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日本サッカーの歴史・Jリーグの設立とヤマザキナビスコカップ

1980年代の日本リーグは危機的状況にあった。

観客数は1試合平均で数千人程度(その大半はチームが所属する会社の社員)しか入らない。日本代表チームに至っては、選手レベルがアマチュアの域を出ない為に、国際大会では惨敗の連続が続いていた。

その状況を打開すべく、当時JSL(日本サッカーリーグ)の総務主事を務めていた川淵三郎氏は対策に動いた。同じ時期に「プロ化」の構想も出ていたがまだ具体化までには至っておらず、川淵氏はプロ化に動く前に、JSLとしてリーグを活性化させる試みを実行した。
1989年2月、JSLの後期開幕戦を前に、関東のサッカーに関するグループや指導者に、試合観戦を呼びかけたところ、当日は雨天だったにもかかわらず3万人近くもの観客が国立競技場に来場した。当時の日本リーグにおいては観客動員数が史上最高を記録したのだ。

その時の感想を、川淵氏はこう語った(以下、「まるごとJリーグ完全版・栄光の記録15年」より、原文のまま抜粋)、

「当時は芝が緑じゃなくて枯れた土色で、その上にはお客さんが食べた弁当の紙くずなんかが舞っていて、まるで場末のような雰囲気。これは、何か違うなと。こんなにお客さんが入って、試合自体も悪くない。でもこんな環境でみんなが感動するサッカーの試合を本当にやっていけるのかと。
それまで僕は、選手が悪い、チームが悪い、監督が悪い、なんで多くの人を感動させるようなプレーを見せられないんだって、そこにばかり怒りを向けていたんですが、そのときにこれは違うぞと思った。やはり常に緑豊かな芝生のグラウンドとスタジアムいっぱいのお客さん、そういう環境が整って初めて選手は頑張るぞっていう気持ちになるんじゃないか、そんな環境を選手のために整えてやることがまず大事だなと、ね。よし、やろう、失うものは何もないんだからと腹を決めましたよ。それが、僕の中で1つの大きなターニングポイントでしたね」


その後、川淵氏は次々をプロリーグ設立へと動く。
1990年8月、日本サッカー協会(JFA)の中にプロ化検討委員会の立ち上げ。
1991年3月、「プロリーグ設立準備室」を設置。
1991年7月、プロリーグの名称を「Jリーグ」と発表。
1991年11月、「社団法人・日本プロサッカーリーグ」を設立、川淵氏が初代チェアマン。
1992年5月、Jリーグ・プレスプレビュー開催。10クラブのユニフォームの発表。

そして1992年9月にJリーグのプレ大会として「第1回ヤマザキナビスコカップ」が開催、これがJリーグでは初の公式試合である。各チーム総当りで試合を行い、上位4チームで決勝トーナメントを戦い、決勝戦で勝利したチームが優勝チームとなる。

出場チームは鹿島アントラーズ、浦和レッドダイヤモンズ、ジェフユナイテッド市原、ヴェルディ川崎、横浜マリノス、横浜フリューゲルス、清水エスパルス、名古屋グランパスエイト、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島の10チーム。これらは翌年のJリーグ元年の参加チームでもある。

決勝はヴェルディ川崎と清水エスパルスで争われた。試合は一進一退の攻防の末、川崎の三浦知良選手のシュートが決まり1-0でヴェルディ川崎が勝利し、ナビスコカップ初代王者となった。
何よりも、この大会で使用された国立競技場は収容人員が50,339人あり、ここで行われた決勝では観客が満員になった事で、翌年のJリーグ開幕に大きな弾みが出来たことは間違いない。

そして1993年5月15日、遂にJリーグが開幕する。
by wataridori21 | 2007-07-07 21:58


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