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「第5回諏訪湖1周スケート大会」と「諏訪湖スケート会」の設立(1913年~1915年)

大正2年(1913年)2月、第5回諏訪湖1周スケート大会が開催された。

この大会も5回目ともなると全国的に知名度が上がり、エントリーした選手は200人を超え、関東地区からは「京浜氷滑観覧団体」なるスケート観覧を目的とした観光団体まで訪れる一大イベントに発達。大会当日朝の中央本線上諏訪駅は選手・観客で溢れた。
順位は、1位・井上繁雄(48分55秒)、2位・小林茂(48分56秒)、3位・藤森伊三郎(49分32秒)

大正3年(1914年)10月、諏訪湖スケート会が設立された。本部は下諏訪町、事務所は下諏訪町役場に置かれ、会費は、通常会員(本町民)・50銭、正会員・1円、特別会員3円、名誉会員・5円。会長は土橋実也、副会長は浜孝吉、会員には法学士・農学士・工学士を始め、貴族院議員、日銀・郵船などの幹部、大学講師、海外から赴任の領事・公使ら外国人も多数が名を連ねた。

大正4年(1915年)2月11日、中国の奉天で第1回満州氷上運動会が開催。この大会はその後「全満スケート大会」に発展、この大会は終戦近くまで続いた。

しかしここからスピードスケート界の発達のペースが落ちた。全国各地でスケート会が設立されたが、横の連携があまり進まず、その後急速に発達したフィギュアスケートに、次第に人気が移っていった。そして大正5年(1916年)2月、諏訪湖1周スケート大会は第8回大会をもって終了した。


ちなみに海外でのスピードスケート界では、1893年に開始された世界スピードスケート選手権大会が、1914年のオスロ大会で通算22回目を迎えた。この大会でノルウェーのオスカー・マティーセンが大会3連覇、通算5度目の金メダルを獲得。オスカーは500m・1500m・5000mで当時の世界新記録を樹立した。

この1914年は第1次世界大戦の開戦の年であり、この戦争の影響で翌年の世界スピードスケート選手権大会は中止、終戦後の混乱もあり、大会は1921年まで行われず、1922年2月に復活した。
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by wataridori21 | 2009-09-27 08:07

第2回~第4回諏訪湖1周スケート大会(1910年~1912年)

明治43年(1910年)2月、長野県諏訪にて第2回諏訪湖1周スケート大会が開催された。

この大会は、前回大会の覇者・小口卓襄による大会2連覇という結果となったが、彼の優勝の原動力となったのは「靴スケート」。この時期の各選手が使用していたのは「下駄スケート」「草履スケート」だったのだが、大会直前に来諏してきた京都・西本願寺の大谷光明師が靴スケートを持ち込み、小口が真っ先に使用してみたところ大幅に記録が伸び、他の選手を寄せ付けずの優勝に繋がったのである。ちなみにタイムは、1位・小口(40分45秒)、2位・花岡俊晴(47分0秒)、3位・浜秀一(48分6秒)であった。


明治44年(1911年)2月、第3回諏訪湖1周スケート大会が開催。1位・井上繁雄(40分15秒)、2位・小泉金吾(41分00秒)、3位・武居正次(41分05秒)


明治45年(1912年)2月、第4回諏訪湖1周スケート大会が開催。1位・笠原喜代司(40分02秒)、2位・牛山康興(40分40秒)、3位・小林茂(40分45秒)
この大会では男子だけでなく女子競技も行われ、30名が参加した。諏訪湖の片側半分を使った約2里のコースで、1位・笠原とくゑ(9分35秒)、2位・河西ちづ(10分01秒)、3位・牛山やす(10分45秒)。優勝した笠原は男子優勝者・笠原喜代司の妹で、つまり兄妹による男女アベック優勝である。

明確に残っている記録としては、この大会が、初の女子スピードスケート競技ということになる。

この年に明治天皇が崩御し、大正元年となった。
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by wataridori21 | 2009-09-26 07:17

「第1回諏訪湖1周スケート大会」(1909年)

明治39年(1906年)、長野県下諏訪町の飾り職人河西準乃助が、下駄の底に鉄製の刃をつけた「カネヤマ式下駄スケート」を発明。この下駄スケートは、諏訪湖に来たスケート愛好家の間で急速に広まり、次第にスケートが競技スポーツへと発展していくきっかけとなった。

明治42年(1909年)2月14日、長野県諏訪湖にて、「第1回諏訪湖1周スケート大会」が開催された。

明治38年の中央線開通以来、幾つかのスケート大会が行われてきたが、それらは地元の小中学校生徒によるものが多く、大人対象の大会もあったが実際には運動会の延長のものばかりだった。そこに地元上諏訪町の南信日日新聞社が主催となって行われたのである。
開催されたいきさつは南信日日新聞社の宣伝の為であったが、諏訪湖1周、湖周15.9kmのレースとあって当日は大変な賑わいとなった。ちなみに1位は小口卓襄(下諏訪)、2位は山岡文八(小田井)、3位は林福一(岡谷)。「日本スケート史」(日本スケート史刊行会)に当時の様子が書かれている。

当日下諏訪永滑場には増沢仙之助氏、吉沢永左衛門氏、両係員を初めとし小口町長、植松助役、宮坂豊夫、小口徳一郎、土橋恭一郎、清水市造、午山恭平、鱒沢多能志、溝口尚道、森山平松、小学校教員等出場紅白の幔獏万国旗にて会場を装飾し少年音楽隊を招いて、選手の来着を待ち其の間に下諏訪氷滑会の小運動会を催したり、期して選手の来着をいまやおそしと松時予備選手4,5名通路偵察のため入り来るや、それ来たと待ちかまえたる写真師が、早々之を撮影したるは一愛嬌なりしこれより第1着通過するや、煙火を打ち上げて之を報じ尚其光景を撮影し選手通過の都度楽隊を奏し、万歳を唱えて選手を鼓舞し予定の如く一々通過券を交付したり。
赤十字旗を樹てたる救護所には医師、溝口織衛氏、救護薬を携えて選手の万一に備えたるが、幸いに1人も救護を要する者なかりき、選手全部通過後は数百名の見物全部上諏訪に押しかけたり。


「諏訪湖1周スケート大会」はその後も数年間続いたが、一般大衆が、速さを争うスピードスケートから、曲線を描くフィギュアスケートに履き替えるなどのケースが続出して人気は低迷。大正5年で大会の幕は閉じられた。
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by wataridori21 | 2009-09-16 21:04

日本スケートの歴史の始まり(1891年~1906年)

日本のスケートの発祥は幾つもの諸説があるが、実際に普及するきっかけを作ったのは新渡戸稲造である。

明治24年(1891年)、当時ジョンズ・ホプキンス大学を卒業した農学者の新渡戸稲造が、帰国する際にアメリカ製のスケート3足を持参した。
新渡戸は帰国すると札幌農学校(後の北海道大学)の教授となり、同校の生徒にスケート靴を紹介した。すると生徒達の間ですぐにスケートが広まり、札幌農学校とその周辺の学校の生徒達70名が集まり「札幌スケートクラブ」が設立された。

ちなみにこの翌年の1892年7月23日、オランダのスヘフェニンゲンで国際スケート連盟(ISU)が設立し、1893年にはアムステルダムで第1回世界スピードスケート選手権が開催されている。スケート界では他のスポーツに比べいち早く競技の国際化が進んでいったのである。

明治30年(1897年)、岩手県盛岡市で、アメリカ人宣教師ネロリーが氷上でスケート滑走を披露し、そこから東北各地にスケートが広まっていった。

明治36年(1903年)、宮城県仙台市でイギリス人デビソンと旧仙台二校生徒が、共同で「仙台式下駄スケート」を開発。
同年長野県諏訪地方にて田中稲見兄弟が下駄スケートを紹介すると、諏訪中学の体育教師が冬季授業としてスケート滑走をを行った。

明治38年(1905年)、当時日本の植民地だった満州国でスケートの普及が始まり、隣国ロシアとの交歓競技大会がハルピンで実施された。

そして明治39年(1906年)は日本のスケート界にとって大きな出来事があった。長野県での国鉄(現JR)中央東線の開通である。それまでのスケート普及の流れは、地方各地でそれぞれ少しずつという感じだったが、この中央東線の開通で首都圏のスケート愛好家が、続々と諏訪湖に集まってきたのである。

当時の諏訪湖は、現在と違って冬季は毎年必ずと言って良いほど湖畔の全面が氷結し、スケートをするには最高の条件を備えていた。さらに1911年には中央西線も開通し、これにより名古屋・大阪方面のスケート愛好家も訪れるようになった。

スケート発祥の地こそ北海道であったが、この中央線開通によりスケートのメッカは諏訪湖となっていったのである。
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by wataridori21 | 2009-09-14 07:36