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「燃えて勝つ」と仰木彬氏

プロ野球・オリックスバファローズ元監督・仰木彬氏が亡くなって1年が経った事に気づいた。
もうそんなに経ったのかと、改めて去年を思い出した。

2004年暮れ、オリックスブルーウェーブと近鉄バファローズが合併し「オリックスバファローズ」が誕生した。しかし同じパリーグでライバル球団の2チームが不可解な合併をしただけに、選手達はもちろん、両チームのファンが納得するわけはなく、球団は収拾の付かない混乱に発展しそうな状態になった。
この状態を打破するべく、仰木彬氏が監督に就任することとなった。彼は翌年70歳を迎える高齢であったが、近鉄・オリックス両球団の監督を務めた経歴があり、人望も厚かったからだ。

就任時、仰木氏は「グラウンドで死ねたら本望です」と話していた。僕は一昔前にオリックスファンだった事があり、その時の監督が彼だったので、もちろん気持ちの上では歓迎していたが、同時に「こんな異常な状態のチームに、70歳の体が持ちこたえられるのか」と心配にもなった。

2005年3月のオープン戦。テレビ映像で観た仰木監督はいかにも「お爺さん」の顔だったのだが、シーズン開幕して1ヶ月もすると、表情が日に日に若々しくなってきた。監督業に復帰すると、短時間でこうも顔付きが変わるものなのか、と驚いた。生き生きしているのである。

勝負師としての名采配ぶりも戻ってきた。

前年、パリーグ最弱だった投手陣を巧みに再生させ、1度戦力外となっていたベテラン吉井理人投手の再生や萩原淳・菊地原毅・加藤大輔・大久保勝信らリリーフ陣の再編を短期間で成し遂げた。野手陣では、前政権時代でも見せた「日替わり打線」が見事にはまる「仰木マジック」を連日披露してみせた。
記者団にも「明日はトランプ持ってくるで」とリップサービス、「仰木節」も健在だった。

Aクラスを維持したまま前半戦を折り返し、8月終盤まで奮闘を続けるオリックス。しかしそこからチームの勢いは失速、それまでBクラスに低迷していた西武ライオンズに追い越され4位に交代、そして9月を迎えた。
この年、新たに創立1年目を向えた東北楽天ゴールデンイーグルスとの3連戦。この連戦の結果はプレーオフ進出のカギを握ると言ってよかった。イーグルスファンとなっていた僕はこの試合をテレビで観ていた。約1ヶ月ぶりのオリックスの試合観戦だった。

楽天イーグルス先発は岩隈久志投手(皮肉な事に、前年オリックス入りを拒否し、金銭トレードで同チームに移籍していた投手)。オリックス打線は沈黙し敗退。Aクラス復帰は絶望的となった。
僕が驚いたのは試合の中盤、仰木監督がほとんどベンチに座ったまま動かなかった事だ。それまでなら選手に檄をとばしたり、闘争心むき出しの姿を見せるはずなのに…

彼は動かない。どうしてしまったのか、あなたはそんな人ではなかった。
もっと勝利に貪欲な人だった筈だ。僕は首をかしげるしかなかった。

そしてシーズン終了、チームは4位、そして直後に監督辞任。後任にGM(ゼネラルマネージャー)の中村勝広氏が就任し、その会見で仰木氏は姿を見せた。彼は「体力の限界」を辞任理由に挙げていた。

それから約2ヶ月後の12月15日、僕はテレビ朝日の「報道ステーション」で仰木氏の訃報を知った(仰木氏は前身の「ニュースステーション」で野球評論家として1年間活躍していた事がある)。その後フジテレビの「すぽると」でもこのニュースが流れた。近鉄OBの金村義明氏が「仰木さんに監督就任をお願いしたのは私達ですから…」と毅然とした口調で話していたが、顔は真っ青になっていた。

僕は映像をみながら、頭がぐるぐる回っていた。どう受け止めたらいいのか分からず右往左往するばかりだった。

今振り返って考えてみる。2004年の日本プロ野球に巻き起こった再編問題で一番の犠牲者は仰木彬氏ではなかったか。あの騒ぎさえなければ今でも彼は、あの愛嬌たっぷりの笑顔で元気に評論家活動をしていたのではないか。それを思うと残念でならない。

今日は仰木氏が近鉄の監督時代に自ら書いた「燃えて勝つ 9回裏の逆転人生」(学研出版)を読みながら彼の元気だった頃を思い出していた。

もう仰木さんの采配は観られない。今になってその事を痛感した。
by wataridori21 | 2006-12-17 18:41


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