タグ:日本スキーの歴史 ( 48 ) タグの人気記事

「第1回全道スキー選手権大会」と錦戸善一郎(1946年)

昭和21年(1946年)の日本は、戦災の影響から前年同様、全国的なスキー大会は行われなかった。

しかしその中で北海道では、立て続けにスキー講習会やスキー大会が開催されていった。
まず1月18日から小樽で文部省主催のスキー講習会が3日間の日程で行われ、20日に札幌荒井山シャンツェで札幌雪友ク主催の記録会、26日から旭川市井の沢スキー場で「第15回中部北海道スキー選手権大会」が2日間の日程で、27日には札幌三角山で雪友ク主催の「紅白対抗大回転」、2月9日には「全道中学校スキー大会」が開催された。

そして3月1日から3日間の日程で、「第1回全道スキー選手権大会」を兼ねた「第17回宮様御来道記念スキー大会」が開催。全道スキー選手権大会を企画したのは錦戸善一郎。彼は戦前の冬季五輪・距離競技のトレーナーを務めた人物だが、同時に北海道内でバレーボールやリュージュなどのスポーツ振興に多大な功績を残している。「日本スキー発達史」では、大会を終えての感想が残されている。

「食料、輸送、宿舎等の悪条件なんのその、道内から420名の参加は日本選手権級だった。質的に見てもかつてのインタカレヂ、日本選手権の雄者が集まり、久し振りに快心の競技会を開く事ができた。新進も輩出した一方、学連OBの健在は心強く、それに大部分は復員者たちで、この大会で心のわだかまりが一度に吐き出されたような気がした。この気持ちは参加者全部にもあったようだ。そしてみんなよく走り、飛び、この選手連の姿を見て私は涙が出るほど嬉しかった。万難を排してこの大会を計画し、実行に移してよかったと思う。スキー北海道健在です」

ちなみに本州でのスキー界の動きとしては、3月10日に山形県蔵王で滑降競技会、さらに秋田県横手と新潟県小千谷で「社会体育スキー指導者講習会」が行われた。講習会では基礎スキーの講習が行われ、この時期に「戦技スキー指導者制度」は廃止・無効となった。

10月17日、戦後初の代表者委員会が開催された。メンバーは次の通り。

会長→小島三郎、
副会長→小川勝次
専務理事→竹節作太

理事→岩崎三郎・稲葉忠七・錦戸善一郎・保科武雄・吉岡竜太郎・高橋次郎・丹内正一・小林辰雄・秋野武夫・宮川恒雄・三沢竜雄・千家哲麿

幹事→佐藤助九郎・田村義輝

技術委員→伊黒正次・竜田峻次・栗谷川平五郎・佐々木直・春日俊一・阿部一美・猪谷六合雄・笹川速雄・清水麟一・伊部猪吉・丹内正一・川畑憲雄・三浦敬三・宮村六郎・高橋次郎・稲葉忠七・山田勝巳・秋野武夫・安達五郎・杉村鳳次郎・四谷勇・宮島巌・柴田信一・栗山魏・葛西儀四郎・藤沢伸光・矢崎力・新妻正一・岩崎三郎・片桐匡・野崎彊・鈴木正彦・小竹実・村井栄一・安藤光潔
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-05 06:44

終戦と「財団法人全日本スキー連盟」の復活(1945年)

昭和20年(1945年)は、年明けから日本各地で米軍の空襲が続いた。

1月19日、大日本体育会は傘下の各競技で優勝者に送る銀製品のカップを政府に献納した。これは日本政府が発令した銀器献納政策にしたがったもので、全体で実に120個にも及んだ。
スキー関連では朝香宮賜盃(耐久競走)、全日本スキー連盟盃4個(長距離壮年組、同少年組、複合競技少年組、ジャンプ少年組)、岸清一盃(長距離成年組)、稲田会長盃(複合成年組)、大谷光照盃(回転競技)、大谷光暢盃(女子アルペン複合)、厚生大臣盃(男子アルペン複合)があった。

さすがにこの年は、まともにスキーの大会を開く状況ではなかったが、北海道でただ1つ大会が開催されている。第16回宮様スキー大会である。「宮様スキー大会70年史」では、こう書かれている。

2月25日、札幌総合競技場で開かれた。戦技スキーのみとはいえ、「スキー大会」と名のつく催しはこれが唯一であって、道内各地から集まり、参加者は20団体、500人に及んだ。
この時のプログラムはガリ刷りで「必勝戦力増強北海道雪上錬成大会兼第16回秩父宮高松宮殿下御来道記念スキー練成大会」という長い名称と、大会の趣旨、選士(選手ではない)心得8ヵ条、それに警報発令時の処置といった注意書きが印され、長い歴史の1項を見ることが出来る。


8月15日、日本は連合国軍のポツダム宣言を受け入れ降伏。その後は食料難と治安の悪化で、まだしばらく国内は騒然とした雰囲気が続いた。
その中での11月20日、空襲を免れた岸記念体育館にスキー関係者が集まり、今後のスキー界の復興について話し合った。メンバーは伴素彦・小林辰雄・千家哲麿・宮川恒雄・竹節作太・鈴木正彦・鈴木保二・三沢竜雄・富永正信・野崎彊・奈良勉・竜田峻次・田村義輝・戸田正太郎・小川勝次。

そしてその年の暮れ、大日本体育会は「財団法人日本体育協会」に改称され、各競技のスポーツ部会はもとの独立したスポーツ団体となり、スキー部会も「財団法人全日本スキー連盟」として再出発することとなった。昭和17年4月の体育会への統合から実に約3年半が経っていた。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-04 07:12

戦技スキー兼壮丁皆スキー訓練指導養成中央講習会(1944年)

昭和19年(1944年)1月6日、大日本体育会は長野県菅平にて「戦技スキー兼壮丁皆スキー訓練指導養成中央講習会」を開催した。

すでにこの年の日本では、米軍による日本本土への空襲が始まる時期だったが、国民の士気高揚を狙った行事が多く、まともにスポーツができる環境ではなくなった。その為他のスポーツ大会は次々と中止となり、スキー大会もその例外ではなかった。しかしスキー自体もともと軍隊の雪上移動を目的に発達してきた歴史があり、スキー講習会そのものは継続された。
豪雪地帯での戦争を想定した訓練として「戦技スキー」なるものができ、山岳書専門の「梓書房」の経営者・岡茂雄が編集した「戦技スキー要綱」という冊子を参考に、戦技スキーの講習会を開く事となった。
参加者は大日本体育会スキー部会関係119人、青少年団25人、在郷軍人33人、日本新聞会24人、さらに海軍機関学校と陸軍幼年学校から数名。講師は陸軍戸山学校、スキー部会の計35人。

内容は、スキーを履き、夜間での移動(吹雪の日を選んで行う)、橇(そり)を曳く訓練、雪中炊さん、雪中露営などで、主に四阿山で行った。日程は1月6日から11日の6日間で、零下18度の極寒の環境であったという。

この年は学徒スキー大会・選手権大会は戦況の悪化で行われず、第14回明治神宮国民錬成大会冬季スキー大会は行われたが、実際には開催地・新潟県長岡市の小中学校の生徒のみの参加で、内容も分列行進・スキー体操・雪上戦技訓練・橇(そり)の曳行競争・雪上薙刀訓練といった、およそ競技大会とはいえない戦時色のみ大会となった。それ以外では北海道で第15回宮様スキー大会が明治神宮大会北海道大会を兼ねて開催されたくらいであった。

その年の暮れ近くから、東京をはじめ日本各地で米軍による空襲が頻発するようになった。もうすでにスポーツの事など考えられない状況に追い込まれていった。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-03 07:32

「全国学徒スキー大会」と「国民錬成大会」(1943年)

昭和18年(1943年)、「大日本学徒体育振興会」が創設された。

大日本学徒体育振興会とは、当時の厚生省が、全国の学生・生徒のスポーツ大会の全てを主催する機関として設立した外郭団体で、これにより全日本学生スキー選手権大会は「全国学徒スキー大会」、明治神宮国民体育大会は「国民錬成大会」に名称変更した。

1月15日、北海道・小樽にて全国学徒スキー大会が3日間の日程で開催。この時は文部省の指令により、大学生だけでなく、それまで別個に開催されていた高専、中等も同時にここで行われた。種目は耐久30km・長距離18km・大回転・ジャンプ・ノルディック複合で、総合で久しぶりに早大が優勝、明大は大会5連覇を逃した。

2月4日、栃木県奥日光で国民錬成大会が全日本スキー選手権大会を兼ねて開催、運営は厚生省の外郭団体である大日本体育会スキー部会が行った。スキーの全国大会が日光で開催されたのはこれが初めてで、主催する厚生省としては東京に近い場所で開催して国民の士気を高揚させる目的があった。
しかし大会開始前から終了まで豪雪にみまわれ、会場である湯元までのバス輸送が思うようにはかどらず、湯元で宿泊した選手・関係者はともかく日光で宿泊した人々はほとんど観戦できなかった。当時の湯元は宿泊施設が少なく、関係者の大半が麓の日光で宿泊していた事も大きく影響した。大会終了後、全選手は帰りのバスが湯元まで登ってこられない為、麓まで徒歩で移動する羽目になった。

「日本スキー発達史」で小川勝次が、当時の様子を書いている。

こんな次第だったので湯元で宿泊した者以外は、ろくに競技を観る事もできなかった。いわんや日光の町に宿泊して、競技を観ようと計画した者はまったく失望してしまった。この年の奥日光の雪は大雪とのことだったが、それにしてもあまりにも輸送計画は無力に過ぎた。

もう一つ不愉快なことがあった。それは湯元の宿舎で盗難が実に多かったことである。すでに物資は全て配給制になっていたが、良い品物の配給はない。したがって古い品物ほど良いわけで、杖、スキー、それに靴下その他の衣類等が頻々と盗まれた。食堂へ行っている留守に室に置いておいたスキー靴が盗まれる始末に、一同戦々兢々たる有様で「まさに末世とは今この現象を云うのだろう」と永嘆させた。

結局厚生省が国民の士気を鼓舞しようと考えて力瘤を入れた大会も、大雪に見舞われて除雪する力がなく、さらに世相がこうまで悪化しては成功するはずがない。私は八日の朝、昨日の拭うがごとく晴れ上がった戦場原の粉雪を蹴りながら「あと味の悪い大会だった。これが日本の姿だとしたら大変な事になる」と考えながら帰路についた。


この大会で特記すべきは、後に五輪銀メダリストとなる猪谷千春が、アルペン競技の選手達と練習に参加した事である。
当時猪谷千春はまだ11歳の子供で、当時住んでいた長野県乗鞍から父・猪谷六合雄に連れられて大学選手の滑りを見学に来ていたのだが、練習中とはいえ滑降競技で他のどの選手よりも早いタイムを出した為、大会関係者・選手が一斉に驚き、大きな話題を集めた。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-02 07:04

「全日本スキー連盟」の解散と「大日本体育会スキー部会」の設立

昭和17年(1942年)、太平洋戦争の開戦の翌年ながら、この年もスキー選手権は行われた。

1月17日から5日間の日程で、山形県で第15回全日本学生スキー選手権が開催。種目のうち、滑降のみが山形県と福島県の境にある吾妻連峰で、それ以外は米沢市で行われた。各競技ともに明治大学が大活躍をみせ、同大学は総合1位で、これは4年連続1位の快挙。とくにジャンプ選手のレベルアップは目を見張るものがあった。ちなみに種目は、アルペン複合・耐久20km・16km・40km、ノルディック複合。

2月6日から3日間の日程で「第12回神宮スキー大会」開催。この大会は「第20回全日本スキー選手権大会」を兼ねて開催され、種目は軍隊競争・団体競争・距離45km・17km・アルペン複合、女子大回転、40kmリレー。

昭和17年4月8日、大日本体育協会が解散。そしてスキー部も大日本体育会の1つの部署となった。これは戦時下のスポーツ団体を統一する必要から実行した。前年にせっかく設立した「財団法人全日本スキー連盟」も解散し、部会の発足させることした。
さらに各スポーツの表記は「片仮名の名称を持つ部会は漢字の名称に変更すべき」との意見が国内で出てきた。その為、バレーボールを「排球」、スケートを「氷上」。バスケットを「篭球」、ハンドボールを送球に変更している。

この年、SAJは「国防」を全面に押し出して、「国防スキー列車」を走らせている。1月から3月まで毎週土曜日の夜に運転され、上越線・岩原スキー場まで専用列車で移動し、3日間の日程で軍事教練を行った。
[PR]
by wataridori21 | 2009-09-01 23:23

全日本スキー連盟(SAJ)の財団法人化(1941年)

昭和16年(1941年)は日本軍による真珠湾攻撃の年である。

この頃になると、日本国内でのスキー用具の確保は難しい環境になってくる。昭和12年(1937年)9月に外国製スキー用具の輸入が禁止され、翌13年には国家総動員法が成立し木材・革靴・鉄類・アルミニウム・ゴム・綿布類・毛糸類・石油などスキーに必要な物資は軍需にまわり、新規に調達はできなくなった。

昭和13年時点ではまだそれまで使っていた用具でまかなうことができたが、昭和16年くらいになると用具の不足が深刻な問題となってきた。その中でも例年行われる選手権は粛々と開催されていった。

北海道・小樽で第14回全日本学生スキー選手権が、1月15日から4日間の日程で開催。すでに前年までに明治大学が総合2連覇しており、この大会でも圧倒的な活躍をみせ、明大は3連覇を達成。明大はアルペン複合で1・2・3位、耐久で1・3位(2位は北大)、リレーで1位(2位・早大、3位・北大)、ノルディック複合で2位(1位・早大、3位北大)、ジャンプで2位(1・3位は早大)とタイトルのほぼ独占。すでに早大・北大の栄光は過去のものになっていた。

2月4日からは札幌・小樽で第19回全日本スキー選手権が第11回明治神宮国民体育大会を兼ねて開催。

この前年には「紀元二千六百年奉祝」を謳った「紀元二千六百年奉祝第11回明治神宮国民体育大会」が開催されており、その中のスキー大会としてこの年に開催されたのである。「紀元二千六百年」とは、初代天皇の神武天皇が即位したとされる年を紀元として、1940年が2600年目にあたる年という意味である。参加者は、実に1143人にのぼる盛大な大会となった。
種目は、軍隊競争・青年学校府県対抗伝令・リレー・距離18km・50km・ノルディック複合・ジャンプ・滑降・回転・アルペン複合。全体的に悪天候だったが、一部日程を変更してすべての競技を実施した。

同じ昭和16年4月23日、SAJは「財団法人・全日本スキー連盟」となった。全国で大会を毎年開催するとなると、連盟は事前に文部省・外務省・鉄道省などの官庁や地方府県との折衝をする為、その際の信用を取る為には「財団法人化」したほうが良く、SAJ設立当初から悲願となっていて、そのために必要な基金1万円がこの年にようやく集める事ができたので、今回の設立となったのである。
[PR]
by wataridori21 | 2009-08-31 07:02

「団体競争」と「軍隊競争」(1940年)

昭和15年(1940年)は全国的に雪の多い年となった。

本来、札幌五輪が行われる予定の年であったが、日中戦争は泥沼化し国内のスキー選手権も次第に戦時色の強いものに変貌していった。

1月17日から21日にかけて、長野県野沢温泉にて第13回学生選手権大会が開催。野沢温泉では前年に続き2大会連続で開催された。
アルペン複合(滑降・回転)では明大の3人が3位までを独占(1位・若尾金之丞、2位・大島田鉄郎、3位・星野昇)。長距離では1・3位が明大(1位・菊池富三、2位・坂田時人(慶大)、3位・斉藤行男)。ノルディック複合も1・2位が明大(1位・菊池富三、2位・逸見三郎、3位・及川良彦(日大))。ジャンプは北大の姿がめっきり減り、早大が2・3位と目立ってきた(1位・菅野俊一(小樽高商)、2位・大西哲司、3位・竜田鳳三)。リレーは1位・早大、2位・明大、3位・日大。この頃になるとほぼ明大の1人勝ちの印象が強くなっている。

2月8日から5日間にかけて第18回全日本スキー選手権(第10回神宮スキー大会を兼ねる)が、新潟県高田で開催された。この大会では、新種目として「団体競争」と「軍隊競争」の2つが設定された。

団体競争とは、5人でチームを編成して同時スタートし、全員がゴールしたタイムで競うもので、鉄道・逓信・営林・青年団・工場鉱山・警防団の各府県対抗(これのみ3人でのチーム編成)でそれぞれ行った。最後の1人がゴールしたタイムで順位が決まる為、1人突出した選手がいても勝てないことからチームワークを問われる競技といえる。
軍隊競争とは、文字通り軍人達が参加し5人でチームを編成して、途中5人中4人が5発ずつ計20発の射撃を行い、命中1発について1分の計算で所要時間から差し引き、順位を決めるものであった(ルールは違うが競技風景は現在のバイアスロンを連想させる)。
選手権では他に、18km、36km、リレー、ノルディック複合、府県対抗リレー(男子・女子)、アルペン複合(男子・女子)

全日本選手権では秩父宮殿下が出席していたが、彼は大会終了直後に満蒙へ出張し滞在先で大病を患い長い闘病生活に入った。彼にとってこれが最後のスキー選手権への出席となった。
[PR]
by wataridori21 | 2009-08-30 06:53

「第1回全国スキー講習会(バッジテスト)」と「第1回指導員検定講習会」(1939年)

昭和13年(1938年)1月9日、兵庫県西宮の阪神甲子園球場にて「甲子園ジャンプ大会」が開催された。
この催しは「都会の人にスキーの魅力を知って貰おう」と企画したもので、高さ30mの気骨を組み合わせたシャンツェが球場内に建設され、30両の貨車を使って妙高山麓から大量の雪を運び入れた。当日は4万人を越える観衆を集めた。

2月27日、東京・後楽園球場でもジャンプ大会が開催された。シャンツェの高さは38mと甲子園よりはるかに高い。この時は遠く上越から運ばれた雪で対応した。

明けて昭和14年(1939年)、SAJ(全日本スキー連盟)は、「競技スキー」の他に「一般スキー」の発展を目指す方針を打ち出した。国防上スキーが有効であることもあったが、一般の人々のスキー人口の増加を目指すことも重要と考えたからである。
SAJは「一般スキー術要項」を発行し、厚生省を後援とする「第1回全国スキー講習会」を開催。この講習会でバッジテストを行い、一級・二級の技術章を授与する事とした。
講習会は1月から3月にかけて全国40ヶ所で行われた。全国で受講者総数は3611人で、1級は148人、2級は525人は合格。
さらにスキーの技術指導員の検定も検討され、同年12月21日から3日間の日程で、山形県五色温泉で「第1回指導員検定講習会」が開催された。そして受験者は64人、合格者は10人。

この年の選手権は、1月18日から22日まで長野県野沢温泉で「第12回全日本学生スキー選手権」、2月9日から12日まで、「第17回全日本スキー選手権」が札幌で開催された。
[PR]
by wataridori21 | 2009-08-29 23:42

札幌オリンピックの返上(1938年)

昭和13年(1938年)2月、冬季五輪組織委員会の大野精七副会長に率いられた伊黒正次・菊池富三・藤山嘉造・次井晨の4選手が東欧入りした。フィンランドとスイスで開催されるFIS競技大会に出場する為である。

この大会への出場の経緯は、1940年開催予定の札幌五輪で、スキー競技が除外される可能性が高まった事に始まる。
IOC(国際オリンピック委員会)が、FIS(国際スキー連盟)が「有給のスキー教師はアマチュアである」と規定している事に対して「スキー教師はアマチュアではない」との認識を示し、「FISがこの問題に対し態度を改めないなら冬季五輪からスキーを除外する」と表明。日本側とすれば、スキー競技の無い五輪は大きな問題であり、FIS側へのアピールとしてFIS主催の大会へ日本選手団を送る事にしたのである。
この選手団派遣は、藤山・次井の練習中の骨折によるアルペン競技欠場などがあったが、ガルミッシュ五輪7位の伊黒正次の出場は、各大会で大きな歓迎をもって迎えられた。その後ヘルシンキで開催されたFIS総会には大野精七・高橋次郎が出席して問題解決を呼びかけたが、事態はなかなか好転しない。

そして7月、最悪の事態を迎えた。日本政府の意向を受けた東京組織委員会・札幌実行委員会は、「第12回夏季オリンピック東京大会」と「第5回冬季オリンピック札幌大会」の中止および返上を決議した。日中戦争が悪化の一途を辿った為である。
「日本スキー発達史」では、中止決定についてこう書いている。

札幌実行委員会石黒委員長は次のような感想を述べた。

「今日本は国家の総力をあげて長期難に赴かんとするのときである。オリンピック大会の開催を中止さるるのは理の当然であり、何人といえども首肯し得るであろう。顧みれば過去1年余、札幌の準備は難航を続けたが、幸いにも、内には銃後の護りに力を尽くしつつも、世界公約の履践に務め、外には機会あるごとに諸外国に正義日本を理解せしむべく力を致し得たことは、実行委員会諸氏の熱心な協力はもちろん、東京組織委員会を初め、道民諸氏の親切な指導とによるものであって、厚く感謝の意を表したい」

時局があそこまで悪化し、窮屈も度を越して動きがとれなくなってしまったあの際であるから、私たち密接な関係者も、もう「やむを得ない処置」とあきらめざるを得なかった。

スポーツは平和を表象するものだ。一方に於いて戦争している国が、他方でオリンピックを開催するという、大きな矛盾は、世界の歴史の上からも許されるべきことではない。それに、スキー競技のない冬季オリンピックということも、私たちには有難迷惑なことだった。

ただ、1年間の札幌実行委員会の活動を観て、北海道庁は極めて積極的に動いてくれたが、札幌市はまったく冷淡であった。由来オリンピックは、開催される市の主催である。したがってこの場合札幌市の責任であるべきはずなのに、市長以下の札幌市当局はすべて非協力的であった。このことは返上そのもの以上に「悪い後味」として残った。


ちなみにこの年の選手権は、小樽にて第11回学生スキー選手権が1月21日から3日間の日程で、札幌にて第16回全日本スキー選手権が2月8日から6日間で、長野県野沢温泉にて第9回神宮スキー大会(明治神宮体育大会スキー競技会)が2月17日から20日の日程で開催。

この頃になると、どの選手権でもアルペン競技の選手層が充実してきている。しかしそれとは裏腹に、冬季五輪の返上から終戦から数年後まで、海外の選手権への出場の機会が全て無くなり、スキー競技選手達にとってはまさに「冬の時代」を迎える事になるのである。
[PR]
by wataridori21 | 2009-08-28 21:06

第5回冬季五輪の札幌開催決定(1937年)

1936年(昭和11年)7月31日、ベルリンのホテル・アドロンでIOC総会(国際オリンピック委員会)が開催された。

1940年の夏季五輪の開催候補に立候補を挙げたのは東京とヘルシンキ(フィンランド)の2都市で、このIOC総会で最終決定することになっていたのだが、委員の投票結果は36対27で東京が選出された。しかしここでは冬季五輪の候補地は決まらなかった。
その翌1937年2月、シャモニーで開催されたIOC総会で、正式に札幌に決定した。

札幌決定を受けて、7月19日に小島三郎(全日本スキー連盟会長)・高辻武彦(大日本スケート連盟会長)らを委員とする「第5回冬季オリンピック札幌大会実行委員会」を発足。
設備については、スキーは陸上競技場(距離発着地)、大倉山シャンツェ(ジャンプ台、80m級に改造し60m級を並行して新設)、三角山(回転競技、新設)、手稲山(滑降競技)。スケートは中島公園に屋内・屋外スケート場を新設。ボブスレーは札幌神社飛地境内に新設する事となった。

1月22日から3日間の日程で第10回全日本学生スキー選手権大会が札幌で開催。この大会ではアルペン複合(滑降・回転)が初めて採用された。総合順位は1位・明大、2位・早大、3位・北大。

2月11日、秋田県大館で第15回全日本スキー選手権大会が開催。従来の距離・ジャンプは大館で行ったが、アルペン競技(滑降・回転・複合)は大館に適当な会場がなく、滋賀県米原の伊吹山にて2月21日から2日間の日程で開催する事となった。西日本で全日本選手権が開催されたのはこれが初めてである。しかし10日の段階で雪が無く、直前の17日に降雪がありどうにか開催する事ができた。22日にはすでに雪が解け始め、ギリギリのタイミングで全種目が終了できたという。

選手権は無事に終わり、いよいよ「札幌五輪」へ向けた動きが本格化してきた矢先の7月7日、中国・北京で盧溝橋事件が起き、それをきっかけに日中戦争が勃発。これにより日本でのオリンピック開催が危ぶまれていく事になるのである。
[PR]
by wataridori21 | 2009-08-27 21:53