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コルティナダンペッツォ五輪と猪谷千春の銀メダル獲得(1956年)

昭和31年(1956年)2月、イタリアのコルティナダンペッツォにて第7回冬季オリンピックが開催された。

日本選手団は1月9日、羽田空港からイタリアへ飛び、現地でアメリカから移動してきた猪谷千春と合流し、16日より練習を開始。そして1月26日、コルチナのアイススタジアムで冬季五輪は開幕した。参加国は32カ国、選手・役員は1400人が参加した。

27日、まずは距離30kmで、1位はベイコ・ハクリーネン(フィンランド)で1時間44分6秒、宮尾辰男は11時間55分40秒で28位。さらに宮尾は2種目にも出場し15kmで48位、50kmでは25位となった。
複合では佐藤耕一と吉沢広司が出場したが、吉沢はジャンプで5位と好成績だったが距離は棄権、佐藤はジャンプで23位、距離では参加者36人中の33位。佐藤はこの大会が海外遠征への初出場だった。

これまで海外遠征に参加していた選手はともかく、初めて参加した選手はなかなか現地に適用することが難しい。「日本スキー発達史」ではこう書かれている。

はじめて外国に出かけ、幾日かの後には晴れの大会に日本代表として出場するための練習をあちらの雪の上で行っても、一週間や二週間では条件が整ってこないのが普通だ。生活がガラリと変わり、相手も日本人ではない。言葉もうまく通じないし、スキー場の規模も大きくて凄い。それに滑っている外人は全て自分より巧いような錯覚にとらわれる。

はじめての日本選手は、まず最初の一週間は無我夢中ですごしてしまう。気がついた頃には神経衰弱に陥っていて、自分の技術と体力にひどく不安を感じて「こんな調子でオリンピックに出場できるだろうか」という焦躁に陥る。こうした症状にはまれに、初めての外征でも陥らない選手もいるが、大小の差はあっても、たいていの選手に見られる弱さだという事ができる。
もちろんこのような症状は2度目・3度目となると慣れから来る神経が太くなって平気になってくる。今度のコルチナ・オリンピックでも佐藤と杉山がこれで参り、初めての外国生活ではあったが宮尾は案外にも平気だった。杉山もいざ競技が開催されると次第に自信がでてきて、劣等感をなくして好調を示してきたが、佐藤は終始沈滞の域を脱することができなかった。吉沢は3度目だから実力を発揮する事ができ、猪谷にいたってはなんの不安もないばかりか、かえって敵を呑んでいた。

私たちは今更ながら、事前に外国のスキー場で彼らに交じって練習し、競技も体験しておく必要をしみじみ痛感した。これからもおそらく永久に、日本でどんな図抜けた強い選手が出ても、いきなりオリンピックに出場して優勝する、というようなことはあり得ないことだと思う。


アルペン競技は29日は大回転、31日は回転、2月3日は滑降。日本からは猪谷千春・杉山進がいずれも出場した。

この大会での日本勢のハイライトは31日の回転競技である。当日の模様を「日本スキー発達史」の中で野崎監督が手記を残している。

『スラロームの2回目、スタートの地点で猪谷に握り飯をたべさせながら、標高差250m、長さ600mにあまるコースを見下した。92双旗という数において記録的な旗が薄い霧の中にすいて見える。寒気はきびしい。猪谷の肩をもみながら二人でこう話したものである。
「1回目の6位は大成功だ。今度の旗は数が多いので(1回目は78双旗)日本人向きである。ここで一挙にスパートし、のるかそるかの勝負をしよう」私がそう言うと、彼も「2、3人は抜けそうです」と答える。大げさにいえば、私は日本のスキーの運命を彼の2回目のスラロームにかけたわけだ。

1回目に勝っていたスイスのジョージ・シュナイダー、次いでオースタリーのリーダーが次々と40度近い急斜面の底に吸い込まれていく。「スタートの合図を英語でする」という出発合図員の言葉にコックリした猪谷の顔が、どうも沈痛に見えて自分もいささかせつない気がした。スタート、激しいスピードに乗っていく。

ターンに移る瞬間、猪谷の身体が立ち上がった。6番目の旗門である。見る間にその旗の一本を股にはさんでしまった。「片足反則」そう思った。ところが彼は足を180度に開いてその苦境を逃れようとしている。そしてそのまま倒れずにアクロバットのように滑っていく。反則か、それとも反則にならないか。これは審判員の判定に待つより方法はない。猪谷は観衆のどよめきにつつまれながら、強引に狂ったようにスパートしていくではないか。ゴールイン――発表されたタイムは1分48秒5、これまでのベストタイムだ。

ちょうどスタート地点に登っていった杉山の顔を見ると、ものをいいたげである。彼も反則は否かを決しかねているようだ。トニー・ザイラーは15番目に滑った。まことに巧いスキーだった。1、2回とも最優秀タイムを出し優勝を決めた。問題を2位である。反則がなければ猪谷、反則と認定されればゾランダーとなる。ここに至って私は局面を悲観的に考えてしまった。反則とされ、5秒加算されることにより5位に下がるだろうと思ったトタン半ベソをかいた。しかしまた思い直して「反則でない」と自分によくいいきかせ、杉山をスタートさせて決勝点に下がった。

ホテルに帰っても落ち着かない。成績公式発表は午後6時である。花束が来る。お祝いの使いが来る、テンヤワンヤだが、なんとしても落ち着かない。勇を決してスキーの事務所をのぞきに行く。アルペン競技委員長オット・メナルデ氏にうまく会うことができた。
誰かがニヤッと笑った。何も言わないうちに「反則はない」という。2位が決まった。

午後9時からの表彰式を終わって、折柄の寒風に翻る日の丸を仰ぎながら猪谷とともに退場するとき、彼はポツリ「日の丸はいいですね」といった。アイススタジアムの薄暗がりの中で、改めて2人で顔を見合わせ、2人とも大きなタメ息をついた』


回転の結果は、1位はトニーザイラー(オーストリア)で3分14秒7(1回目1分27秒3、2回目1分47秒4)、2位は猪谷千春で3分18秒7(1回目1分30秒2、2回目1分48秒5)。トニーザイラーは他の競技でも強さを発揮し、大回転・回転・滑降の3種目で優勝、「三冠王」を達成している。

最終日の2月5日、ジャンプ競技が行われ、日本から吉沢・佐藤が出場。吉沢は13位と健闘したが、佐藤は異国での気疲れと体調不良も重なり参加53人中の39位に終わった。優勝はフィンランドのヒバリーネンが獲得した。

大会終了後、猪谷は学業のため帰米、日本選手団はドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンにて開催のジャンプ大会に出場する為ドイツに移動するが強風で中止、久慈コーチと吉沢・佐藤・宮尾の4人はオスロに移動してホルメンコーレン大会に出場、そして再び全員がローマでおちあい、レバノンへ移動して現地のスキー場を視察し、3月に帰国した。
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by wataridori21 | 2009-09-12 07:38

ピエール・ギヨーとアンリ・オレイエの来日(1955年)

昭和29年(1954年)2月、フランスからピエール・ギヨーとアンリ・オレイエがスキー技術講習の為に来日した。

ギヨーは眼科医の傍らフランススキー連盟の教育委員会委員長の肩書きがあり、オレイエは1948年に開催されたサンモリッツ五輪の滑降とアルペン複合の優勝者である。2人は全日本スキー連盟の招きで日本入りし、2月5日の長野県志賀高原を皮切りに赤倉・湯沢・大穴・日光・神鍋・蔵王・大館・大鰐・札幌・小樽と回りスキーの指導を行った。

全てのスキー講習会が終わると、朝日新聞社はお茶の会を催した。その席上でこう発言した。内容が「日本スキー発達史」に書かれている。

「日本のスキー人口の多いのに驚いた。世界一ではないかと思う。しかし女性の少ないのはどうした事だろう。女性だけの人口を比較すればフランスのほうが多いかもしれない。一般にスキー人の服装も用具も悪い。特に女性の服装はもっと綺麗にしてよい。スキーも大てい長すぎるし、性能もよくない。あんなスキーでは上手になれないし、良い選手は生まれない。その上施設が不十分で、各国のそれに比較するとずいぶん遅れている。
第一にリフトの数が少ないし、あっても短いリフトばかりだ。もっと長いリフトを架設して十分練習できるようにすべきだ」


明けて昭和30年(1955年)1月、第28回学生スキー選手権が開催。総合優勝は早大となった。
さらに2月、第33回全日本スキー選手権大会が開催。ノルディック競技は札幌、アルペンスキー競技は富良野の北の峰で行われた。この大会は翌年にイタリアで開催される第7回冬季オリンピックの選手選考になる大会だった。結果は次の通り。

滑降 1位→斉藤貢、2位→藤島幸造
回転 1位→杉山進、2位→伊藤文雄
15km 1位→角昭吾、2位→宮尾辰男
40kmリレー 1位→秋田林業、2位→三井芦別
複合 1位→佐藤耕一、2位→藤田武四郎、3位→太田実
50km 1位→小西健吾、2位→斉藤弘

そして大会終了後、コルチナ五輪のメンバーを決めた。結果は次の通り。

監督→野崎彊
コーチ→久慈庫男
選手
ジャンプ→吉沢広司
複合→佐藤耕一
距離→宮尾辰男
アルペン→杉山進・猪谷千春
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by wataridori21 | 2009-09-11 22:32

ノルディックスキー世界選手権とアルペンスキー世界選手権への初出場(1954年)

昭和29年(1954年)2月、スウェーデンにて第20回ノルディックスキー世界選手権と第14回アルペンスキー世界選手権が開催された。

この2つの大会ともFIS(国際スキー連盟)主催で行われ、この先1985年まで西暦で偶数年に開催され、冬季オリンピックの開催年は五輪と世界選手権は合同で開催された。世界選手権単体としては、この年が日本人選手が初めて出場した大会である。

まず2月13日にファルンにてノルディックスキー世界選手権が開幕。この大会の参加国は21カ国、選手・役員合わせて409人の賛カとなったが、東洋人の参加は珍しく、各競技ともに日本人が出場すると「ハイヤー・ヤパン」と大きな歓声が響いた。運営は殆どスウェーデンの軍隊が管理し、会場の整理・記録発表までも行っていた。

14日、午前は距離30km、午後はジャンプ競技が行われたが日本選手は惨敗を繰り返し、2年前のオスロ五輪同様の力の差を感じさせた。ジャンプ競技での惨敗について「日本スキー発達史」ではこう書いている。

吉沢は練習中常に飛距離では一流であり、着陸の確実な点でも一流であったが、この日は踏み損なって46位という惨敗振りを喫した。
FISのジャンプ部長ジグムンドルード氏は「どうして日本は弱くなったか」と不思議がっているが、伊黒、安達時代の立派なジャンプを記憶している彼等には無理もないことだ。しかし今度のFIS大会に出場して、近い将来、必ず日本のジャンプも世界の一流に到達することができる、という自信を得たことは大きな収穫だ。

稲葉監督は「最も必要なことは基礎訓練を十分積む事である。それには猛烈な練習に耐える頑健な体を、四季を通じて養う必要がある。ちょっと練習してすぐ疲れたり、怪我するようではいつまでたっても追いつけない」と感想を述べている。


16日の複合、17日の距離15km、21日の距離50kmも日本勢は惨敗の連続でこの大会を終えた。

27日からはオーレにてアルペンスキー世界選手権が開幕。参加23カ国、選手・役員合わせて260人での開催だった。28日は回転、3月3日に大回転、最終日の7日に滑降。同種目は女子部門もあったが、当然ながら日本勢は参加していない。

アルペンコーチの野崎彊は大会後の感想として、「日本スキー発達史」でこう話している。

「日本のスキーの立地条件を考えたり、身体的の問題を考えると滑降・大回転の2種目はどうしても目下の日本には不適当な種目と断ぜざるを得ない。そうなるとスラロームしか残らない。回転は滑降に比べてそれほど継続したスピードを必要としない。その上滑降に比べると技術的だ。さらに滑降方向を変えて、限られた幅の中に入る事を要求される。軽くて小さな日本人の体はこの競技では不利にならない。逆に有利な条件になる。
以上の理由で、現在のところ日本は回転第一主義を取らざるを得ない。

しからば日本は如何にして、世界一流のスラローマーを獲得するか、一言でいえば、高速力に馴れるのが最初にして最後の方法であり、スピードを獲得する以外に何物もない、と断言することができる。
最初にターンを一生懸命練習して非常に巧くなり、このターンを武器としてスラロームに入り、次の段階で高速力を獲得するやり方が、順序を追った練習法としては正しいものだろう。

しかし今の日本ではもっとせっかちな方法を採りたい。それはまず高速力を選手に強制し、強引にターンに入れるやり方である。無理矢理に速いスピードとターンの関連性を覚え込ませるのだ。強引をきわめた近道のやり方だ。失敗するかもしれない。しかしこの方法を採りたい。とにかく日本人はスピードを完全に欠いているからだ」


大会終了後、日本選手団は2班に分かれ、稲葉監督・野崎コーチ・斉藤・茂原は3月12日、上石・伊黒コーチ・藤沢・石坂・吉沢・柴野・小西・角は16日に帰国した。
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by wataridori21 | 2009-09-11 19:39

スキー用具の輸入と強化合宿と猪谷千春のアメリカ留学(1953年)

昭和27年、全日本スキー連盟では、オスロ五輪の結果を踏まえスキー用具の対策に乗り出した。

当時の日本選手に比べ、欧州の五輪代表選手のスキーは非常に性能に優れていたが、日本国内のスポーツメーカーでは対抗できる製品はおいそれとはできない。そこで連盟では、外国製のスキーの調達を考えた。「激動の昭和スポーツ史」ではこう書かれている。

戦後の物資不足、技術力も不足した時代。戦後のものを使ってはいるが、それも底をつきだし、米軍用スキーの改造が幅を利かせていた。それ以上に困ったのはメーカーが戦前のものしかできない、というより「作ろうとしない」ことだった。

スキーのフレキシビリティー(柔軟性)など全くチンプンカンプン。そこでスキー連盟の小川副会長、竹節理事長に伊黒・野崎・堀の技術委員が相談した結果、「選手の希望をとって輸入しよう」ということになった。だが当時は輸入の外貨枠は非常に貴重で1銭のプラスにもならないこの輸入をやってくれる業者がない。

小川副会長が「訳を話して頼めば美津濃(※現在のミズノ)なら…」というところから急に局面が開けた。美津濃の水野健次郎会長が当時は東京支店長だったので、業者としてではなくスキー仲間として相談したところ、
「わかりました。業者が輸入すれば卸値になるし、外貨の準備や業務一切は当方でやります。手数料はいりません、必要経費だけはください」
という願ってもない申し出に無事輸入が完了。アルペン用は中欧、距離とジャンプ用は北欧から届いた。選手が喜んだのは当然、メーカーは素材の違い・塗装技術・弾力分布の変化・接着剤の違いを含め製作技術に格段の差が生じたことを確認し、その後のスキー用品の大きな進歩のきっかけとなった。


さらに同年4月、五輪から帰ってきた日本代表選手と国内の有望な若手選手を集めて強化合宿を行った。距離は青森県八甲田山の酸ヵ湯で、複合とジャンプは長野県野沢温泉で、アルペン競技は長野県八方尾根で、それぞれ行われた。
距離では山本謙一、複合・ジャンプでは吉沢広司・渡部竜雄・藤沢良一・川島弘三、アルペンでは猪谷千春・水上久がそれぞれ合宿先で、五輪での体験談や欧州の技術を参加選手に話した。ここから次の若手選手が大勢育つことになる。

明けて昭和28年(1953年)1月、山形県米沢で第26回全日本学生スキー選手権大会が、2月には秋田県大館で第31回全日本スキー選手権大会がそれぞれ開催。

2つの大会に先立ち、全日本スキー連盟は翌1954年にスウェーデンで開催されるFIS(国際スキー連盟)主催の世界選手権大会に、日本から選手12名を派遣する事を決めた。そして全日本スキー選手権の結果を選考基準とし、最終的に次のメンバーが決まった。

監督→稲葉忠七
距離コーチ→上石巌
ジャンプコーチ→伊黒正次
アルペンコーチ→野崎彊

選手
距離→角昭吾・小西健吾
ジャンプ→吉沢広司・柴野宏明
複合→藤沢良一・石坂良治
アルペン→斉藤貢・茂原博太郎

尚、この年の大会から国内大会から猪谷千春の姿はなくなった。猪谷は五輪終了後に立教大学に進学したが、オスロ五輪1ヶ月前から欧州で練習できる環境を提供した保険会社AIUのスター社長の計らいで、アメリカの留学し、ダートマス大学に入学する事になったのである。この留学が、彼のその後の運命を大きく変える事になった。
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by wataridori21 | 2009-09-11 18:39

オスロ五輪(1952年)

昭和27年(1952年)、ノルウェーのオスロで第6回冬季五輪が開催された。

それに先立つ昭和26年12月、日本選手団のスキー競技監督・小川勝次は、田島一男を介してアメリカの保険会社AIGのコーネリアス・バンダー・スター社長と面会した。
スター社長は、自らスキー場を経営するほどのアルペンスキー愛好家で、日本選手の活躍の援助を願い出てきた。内容は、オーストリアのサンアントンに日本選手を送り、そこで十分にトレーニングをさせてからオリンピックに出場させる、というものだった。小川は、願ってもない事と快諾。そして選ばれたのはアルペン複合の猪谷千春と水上久で、12月22日に日本を出発した。
両選手は現地でさっそく練習を開始したが、持参したスキーは戦前のものでヒッコリーで製作された単材の板だったが欧州ではすべて合板であり、現地のスキー用具の性能の良さに驚き、すぐそれに取り替えた。

明けて昭和27年1月26日、日本選手団は羽田を出発し、28日にオスロに着いた。戦前は船・鉄道での移動だっただけに隔世の感がある。前回のガルミッシュ五輪参加からすでに16年が経過していた。

小川監督は現地で、日本選手を指導するスキーコーチとして、ロルフ・コルビーという青年を紹介された。コルビーはスキー用具から始まり欧州のスキー技術を細かく話した。その時の事を「日本スキー発達史」で書いている。

日本のスキーは安達が8位をとり伊黒が7位となった頃から「一番有望なのはジャンプだ」ということになっている。この考えから今回もジャンプ陣は複合の藤沢を併せると4名のフルメンバーを連れてくることができた。ところがオスロのスキーを見、コルビーから4選手の練習振りを見ての感想をきき、私は心からガッカリした。空白の間に彼らは大きく進歩し、われらは退歩したことを認めざるを得なかったのだ。

正確にして強い踏切り、悠々たる空中姿勢、スキーの上向きによる遠距離の飛行、揃っているスキー、両腕を回さない飛行、素人目にも彼等のジャンプはやわらかくて綺麗である。そしてわれらのそれは動作があまりにもあわただしくてすべてに見劣りがする。
単に用具の相違なら、進歩した用具に取り替えれば良い。せいぜい1週間も使用すれば自分のものになる。しかし技術の相違となると、オリンピックを控えての2週間や3週間で彼らに追いつくことは不可能である。困った事になった、と思った。

私の悩みは4選手の悩みでもある。そこで私はコルビーとも相談し「彼等の新しい型を見て、それを真似ても今からでは成功は至難だ。君らは日本で覚えたジャンプでオリンピックに出場せよ。但しわれわれは今幸いにも日本を代表して世界第一のスキーの都オスロに来ているのだ、勉強して彼等の技術を習得し日本へ持って帰る義務がある。したがってオリンピックが終わってからホルメンコルン大会までに、なおそれから帰国の日までもよく勉強して新しい技術を我が物としてくれ、それが何より大きな土産だ」と宣言した。


2月4日、猪谷・水上両選手がオスロ入りして日本選手団と合流。小川監督は2人がサンアントンでの1ヶ月余りですっかり「外国ずれ」して用具の近代化・技術の進歩が身についていた事に感心したという。
2月15日、冬季五輪・開会式がビスレット競技場で行われた。参加国は30カ国だったが、日本選手団が入場すると猛烈な歓声が上がった。参加国の大半が欧州国で、黄色の日本人は一際目立ち「ヤパン」の人気は高かったのである。

開会式と同日に、別の会場で大回転が始まった。1位は地元ノルウェーのステイン・エリクセンで2分25秒、日本の猪谷千春は20位で2分36秒1、水上久は26位で2分40秒1。続いて16日は滑降。1位はイタリアのツエノ・コロで2分30秒8、猪谷は2分45秒で24位、水上は4分で44位。
一見惨敗のようにも見えるが、参加者は80名であり、欧州入りから1ヶ月余りで、他国選手とほとんど遜色ない成績が取れた事は大きかった。

17日はオスロでノルディック複合。1位はノルウェーのシモン・スラトヴィック、藤沢良一はジャンプで63mを出すなどして10位に食い込んだが距離18kmが振るわず14位。参加者は28人だった。
18日には距離18kmが行われ、1位がノルウェーのハルゲア・ブレンデンで1時間1分34秒、山本謙一が1時間8分49秒で22位。「日本スキー発達史」で山本はこう話す。

「コースは雪が少ない上に凸凹が多く、それに岩あり、切り株あり、さらに林間に急カーブがあったりしていやなコースだった。全コース猛烈な声援を受け、特に意外にも日の丸の旗を振って応援してくれたノールウェーの一団があって嬉しかった。コースは終始人垣が作られていて間違うようなことはなく、コースを横切る者も伴走もまったくなかった。伴走のないことは日本も学ぶべきだ」

19日はルツクライバで回転。参加者は90人で、猪谷は20番スタートとなった。猪谷の1回目はスタートから好調な滑りを見せたがゴール直前で旗をまわり損ねてタイムロスしてしまい62秒6。2回目は63秒1。総合1位はオーストリアのオテマール・シュナイダーで2分0秒、猪谷は2分5秒7で11位。日本人が初出場で11位を記録、さらに1回目のコースアウトの際、そのまま後ろ向きでスキー逆行させる大胆な滑りをした為、ノルウェー市民の間でそれが話題となり、猪谷の名前は有名になった。

50kmと40kmリレーは日本は不参加、そして24日はジャンプ競技である。会場はホルメンコーレンで、当日は15万人もの観衆を集めた。
結果は1位がノルウェーのベルグマンで226点(67.5,68)、渡部竜雄は189点(59,59.5)で27位、藤沢良一は183.5点(57.5,55.5)で34位、吉沢広司は182.5点(59.5,56.5)で36位、川島弘三は148.1(59.5,56)で42位。参加者は44名だった。

25日、ビスレット競技場で閉会式が行われ、第6回冬季オリンピックは幕を閉じた。

五輪終了後、日本選手団はスウェーデンに移動し、国際スキー大会に出場。その後オスロに戻りホルメンコーレン大会に出場、ジャンプ競技で山本謙一が立つと大歓声が起ったという。そしてコペンハーゲンで国際ジャンプ大会にも出場し、渡部竜雄が6位の成績を挙げた。

3月21日、日本選手団は帰国。途中で猪谷・水上はアメリカに渡り、スター社長の経営するスキー場で練習し、現地で開催された全米アルペン競技選手権に出場、4月14日に帰国した。
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by wataridori21 | 2009-09-11 06:11

全日本スキー連盟(SAJ)のFIS復帰とオスロ五輪代表選手の選出(1951年)

昭和26年(1951年)は全日本スキー連盟(SAJ)のFIS(国際スキー連盟)への復帰の年である。

連盟にとって、FIS復帰は長年の悲願だった。これにより翌年オスロで開催される第6回冬季オリンピックへの日本選手出場が実現する事になり、この年の全日本スキー選手権は、その出場選手を決める重要な大会となった。

それに先立つ1月、青森県大鰐で第24回学生スキー選手権大会が開催。滑降は阿闍羅山の頂上から降りるコースで、降雪の少なさから転倒者が続出、法大の湯浅栄治の1人勝ち。距離では17kmで早大の関戸茂が1位。ノルディック複合では、ジャンプ競技は強風で転倒者が多く、明大の藤沢良一が1位。全体的に優勝者が他の選手に比べて突出した成績で勝利したケースが多かった。総合では1位・明大、2位・早大、3位・法大、4位・慶大、5位・日大。

2月28日、新潟県高田で第29回全日本スキー選手県大会が開催。前述の通り、冬季五輪の選考がかかった大事な大会であったが、ここで思わぬ事故が起った。ジャンプ競技が行われる3月1日の朝、「県営高田ジャンプ台」の着陸斜面が中央付近から大崩落してしまったのである。さらにその下部の沢にあった距離コースも雪解け水で溢れ帰り、ノルディック競技の全てが中止となった。暖冬に加えて前日から季節はずれの雨が大きな原因であった。この時の様子を「日本スキー発達史」で小川勝次が書いている。

六百五十万円かけて竣工した「県営高田ジャンプ台」は10年ぶりに大会を迎える高田市民の熱意によって年末に出来上がった。そして万一の場合を考えて、雪が消えて距離競争ができなくなっても、ジャンプだけは必ず決行する意気込みで十分な雪を確保していた。一方距離競争の方もコース係長高橋正雄以下の努力によって、山間の全コースに青年団や部落の人々が待機していて、雪が消えればすぐに搬入してコースを接続させる手筈を整えていたのだった。
このような手筈を整えていたところ、いよいよ大会の第1日である3月1日の朝になって、突如この大異変にぶつかったのだ。ジャンプ台の崩壊も1日の未明で、その大音響は付近の民家でも聞くことができたといい、着陸斜面は長さ50m深さ2mにもおよんで上がえぐり取られ下に押し流されていた。もちろん金谷山一帯の雪はすっかり消え失せて、スキーどころじゃない。この光景を見た選手も役員も呆然と手を措いてただ長歎するのみだった。

高田で行う書目を赤倉で開催してはどうかという説についても討議され研究された。しかし急に準備ができるはずもない。遂に高田会場での競技は一切中止のやむなきにいたった。継走には本年から天皇杯が下賜されたので「せめて継走だけでも」という希望も多かったが所詮どうする事もできなかった。スキー発祥を誇りとする高田市民はあげて、そして選手も、役員も泣いて悔しがったという。こんな支障は、大正12年選手県大会開始以来実に初めての事故である。


一方、アルペン競技は赤倉で行われたが、競技中選手達は濃霧に悩まされ、失敗する選手が続出したが、実力のある選手は無事に優勝している。壮年の部では、滑降・回転・アルペン複合ともに例年活躍を続けていた久慈定雄(北海道)が1位、富井英三(長野)が2位と綺麗に並んだ。アルペン複合・成年では、下馬評通りに猪谷千春が優勝している。

大会終了後、選手候補メンバーを選出。しかし全日本スキー選手権での事故によりノルディック競技に関しては、宮様スキー大会・学生スキー選手権大会・全日本選手権の地方大会の成績を参考に選出された。そしてアルペン複合・ノルディック複合・距離の選手は、それぞれ別々に合宿を行い、4月に冬季五輪の最終代表選考が行われ、日本選手団のメンバーは次の8人で決定した。
ちなみに選抜した当初は選手だけでも15人いたが、「敗戦日本が関係国に対する賠償もまだ取り決めていないのに、五輪に沢山の選手を派遣するとはけしからん」といった世論があり、それに日本体育協会と文部省がおされる形で8人に削減されてしまった。

監督→小川勝次
飛躍→浅木文雄、吉沢広司、川島弘三
アルペン複合→猪谷千春、水上久
ノルディック複合→藤沢良一
距離→山本謙一

その後、ジャンプの浅木文雄が病気の為に失格となり、渡部竜雄を代替選手として選出した。
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by wataridori21 | 2009-09-10 20:05

日本初のスキーリフト誕生と電気計時装置の採用(1950年)

昭和25年(1950年)頃になると、日本の幾つかのスキー場にスキーリフトが登場してきた。

日本最初のスキーリフトは、昭和21年(1946年)秋に長野県志賀高原・丸池スキー場と北海道・札幌の藻岩山に、米軍専用として建設。そして民間で最初は昭和24年(1949年)、群馬県草津温泉の天狗山に作られたリフトで、昭和25年(1950年)には長野県野沢温泉に建設された。
野沢温泉でリフトが建設された時の事を「激動の昭和スポーツ史」(ベースボールマガジン社)の中で、片桐匡(後の全日本スキー連盟副会長)が語っている。

「草津に刺激を受けて野沢でもスキークラブを中心にその着工工事が始まったのですが、しかしその頃はまだリフトなど作る会社もあるわけでなく、いろいろ考えた末、知り合いの所長のいる小串鉱山から鉄索の技術屋さんである佐々木さんを頼んできて、櫓は手作りの木製で、機械は近くの前田鉄工所に依頼、ワイヤーは鉱山から中古品を買ってきて、といった具合にすべて手作りでやったものでした。
日影ゲレンデの第1リフトがそれで、車の入らない山道をワイヤーを運ぶのに思案の末、小中学生を動員して、ワイヤーを伸ばしてそれにつかまらせて運び上げたり、搬器にはスキーヤーが乗るのだから外れて落ちてはいけないとクリップをダブルにする事を考えたりしました。
それでもスチール板が切れたりするので運転している間じっと監視を続けたり、いったん止まるとワイヤーが逆回転して、スキーヤーは急いで飛び降りなければならないなど、ハプニングが続出したのも思い出します。

そんな危険なこともありまして、それではまともな料金も貰えないだろうと、乗り物に箱をおいて、気持ちがあったら10円入れてくださいといった程度の経営状態だったのです」


昭和2年(1950年)1月、秋田県にて第23回全日本学生スキー選手権大会が開催。アルペン競技は大湯、ノルディック競技は大館で行われ、アルペンでは湯浅栄治・伊藤文雄(ともに法大)ら若手が数多く台頭してきた。総合では1位・明大、2位・日大、3位・慶大、4位・法大、5位・早大となり、各大学とも群雄割拠の様相をみせ始めている。

3月には、山形県にて第28回全日本スキー選手権大会が、国体スキー大会を兼ねて開催。競技は五色・米沢で分担して行われ、アルペン複合で猪谷千春が前回大会の雪辱を果たして優勝。女子の部で木谷初子が優勝し、前々回から数えて大会3連覇を記録した。
この大会で大きな話題となったのは、選手の記録よりも電気計時装置を導入した事である。それまでスキー競技のタイムは大雑把な計り方しか出来なかった。そこに、戦前からアルペン競技に興味を持っていた山形大学の長谷川太郎教授が、戦時中に使用していたレーダーの部品を使って日本初の電気計時装置を発明した。それまで10分の1程度の計測しかできない時計を使っていたものが、この装置により一気に100分の1秒を楽々計測できる事となった事から多くの選手達の支持を集めた。
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by wataridori21 | 2009-09-10 18:48

第27回全日本スキー選手権大会と落合力松(1949年)

昭和24年(1949年)は暖冬の中でのスキー選手権となった。

1月、新潟県中越にて第22回全日本学生スキー選手権が開催。ノルディック競技は小千谷スキー場、アルペン競技は湯沢スキー場で行われたが、雪不足で大会運営は困難を極めた。特に小千谷では大会前夜から雨が降り、各選手も不振続き。その中で耐久の村田吉雄(日大)、薮内勤二(明大)の活躍が目立った。

3月には第27回全日本スキー選手権大会が札幌で開催。第4回国民体育大会を兼ねての開催で、当日は高松宮・三笠宮両殿下も臨席しての開幕となった。種目は距離40km・16km、ジャンプ、アルペン複合、ノルディック複合、32kmリレー。
アルペン複合では前年の覇者・猪谷千春は、手稲山からの滑降コースにしては平坦な土地柄に苦しみ24位となり、地元の水上久が優勝。距離では40kmで、地元の落合力松が2位以下を大きく引き離しての優勝。

落合力松は戦前からの名選手で、「宮様スキー70年史」では彼について特記している。

本道が生んだ名レーサーは高橋昴、岡村源太郎にはじまって数多いが、落合くらい長い歳月にわたって"常勝将軍""雪の超特急"の名をほしいままにした選手は見当たらない。

昭和13年、北商3年生の時、倶知安で行われた地区予選会で優勝したのが、常勝街道ばく進のスタートで、インタミドル3連勝、宮様大会は14年は少年組で、15年は青年組で優勝。14年は全日本選手権の少年組でも勝って、向かうところに敵はなかった。

その勝ち方がまた、ひと味もふた味も違う。中学最後の15年の宮様大会のときなどは、社会人、大学生を相手に、3分29秒をぶっちぎったほどだ。明大へ進んで学生大会で2連勝、昭和16年はじめて全日本へ挑戦(それ以前は少年組)したが、このデビュー戦、なんと2位に4分45秒もの差をつけて勝ったのだ。レース後「落合はコースを間違ったのではないか」と、大会本部が全関門員に再点検を命じたという。

戦後、スキー競技が復活すると落合の"常勝"がまた始まった。昭和21年、第17回大会から宮様5連勝、この連勝記録はいまだに破られていない。北海道選手権は長距離4連勝、耐久3連勝、全日本は23年長距離、24年耐久優勝、当時の新聞は明けても暮れても落合である。だから、昭和23年の全道工場礦山大会で、発熱を押して出場、4位に終わった時は大騒ぎとなった。

落合は美唄の我路の出身。スキーの盛んな小樽に憧れて北商へ進んだ。奥沢の下宿先からスキーで通学していたが、コースは天狗山の頂上まわりというからすごい。こうした練習によって、脈拍が常時30台という鋼鉄の"心臓"が出来上がってしまった、という。「軍隊時代も特別のはからいでスキーが出来たし、戦後は勤め先(酪農)の好意で、食べるものに恵まれたから」と、どこまでも謙虚な人柄である。

悔やまれるのは、時代に恵まれず、国際試合を経験することなく、競技生活を終えてしまったことである。


彼は引退後はSAJ(全日本スキー連盟)で活躍し、1980年から86年までSAJ理事、1984年のサラエボ五輪・日本選手団スキー部門監督。1998年に逝去。
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by wataridori21 | 2009-09-10 06:37

第26回全日本スキー選手権大会(1948年)

昭和23年(1948年)は、戦後の日本スキーが本格的に復活した年である。

北海道・小樽で第21回全日本学生スキー選手権大会が、1月15日から4日間の日程で開催。種目はアルペン複合・耐久・長距離・ノルディック複合・ジャンプ・リレー。総合では前年に続いて明大が優勝、2位が慶大・3位が日大、4位が法大、5位が早大、6位が小樽経専、7位が北三師、8位が北大。2位に慶応大学が台頭している事が注目される。

そして長野県野沢温泉にて、第26回全日本スキー選手権大会が3月11日から4日間の日程で開催。これは第3回国民体育大会冬季スキー大会を兼ねたもので、戦後初の全日本スキー選手権である。出場者の多くは戦争からの復員者で占められていたが、この中で猪谷六合雄・猪谷千春の親子2人が出場し、これが全日本選手権初出場でもある千春は、アルペン複合で初出場初優勝を飾った。
開催種目は耐久・長距離18km・アルペン複合・ノルディック複合・ジャンプ・40kmリレー

この時の模様を「激動のスポーツ40年史」(ベースボールマガジン社)では、こう書かれている。

全国から集まった役員、選手達の顔はドス黒く栄養失調ぎみだったが、表情は一様に喜びにあふれていた。スキーをやれる喜び、噛みしめている思いが体からにじみでているようだった。
滑降トレーニングのスロープ、回転バーン、そして距離コース、さらにジャンプ台のあちこちで「おい!死ななかったな」「お互い悪運が強いようだ」「××はどうした」といった、お互いの無事を喜び合うとともに、まだ会えぬ仲間の安否をきづかう会話ばかりが聞こえた。

猪谷六合雄、千春の親子選手が群馬から出場したのをはじめ、距離では増田慎一、矢崎力、井上健二、落合力松、鈴木幸太郎、ジャンプでは宮島巌、森敏雄、浅木文雄、菅野俊一、若本松太郎、アルペンには片桐匡、橋本茂生、奥村末男など、戦前の日本を代表する選手が元気で活躍した。もちろん、昔使った古いスキー、スキー靴を引っ張り出し、進駐軍の払い下げを加工したユニフォームに身を固めていた。

明るい話題その一は、猪谷少年と称えられた猪谷千春(赤城山に移っていた)が成人として抜群のテクニックというより、ただ1人外側荷動のスキーを見せ、楽々と優勝したのである。
その二は、滑降で新潟県から出場した久保強、茂原博太郎少年は、競技終了後に新制中学校で出場資格のないことが判明して記録は抹消されたが、成、少、壮年を通じてのベストタイム。もちろんコンディションの違い、特に、3月で朝の早い時間と午後では、スキーの滑りの差はあるにしても、久保少年は4分9秒、茂原少年は4分15秒、成年1位の若木が4分12秒だった。猪谷に続くものと期待された。

初の国体を演出してくれたのが、常盤屋旅館のご主人であり早大のOBでもある高井宜雄さんをはじめ選手も兼ねた酒屋旅館の森敏雄さん、同じくお店をやりながらの片桐匡さん、さらに記録、成績表作成を一手に引き受けてくれたのは桐屋旅館のご主人といった人たちだった。


この年の1月30日、スイスのサンモリッツで第5回冬季オリンピック大会が開催された。しかし日本とドイツは第二次世界大戦によってFIS(国際スキー連盟)から除名処分を受けており、この大会には出場していない。両国のFIS復帰は昭和26年4月まで待たなければならなかった。
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by wataridori21 | 2009-09-10 05:36

第20回全日本学生スキー選手権大会(1947年)

昭和20年の終戦に伴い、国外にいた日本人は続々と復員してきた。

復員者の中にはスキー関係者も多数含まれており、「日本スキー発達史」でもその様子が書かれている。

応召者の復員は割合に早く行われた。特に内地勤務の者は昭和20年8月終戦と同時に行われ、外地に勤務していた者も年内一杯か、翌年頃までには帰還した。しかし樺太・朝鮮・満州にいた民間人はなかなか帰国できなかった。

昭和21年9月末に田村節郎と馬場光雄が突如満州から帰ってきた。田村君は新京吉野町に「横浜商行」という堂々たる雑貨店を経営し、スキー関係者としては成功した第一人者と考えられていた。馬場君は満州中央銀行チャムス支店長として羽振りをきかせていたが、ともに着のみ着のままの姿で家族とともに哀れな帰還姿であった。
しかし馬場君が終戦の報を聞くや、銀行の金庫を解放して何千万円という現金を全部邦人に分配した大胆にして適切な処置をとったことを聞いて、スポーツマンらしい彼の姿にひどく感心した。
満州でも朝鮮でもスキー関係者が、終戦の際にとった処置と態度は立派であり、そのうえ引揚げの際はいずれも責任者の地位を買って他の人々の面倒を見てくれた事実は嬉しい。

昭和22年1月に樺太豊原にいた上石巌が帰還した。上石君は樺太のスキー、特に距離選手を養成して、打倒北海道を実現した名コーチである。彼は案外にも元気であり、終戦の際も樺太は朝鮮や満州ほどの混乱はなかったらしい。その上帰国する荷物の中にはスキーまで持ち帰る事ができた、と語った。私は彼の元気な姿を見て喜んだ。そして「今度はジックリ内地に落ちついて日本の選手を強くしてくれるよう努力たのむ」と激励した。


昭和22年(1947年)1月17日、北海道・小樽にて第20回全日本学生スキー選手権大会が、3日間の日程で開催された。
昭和21年9月に日本体育協会が「第1回国民体育大会」を開催し、SAJ(全日本スキー連盟)は翌22年年2月に国体冬季大会・スキー競技会を第25回全日本スキー選手権を兼ねて開催する予定で準備を進めていたが、日本国内は食料・輸送事情が終戦時以上に悪くなり、翌23年に延期する事となった。その為、今回の学生選手権のみ全国区の大会となったのである。

種目は大回転・長距離・ジャンプ・ノルディック複合の4種目が行われ、大回転では明大が1位から3位まで独占、長距離でも明大・薮内勤二が1位、複合では法大・高野栄が1位、ジャンプでは地元・小樽経専の渡部竜雄が1位。

尚、地方で開催された大会は、鳥取・大山で開催された西日本選手権、札幌の第二中学校、全道工場鉱山、第18回宮様スキー大会、日光の関東選手権、野沢の北日本選手権、小樽の北海道大回転、そして冬季国体は中止となったが地方予選だけは行われ札幌・青森・秋田・長野で開催されている。
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by wataridori21 | 2009-09-06 07:10