1月9日、兵庫県西宮の阪神甲子園球場にて「甲子園ジャンプ大会」が開催された。
この催しは「都会の人にスキーの魅力を知って貰おう」と企画したもので、高さ30mの気骨を組み合わせたシャンツェが球場内に建設され、30両の貨車を使って妙高山麓から大量の雪を運び入れた。当日は4万人を越える観衆を集めた。

2月27日、東京・後楽園球場でもジャンプ大会が開催された。シャンツェの高さは38mと甲子園よりはるかに高い。この時は遠く上越から運ばれた雪で対応した。

明けて昭和14年(1939年)、SAJ(全日本スキー連盟)は、「競技スキー」の他に「一般スキー」の発展を目指す方針を打ち出した。国防上スキーが有効であることもあったが、一般の人々のスキー人口の増加を目指すことも重要と考えたからである。
SAJは「一般スキー術要項」を発行し、厚生省を後援とする「第1回全国スキー講習会」を開催。この講習会でバッジテストを行い、一級・二級の技術章を授与する事とした。
講習会は1月から3月にかけて全国40ヶ所で行われた。全国で受講者総数は3611人で、1級は148人、2級は525人は合格。
さらにスキーの技術指導員の検定も検討され、同年12月21日から3日間の日程で、山形県五色温泉で「第1回指導員検定講習会」が開催された。そして受験者は64人、合格者は10人。

この年の選手権は、1月18日から22日まで長野県野沢温泉で「第12回全日本学生スキー選手権」、2月9日から12日まで、「第17回全日本スキー選手権」が札幌で開催された。
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# by wataridori21 | 2009-08-29 23:42

札幌オリンピックの返上(1938年)

昭和13年(1938年)2月、冬季五輪組織委員会の大野精七副会長に率いられた伊黒正次・菊池富三・藤山嘉造・次井晨の4選手が東欧入りした。フィンランドとスイスで開催されるFIS競技大会に出場する為である。

この大会への出場の経緯は、1940年開催予定の札幌五輪で、スキー競技が除外される可能性が高まった事に始まる。
IOC(国際オリンピック委員会)が、FIS(国際スキー連盟)が「有給のスキー教師はアマチュアである」と規定している事に対して「スキー教師はアマチュアではない」との認識を示し、「FISがこの問題に対し態度を改めないなら冬季五輪からスキーを除外する」と表明。日本側とすれば、スキー競技の無い五輪は大きな問題であり、FIS側へのアピールとしてFIS主催の大会へ日本選手団を送る事にしたのである。
この選手団派遣は、藤山・次井の練習中の骨折によるアルペン競技欠場などがあったが、ガルミッシュ五輪7位の伊黒正次の出場は、各大会で大きな歓迎をもって迎えられた。その後ヘルシンキで開催されたFIS総会には大野精七・高橋次郎が出席して問題解決を呼びかけたが、事態はなかなか好転しない。

そして7月、最悪の事態を迎えた。日本政府の意向を受けた東京組織委員会・札幌実行委員会は、「第12回夏季オリンピック東京大会」と「第5回冬季オリンピック札幌大会」の中止および返上を決議した。日中戦争が悪化の一途を辿った為である。
「日本スキー発達史」では、中止決定についてこう書いている。

札幌実行委員会石黒委員長は次のような感想を述べた。

「今日本は国家の総力をあげて長期難に赴かんとするのときである。オリンピック大会の開催を中止さるるのは理の当然であり、何人といえども首肯し得るであろう。顧みれば過去1年余、札幌の準備は難航を続けたが、幸いにも、内には銃後の護りに力を尽くしつつも、世界公約の履践に務め、外には機会あるごとに諸外国に正義日本を理解せしむべく力を致し得たことは、実行委員会諸氏の熱心な協力はもちろん、東京組織委員会を初め、道民諸氏の親切な指導とによるものであって、厚く感謝の意を表したい」

時局があそこまで悪化し、窮屈も度を越して動きがとれなくなってしまったあの際であるから、私たち密接な関係者も、もう「やむを得ない処置」とあきらめざるを得なかった。

スポーツは平和を表象するものだ。一方に於いて戦争している国が、他方でオリンピックを開催するという、大きな矛盾は、世界の歴史の上からも許されるべきことではない。それに、スキー競技のない冬季オリンピックということも、私たちには有難迷惑なことだった。

ただ、1年間の札幌実行委員会の活動を観て、北海道庁は極めて積極的に動いてくれたが、札幌市はまったく冷淡であった。由来オリンピックは、開催される市の主催である。したがってこの場合札幌市の責任であるべきはずなのに、市長以下の札幌市当局はすべて非協力的であった。このことは返上そのもの以上に「悪い後味」として残った。


ちなみにこの年の選手権は、小樽にて第11回学生スキー選手権が1月21日から3日間の日程で、札幌にて第16回全日本スキー選手権が2月8日から6日間で、長野県野沢温泉にて第9回神宮スキー大会(明治神宮体育大会スキー競技会)が2月17日から20日の日程で開催。

この頃になると、どの選手権でもアルペン競技の選手層が充実してきている。しかしそれとは裏腹に、冬季五輪の返上から終戦から数年後まで、海外の選手権への出場の機会が全て無くなり、スキー競技選手達にとってはまさに「冬の時代」を迎える事になるのである。
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# by wataridori21 | 2009-08-28 21:06

第5回冬季五輪の札幌開催決定(1937年)

1936年(昭和11年)7月31日、ベルリンのホテル・アドロンでIOC総会(国際オリンピック委員会)が開催された。

1940年の夏季五輪の開催候補に立候補を挙げたのは東京とヘルシンキ(フィンランド)の2都市で、このIOC総会で最終決定することになっていたのだが、委員の投票結果は36対27で東京が選出された。しかしここでは冬季五輪の候補地は決まらなかった。
その翌1937年2月、シャモニーで開催されたIOC総会で、正式に札幌に決定した。

札幌決定を受けて、7月19日に小島三郎(全日本スキー連盟会長)・高辻武彦(大日本スケート連盟会長)らを委員とする「第5回冬季オリンピック札幌大会実行委員会」を発足。
設備については、スキーは陸上競技場(距離発着地)、大倉山シャンツェ(ジャンプ台、80m級に改造し60m級を並行して新設)、三角山(回転競技、新設)、手稲山(滑降競技)。スケートは中島公園に屋内・屋外スケート場を新設。ボブスレーは札幌神社飛地境内に新設する事となった。

1月22日から3日間の日程で第10回全日本学生スキー選手権大会が札幌で開催。この大会ではアルペン複合(滑降・回転)が初めて採用された。総合順位は1位・明大、2位・早大、3位・北大。

2月11日、秋田県大館で第15回全日本スキー選手権大会が開催。従来の距離・ジャンプは大館で行ったが、アルペン競技(滑降・回転・複合)は大館に適当な会場がなく、滋賀県米原の伊吹山にて2月21日から2日間の日程で開催する事となった。西日本で全日本選手権が開催されたのはこれが初めてである。しかし10日の段階で雪が無く、直前の17日に降雪がありどうにか開催する事ができた。22日にはすでに雪が解け始め、ギリギリのタイミングで全種目が終了できたという。

選手権は無事に終わり、いよいよ「札幌五輪」へ向けた動きが本格化してきた矢先の7月7日、中国・北京で盧溝橋事件が起き、それをきっかけに日中戦争が勃発。これにより日本でのオリンピック開催が危ぶまれていく事になるのである。
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# by wataridori21 | 2009-08-27 21:53

日本選手団の帰国と日本の冬季五輪招致(1936年)

1936年(昭和11年)2月17日、五輪を終えた日本選手団はガルミッシュを発った。

17日にチェコのスピンデルミューレン、そして25日にノルウェーのオスロに到着。そこで開かれたコルメンコーレン大会に出場、しかし距離競技で日本勢は思うような結果が出ず、オスロの人々は「どうして栗谷川を連れてこなかったか、彼は強かった」と質問してきたという。栗谷川平五郎は今回の五輪には参加していなかったが、1932年のレークプラシッド五輪・複合で18kmを3位通過し、ジャンプでは転倒したがジャンプの飛距離もかなりの好成績を残しており、1933年のホルメンコーレン大会にも出場するなど、オスロではかなり有名になっていた。

3月5日、日本選手団はオスロを出発し、6日にベルリン、10日パリと観光して、13日マルセイユ発の郵船・榛名丸に乗船し、4月17日に帰国した。

一方、日本では1月18日に山形県米沢市で第9回全日本学生スキー選手権が開催。距離50kmで三上保、18kmで上島宏二と北大生が優勝、複合競技とジャンプ競技で菊池富三、32kmリレー(村井三男、乙黒秀秋、前田文雄、岡村英夫)で優勝と、早大を押しのけて明大が頭角を現し、北大・明大の2強時代の到来が予想された。

2月9日には新潟県小千谷で第14回全日本スキー選手権大会が、神宮スキー大会を兼ねて開催。

この大会から男女ぞれぞれ回転・滑降の2競技が行われた。男子回転・成年の部で次井晨(赤倉)、女子・成年の部で菅原サカエ(大館)、男子滑降・成年の部で市来登、女子・成年の部で小逸見カツ(妙高)が優勝。
距離18km成年の部で軍隊から戻ってきた松橋朝一が優勝。複合・成年の部で菊池富三(明大)、ジャンプで森敏雄(明大)、40kmリレーで明大(村井三男、前田文雄、菊池富三、岡村英夫)と、ここでも明治大学の活躍は群を抜いてきた。

この年、次回の冬季五輪(1940年)の開催地に、日本が立候補を表明した。

日本が五輪招致に熱心だったのは、この年ドイツでの夏季・冬季五輪の成功が刺激になり、日本の国際的な知名度を上げる目的として有益と考えたからである。

夏季五輪の候補地は東京で決まったが、冬季五輪の候補地で議論が巻き起こった。当時の「オリンピック憲章」では、「冬季五輪は、夏季五輪の開催国において冬季競技が十分に行える場合は、その国に選択権を与える」という規定があった。つまり、夏季五輪が東京で決まると冬季五輪も日本国内で行われる事となる。
その為、大日本体育協会を中心に「冬季オリンピック会場選定委員会」が発足。そしてこの委員会が開催地選定を行ったのだが、立候補する地区がいくつも出てきた。立候補したのは札幌・日光・霧が峰・志賀高原・菅平・乗鞍で、委員会メンバーは全ての地区を視察してまわった。

条件として第一に挙げられるのは、スキーの他にスケートとボブスレー競技か開催できるかどうかであり、まず長野県の4つの地区は除外され、残ったのは札幌と日光。しかし日光は東京から近いというだけで、スキーやスケートの全国大会の実績が殆ど無い。それに対し札幌は大倉山シャンツェを筆頭に冬季競技の施設が充実しており、スケートの大会も数多く開催されているなど、実績が段違いであった事から、最終的に札幌に落ち着く事になった。
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# by wataridori21 | 2009-08-26 18:47

ガルミッシュ五輪と伊黒正次の7位(1936年)

1936年(昭和11年)2月6日、ドイツ・ガルミッシュ・パルテンキルヘンにて、第4回冬季五輪が開催された。

日本選手団は前年12月24日に東京駅を出発し、満州国を経由しシベリア鉄道でドイツへ移動、翌1月11日にガルミッシュ入り。パルテンキルヘンで駅に到着すると、駅前では現地の大勢のドイツ市民が出迎えた。ドイツスキー連盟のレフォート会長を先頭に、音楽隊の演奏も交えての盛大な出迎えで、当時の日独の親密な関係が伺える。

この大会は中欧ドイツでの開催とあって、冬季五輪では初めてアルペン競技が行われた。種目はアルペン複合(滑降・回転)。
滑降では、日本選手団に滑降の選手はいなかったが距離の関口勇・但野寛・関戸力の3人が出場。1位はジャンプ選手のビルガー・ルード(ノルウェー)で4分47秒4、日本勢の最高は関口勇が6分48秒。続く回転競技では地元のフランツ・プフニュール(ドイツ)が1位となり滑降とで総合1位で金メダル、ルードは5位で総合4位。日本勢は全員失格。
この結果を受けて、翌年の全日本スキー選手権でアルペン競技(滑降・回転・新複合)が採用される事になる。

距離競技では、予想に反して日本選手は惨敗の連続となった。

40kmリレー 1位→フィンランド(2時間41分33秒)、11位→日本(山田銀・関戸力・山田伸・但野寛、3時間10分59秒)
18km  1位→ラルソン(スウェーデン、1時間14分38秒)、49位→山田伸(1時間31分28秒)
複合競技1位→ハーゲン(ノルウェー、18km・240点、ジャンプ190.3点)、29位→関口勇
50km  1位→ウイクルンド(スウェーデン、3時間30分11秒)、28位→但野寛(4時間10分23秒)

「日本スキー発達史」では、日本選手団に同行していた岩崎三郎の手記が残されている。

「第4回冬季オリンピックを観て私は種々考えさせられた。そして、結局、わが日本が極東の孤島であることを悲しまざるを得なかった。

4ヵ年目に見る外国のスキー界は、想像以上に進歩をとげていたのである。まずスキーであるが、フィンランド等選手の1部を除いては、全部張り合わせのスキーを履いていた。このスキーはヒッコリー材の欠点である過重を除去し、しかもヒッコリーの持つ滑りと弾力を生かしている。表と裏にヒッコリーを貼り付け、中味に樺や松を使用して軽く仕上げしてある合板スキーである。締具はほとんどがウィッツを使用し、ベルゲンダールはアメリカ選手の1部と日本選手だけだったと思う。

竹の杖だけは日本が優れていた。しかし遺憾なことにはわが選手は、その優れた両杖を十分活用していたとはいえない。北欧の選手は、杖だけでスキーを押していくがごとき感じさえ与えた。だからスキーがよく滑る。スキーを滑らせているから、歩幅を思い切って大きくすることができ、したがって、一歩一歩の滑走距離を伸ばす事ができるのだ。彼らに比較すると、わが選手は足が軽快で動きが早い、見た目には早いようだが、実際は決して早くない。両杖が効いていないのだ。
これには理由がある。日本のコースがあまりに標高差が大きすぎ、また最近は狭い谷間や藪の中を取り入れすぎている。かかるコースで訓練された選手は必然的に両腕で杖を押す事よりも、足の動く選手に仕上げられる。外国のコースはどこへ行っても50kmでさえ標高差は400m以下だから、この点は根本的に考え直さなければならない」


最終日はジャンプ競技、当日は大変な賑わいで観衆は15万人に達していたという。日本選手では伊黒正次・安達五郎・宮島巌・竜田峻次の4人が出場、特に前回レークプラシッド五輪で8位を獲得していた安達の出番が来ると観衆が大きな声援を送られた。
1回目で安達が73m、伊黒が74mと記録を伸ばしたが、宮島は63m、竜田は73mを飛びながら転倒。
2回目は竜田がレコード更新を狙って77mを飛んだが着地の際に手が雪に触れてしまい失格、成功していれば当時の五輪新記録となる大ジャンプだった。そして期待の安達は2回目で転倒してしまい総合45位。残った伊黒正次が72.5を飛び総合7位を獲得、前年の安達より順位を1つ上げる結果を残した。

1位→ビルガー・ルード(ノルウェー、75m、74m)、7位→伊黒正次(74.5、72.5)

しかし結果をみれば、入賞者が出なかった事から期待はずれの感は否めず、関係者は落胆した。この結果についてジャンプトレーナーの秋野武夫は「日本スキー発達史」でこう話す。

「私たちは今までジャンプの空中姿勢を前部・中部・後部に分けて研究していました。後部というのは着陸前の準備を示す瞬間を指し、中部で美しい浮力を出していた前項姿勢を多分にもどし、着陸の為の準備に移っていました。
ところが外国の一流選手は、殆ど前半と後半の2つしかなく、着陸準備の瞬間もあるにはありますが、わが選手のようにはっきりしておりません。つまり彼らは、美しい前項姿勢を殆ど戻すようなことはせず、そのままで静かに安定した着地をし、前足に体重をかけたまま堅実な姿勢で平地に移っていきます。
わが選手は静かながら非常に強い踏切をし、前項姿勢は決して劣らぬ角度を示し、前部での空中抵抗を減少し、中部で浮力を得てよく飛行曲線を伸ばしていました。しかし、後部になると、この美しい立派な姿勢を急激に起こして後足に体重をのせ、不安定な着地をしていたのであります。

このためオリンピックでも、龍田選手のごとく新記録的な長距離をしながら転倒に終わったのはなんとしても残念な事でした。
この原因はわが国のジャンプ台が、いずれも着陸点がはなはだ楽な所にあるよう造られているからです。オリンピア・シャンツェを例に取りますと、この台は80mの着陸予想であるにもかかわらず、80m以上飛んでいます。このような台が日本には少ない為に、選手が空中で、台の最大限を飛び、または飛び越すために恐怖を感じ、急に今までの前項から体を起こすことに原因します。
さらにわが国では急斜面の練習台が多く、緩斜面の練習台で練習するだけの余裕を持ち得なかったのでした。緩斜面(20度から30度くらいまで)の着陸面を練習する利益は、着陸姿勢が堅固になる事と、多少飛びすぎる台でもあわてる事無く、その上スキーをよく揃えるようになります。急斜面では多少スキーは不揃いであっても立つことはできますが、緩斜面では着陸面の衝撃が大きいのでスキーが不揃いでは立つ事が困難になります。
したがって日本の選手にもっと緩斜面での練習をさせておくべきだった、と私自身経験と自信のなかったことを残念に思います」

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# by wataridori21 | 2009-08-26 07:42