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「日本スキー選手権」と「大日本体育協会スキー部」の創設(1922年)

大正11年(1922年)2月11日、妙高高原赤倉山で「日本スキー選手権」が開催された。

この大会は、東京スキー倶楽部主宰、万朝報社の後援で行われた。種目は滑降3500、滑降1500、継走(リレー)、クリスチャニアスラローム、テレマークスラローム。(僕自身この2つのスラローム競技を見たことがないので、想像する限りクリスチャニアはパラレルターンでの回転、テレマークは両足を前後に開いたままの姿勢で回転、なのかな?)
参加者は中学・専門・倶楽部の選手で、テレマークでは参加選手全員が転倒したため入賞者なし(転倒者は失格という規定があったため)。授賞式では大日本体育協会の近藤茂吉がメダルを授与した。
ちなみに2日後の2月13日には、高田で「全国スキー大会」が開催されている。

3月には大日本体育協会内でスキー部が設置された。当時協会では様々なスポーツ部が設置されていたが、協会内でスキーに関心のある人物があまりいなかった。そこで常務理事をしていた近藤茂吉が岸清一会長を説得してスキー部の創設にこぎつけたのである。
委員長は堀内文治郎、委員に二荒芳徳、外山高一、太田孝之、鹿子木員信、神尾錠吉、河本禎助、稲田昌植、近藤茂吉。

体協スキー部が創設されると、今度は他のスポーツ部と同様に全日本選手権の開催も検討され、翌年の1923年に第1回大会の開催が実現する事となった。場所は北海道・小樽市。参加地区は樺太・北海道・東北・信越・関東の5地区で、関西は参加見送りとなった。

開催にあたり競技規定も作成することとなったが、稲田昌植が熟慮しノルウェー・ホルメンコーレン大会の規定を参考に「全日本スキー選手権大会競技規定」が作られた。優勝地域には「朝香宮賜杯」が送られる運びとなった。
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by wataridori21 | 2009-07-20 07:00

遠藤吉三郎・木原均「最新スキー術」と北海道大学スキー部(1916年)

高田でのスキー競技の発展の一方、北海道でのスキーの発達も大きな発達を見せた。

1916年(大正4年)、北海道大学の遠藤吉三郎教授がヨーロッパ留学の際、ノルディックスキーを学び、その技術とスキー用具の知識を習得して帰国した。彼は特別スキー選手としての実績はなかったが、スキーを大変愛好していた為、日本に戻るとさっそく北大の生徒に指導した。

この時期、北海道ではスキーは1本杖の他に2本杖が取り入れ始めていたが、遠藤教授がノルウェーから持ち帰った2本杖により急速に広まった。さらに靴の締具でも、当時主流だったリリエンフェルト式締具に代わり、フィットフェルト式締具が導入された。
フィットフェルト式とは、1893年にフリッツ・フィットフェルトが開発したバインディング(ブーツを固定する金具、ビンディングともいう)のことで、当時は金具ではなく革ベルトを使用したものだったが、靴幅の調整が可能で、踵が自由に動くため、北大生から熱烈な支持を集めた。

さらに遠藤教授はジャンプ競技の知識も導入した。それまで日本ではジャンプ競技自体が行われなかった事から、本州に先駆けて、札幌や小樽ではジャンプ選手が多数出現。大正4年(1915年)2月には、札幌・丸山でスキー競技会が開催されている。

大正9年(1920年)2月、遠藤教授は教え子である木原均とともに「最新スキー術」を出版した。この本ではスキーの滑降技術を初め、補助器具の知識、登山での注意事項、スキーの歴史、ノルディックスキーとアルペンスキー双方の重要性等を詳しくまとめられており、当時の日本スキー界に大変大きな影響を与えた(ちなみに木原均は、その後「遺伝子技術の権威」として、その世界では神様と崇められる事になる)。
同じ2月、北大主催で小樽・札幌間のスキーでの駅伝競走も行われ、多くの有望選手がそこから育成されていった。

1916年からの遠藤教授の指導により、北海道勢のスキーレベルが大幅に上がった為、大正12年(1923年)に開催された第1回全日本スキー選手権大会で、本州勢に大きく水をあける大躍進につながる事になるのである。
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by wataridori21 | 2009-07-19 06:55

「第1回全国スキー大会」の開催(1914年)

大正2年(1914年)2月11日、高田にて「第1回全国スキー大会」が開催された。

この大会は日本スキー倶楽部主催で行われ、長距離競争を種目としていたが、「全国」とは名ばかりで、実際は大半が地元高田出身選手で占められた。前述の長岡外史らスキー倶楽部の中心人物が相次いで高田を離れた為、横の連携が行き届かなくなった事から、新潟県外の選手が集まりにくくなったからである。

出場選手には、軍人・逓信・営林・鉄道等の職員、中学・師範学校・農学校の生徒がいて、高田郊外の旭山レルヒコース・城山コースを使用しての競技だった。しかし競技に際し明確なルールも作らなかったので、選手達は趣向を凝らしたレースを行った。登りになると杖に鉤(かぎ)をつけ木に引っ掛けて杖を引っ張って登ったり、ゴール近くまで来るとスキーをぬぎ担いで走ってゴールしたりと無茶苦茶なレースでタイムを競ったのである。

この全国スキー大会は毎年開催され、そこから田中光武・村山伊之助・村山紀一郎・南雲寅太・上田潤一・小川太三郎・永田弘・川瀬慎一・佐藤誠治・瀬尾省三・柿村敬二・富永正信・田中義武・近藤文太・水島進・永田実・古川義一・吉越立郎・保科武雄・上石巌・朝枝政夫・近藤守栄・池田平八郎といった多くの名選手も養成された。
ちなみに第6回大会では樺太から桜庭留三郎・草薙清一、そして第8回大会では早稲田大学の選手達が参加している。早大は大正9年に山岳スキー部が創設され、その第1期生が大会に参加してきたのだが、この時は熟練された地元の中学生に全く歯が立たなかったという。
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by wataridori21 | 2009-07-18 20:00

「日本スキー倶楽部」の発展と衰退(1912・13年)

明治45年(1912年)に誕生した「越信スキー倶楽部」は、それからまもなく「日本スキー倶楽部」に改称した。

日本スキー倶楽部は、高田以外にも長野・山形・秋田・青森に支部を置き、冬になるとそれらの地区から多くの人々がスキー習得の為に高田にやってきた。
生徒は主に軍人・先生・営林職員・学生で、高田では鶴見大尉やレルヒ少佐の指導を受けた阿部正量・金井勝三郎・高橋進らが「スキー指導団」を結成して指導に当たる。その生徒の中には、当時学習院(旧宮内省の外局として設置された官立学校)に在籍していた三島弥彦もいた。三島はその時、ストックホルムで開催された第5回オリンピックの日本代表選手(短距離競技)に選ばれたばかりで、この講習会が終わった直後の5月にストックホルムに出国している。ちなみに彼は、金栗四三とともに日本人オリンピック出場第1号選手である。

この日本スキー倶楽部の創設は全国に報道され、当時横浜に在住していた貿易商のエゴン・フォン・クライッツァーが大きな刺激を受け、他の在留外国人を引き連れ新潟県の五色に赴きスキーを滑り、その後「日本アルペンスキー倶楽部」を創設した。

このように日本でのスキーの広がりは大きくなったかに見えたが、大きな転機が訪れた。スキー普及を目指していた長岡外史師団長が、京都師団長に異動となったのである。後任には秋山好固中将が就任したが、彼はスキーへの理解は乏しく、他の軍人達も新しい師団長に遠慮してスキー関係の活動は自粛するようになった。

さらに悪い事に、鶴見大尉を筆頭とする高田13師団は揃って満州守備に出る事になり、日本スキー倶楽部は活動自体が大幅に縮小。そして各支部はそれぞれ独自にスキーの普及を行うようになり、互いの連絡網も途絶えていった。
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by wataridori21 | 2009-07-18 06:32

鶴見宜信「スキー術」と「越信スキー倶楽部」「北海道スキー倶楽部」の創設(1912年)

明治45年(1912年)1月、高田58連隊の鶴見宜信大尉は、スキーの民間への普及を進めるため、「スキー術」という冊子を発表した。

この本は、同じ月に新潟県小千谷で開催された軍隊・民間の合同でのスキー講習会の為に準備したテキストで、前年にレルヒ少佐から受けた指導をもとに鶴見大尉自ら書いた。
3篇に分けた構成で、第1章が平地における動作、第2章は緩傾斜地における動作、第3章は急傾斜における動作となっている。スキーの着脱、経ち方、歩き方、止まり方、斜面の登り方、滑降の仕方、キックターンの仕方、更にスキーでの冬山登山の方法や自身の登山体験記(彼は直前に、スキーでの冬の妙高登山を実行している)が書かれており、この本が講習会で配られ、参加者はこれを参考に講習を受けた。
「スキー術」はその後話題を呼び、早稲田大学を初めとする各大学の山岳部で、スキーによる冬山登山を行うようになった。

同じ年の2月、新潟県高田で「越信スキー倶楽部」が誕生した。

「越信スキー倶楽部」とは、前年から高田で急速に普及していったスキーを、日本の積雪地帯全域に広める目的で作られた団体で、長岡外史師団長の呼びかけで誕生したのである。
前年3月に東京の宮中で行われた全国師団長会議で、長岡師団長が、スキーの軍事上とともに日本の雪国での生活手段として重要である事を唱え、スキー倶楽部の創設を予定している事を発表していた。その時に出席していた明治天皇を初め、多くの師団長らは強い興味を示し、翌年2月の発会式では各地の名士や名代が続々と参加してきた。その中には明治天皇の名代として山根侍従武官、さらに乃木大将も参列した。

当日は、午前は旭山から射撃場までの遠距離競争、午後は金谷山での発会式が行われ、式ではレルヒ少佐の指導を受けた鶴見大尉以下の専修員が模範滑降を披露した。数日前から地元新聞は大きく報道していた為、大勢の人々で金谷山は大変な賑わいだったという。

この頃、高田ではスキー用具の発達が急速に進み、家具商や車大工の多くはスキー製造業に転業し、製造された用具は、高田や新潟県下にとどまらず、内地はもちろん、遠く北海道や当時日本の領地だった樺太まで広く出回り、当時の高田の主要産業に発達した。明治の時代にあって運動具がこれほどの需要を生み出す事は、大変異例だったに違いない。

一方、同じ年、レルヒ少佐は転任先の北海道・旭川で軍部内でスキー指導を行った。しかし現地の軍隊を統括していた旭川第7師団の林中将は、スキーの軍事的価値をあまり感じる事がなく、スキー講習は僅か1回に留まり、民間人への開放もあまり積極的に行わなかった。
この講習に参加した民間人は地元の3人の郵便局員だけだったが、その中にいた旭川郵便局長・松田秀太郎はスキーに強い関心を持った。豪雪地である旭川での郵便業務で役に立つと考え、局員にスキー技術を伝え、局内でスキー愛好家が多く誕生した。さらに局外の一般人にも広まり、その後、松田らを中心とした「北海道スキー倶楽部」が創設されたのである。
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by wataridori21 | 2009-07-16 06:05

スキー講習会とスキーブームの到来(1911年)

1月12日から始まった高田58連隊のスキー訓練の模様は、連日地元の新聞で報道された。

高田の町では、竹を使ったスキーを自前で作り、スキーを楽しむ者が次々と現れた。竹を細長く削り、先端を日で炙って曲げ、それを古下駄を打ち付けたものだったが、さすがに竹製とあって旨く操作できない。
それからまもなく木製のスキーが売り出されるようになった。最初は軍隊による軍事用に考えられたスキーの導入だったが、ものの数日で一般市民の間にスキーが広まったのである。

レルヒ少佐の指導はおよそ1ヶ月にわたり高田周辺の各地で行われ、連隊の営庭から、学校の校庭、練兵場、金谷山、旭山、南葉山、さらに関山、妙高山麓にまで足を運んだ。指導は過酷ではあったが、この第1回専修員はこの訓練の結果、全員がスキー技術の習得を成し遂げた。

この結果を受けて長岡師団長は、翌2月15日から第2回スキー講習会の開催を行う事とした。この時は軍人だけではなく、新潟県下の学校教師らの参加も認めた。長岡師団長は、豪雪地帯の新潟県にあって、スキーを大衆娯楽として広める事の意義を考えたのである。当時の世情を考えれば画期的であり、長岡師団長には先見の明があった。

この第2回スキー講習会は5日間で行われた。参加したメンバーには、後に全日本選手権等で活躍し指導者としても活躍した阿部正量・金井勝三郎、さらに佐藤サイ・大内文子ら高女の女性講師も含まれていた。指導するレルヒ少佐の補佐には、第1回講習会の専修員だった若手将校がついた。

講習会終了後、レルヒ少佐は北海道・旭川へ転任する事となったので、将校や生徒が参加する「レルヒ少佐送別競技会」が開催された。軍人も民間人も一緒になっての競技会である(これについては、僕自身少し驚いた。軍人と一般人との距離は、当時は以外に近かったのだろうか)。

その後、金谷山では、日曜といえばスキー客で賑わいを見せるようになった。大人も子供も、男女問わずスキーを楽しみ、滑る者もいれば、見物も訪れる者も大勢集まり、一大スキーブームが巻き起こった。

その後、スキーブームの広がりは日本各地に広まっていく事となる。
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by wataridori21 | 2009-07-14 05:56

レルヒ少佐のスキー指導(1911年)

1911年1月12日、レルヒ少佐による高田58連隊のスキー講習が始まった。

当時のスキーは現在とは違い、1本の太い竹の一本杖をストックとして使っていたが、連隊は誰もがスキーの履き方からして判らず、まずは穿き方・脱ぎ方から憶え、それから平地行進と段階的に指導が続いた。
「日本スキー発達史」で著者・小川勝次は当時をこう振り返る(以下、原文のまま抜粋)。

当時私は小学5年生で、この58連隊のすぐ隣屋敷の第一尋常小学校(現在の元町小学校)に通っていた。営庭でのレルヒ少佐の講習会も3日目、4日目になって、専修員がそろそろ平地行進ができるようになると、私達の校庭へもやってきた。身長6尺を越すレルヒ少佐が、緑色のトルコ帽のような帽子をかぶり、太い竹の杖を斜めに構え、雪面を押すように悠々と滑ってくる。実に堂々として立派な姿である。
ところが続く専修員はいずれも小柄で、カーキ色の軍服に巻ゲートルという服装はいかにも小汚い。それにどれも、しどろもどろのよたよた歩きで、歩調がさっぱり合っていない。校庭の土堤を登りきってレルヒ少佐は鮮やかに校庭に滑り込んできた。ジットしていても校庭の真ん中あたりまで滑って自然に止まった。
しかるに続く連中が大変である。まずこの土堤を登る事が容易じゃない。後滑りしてこんな小さな坂で七転八倒の難渋さである。
さらに私達を笑わせたことは、いよいよ土堤を登りきって、いざ降りとなると、すぐ先頭が尻餅をついた。この先頭の尻餅をついた場所に、2番と3番も尻餅をついた。同じ場所で次々と尻餅をつくこの光景がとてもおかしかった。

誰かが「スキー隊がきたぞ」と叫ぶと授業は中止となった。担任の古沢潔先生も私達を叱らなかった。そしてみんな窓際により、異様なスキー隊を眺め、転ぶスキーに大笑いした。時には堀内連隊長がレルヒ少佐のすぐ後に続く事もあった。堀内大佐は5尺1寸あるかないしかという小男だったので、私達もすぐそれと判った。

私達はレルヒ少佐指導するところのこのスキー風景をみて、この光景が日本のスキーの誕生であり、歴史の第一頁である、なんてことはもちろん知らない。ただスキーというものは滅茶苦茶に転ぶものである。、という印象を受けただけであった。


こうして、新潟・高田の地を舞台に、地元の小学生の好奇の目にさらされながら、日本スキーの貴重な第一歩が刻まれたのである。
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by wataridori21 | 2009-07-10 23:19

日本スキーの始まり(1910年)

日本にスキーが伝わった経緯は幾つかの諸説があるが、今回は実際に日本でスキーの技術指導を行ったテオドール・フォン・レルヒ少佐の話から始める。

1910年(明治44年)、当時日本は日露戦争(1904-05年)が終結したばかりで、大国・ロシアに勝利した小国・日本に、ヨーロッパ諸国は一斉に注目した。その中でオーストリア=ハンガリー帝国は日本の研究を目的に、テオドール・フォン・レルヒ少佐を日本に送り込んだ。

当時日本陸軍では、1902年に起きた八甲田雪中行軍遭難事件で多数の犠牲者を出した事から、雪中での移動手段としてスキー技術の知識を欲しがっていた。そこで来日してきたレルヒ少佐に、陸軍に対するスキー技術指導を願い出た。少佐は申し出に快諾し、新潟県高田(現在の上越市)にある高田歩兵第58連隊の指導にあたる事となった。

当時高田にあった第13師団の団長を務めていた長岡外史中将は、レルヒ少佐が高田に来るという知らせを受け、高田歩兵第58連隊の堀内文治郎連隊長に、スキーの研究を命じた。堀内連隊長は隊内の鶴見大尉を主任とし、スキー専修員を選出した。そして1910年12月25日、鶴見大尉は司令部に出頭した。

その時の模様を「日本スキー発達史」(著者・小川勝次)の中で鶴見氏がこう述懐している(以下、原文のまま抜粋)

(長岡師団長から)「君らはスキーという物を知っているか」と尋ねられた。即座に「知りません」と答えた。すると側の方を指して、「そこにあるのがスキーだ」といわれた。見れば長い狭い板ペラだ。何に使用するものだろうと、明石中尉と顔見合わせていると、師団長は微笑しながら「これは足に穿いて雪の上を滑って歩く道具だ」と説明された。そして「この使用を研究せよ」との命令である。

さらに「明年1月早々にレルヒというオースタリーの少佐が来て、スキー術を教えることになっている。それで、日本には昔からスキーがあって、このようにみんなうまいという事を示し、反対にレルヒに教えてやるくらいにまで研究せよ、使用法はこれに書いてある」と御機嫌極めてななめからずである。
使用法は仏語であって私には判らない。誰かに翻訳してもらいたいと申し出たところ、山口十八参謀を呼ばれてこれを命ぜられた。この翻訳が半紙4,5枚に謄写されたのはそれから2,3日後のことであったが、2人はこれを虎の巻として、明石中尉と2人、毎日師団司令部の庭に通って実地練習を行った。

冷たい雪の上を汗みどろになって、イッチニをやったがなかなか滑るどころではない、うまく歩く事もできない、坂を登ろうとすると後滑りして前にのめってしまう。一週間近くもやってみたがサッパリ要領を得ない。
ここに至りて予は遂に兜を脱いで「師団長に返納しようじゃないか」と明石中尉に相談したが、中尉は年も若いし元気だったので「もう2,3日やろう」ということになったが、帰りはいつも脚が棒のようになって股が上がらない。「大変なことになったなあ」と明石中尉を顧みるのであった。
予には大晦日も元日もなかった。まさに絶体絶命であるが、幾日やっても同じことを繰り返すのみで、なんら上達の見込みはなかった


そして明くる1911年1月12日、レルヒ少佐が高田に到着する日を向えた。
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by wataridori21 | 2009-07-09 05:38