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「近畿蹴球大会」と「東海蹴球大会」の開催(1918年)

一方、関西では1917年に奈良師範の主催で「近畿蹴球大会」が開催された。
この「近畿蹴球大会」では奈良師範・明星商業・御影師範・京都師範の4校が出場し、トーナメント戦の結果、明星商業が優勝。

翌1918年1月12・13日に、大阪毎日新聞社の主催で「日本フートボール大会」が開催され、「近畿蹴球大会」と同じ奈良師範・明星商業・御影師範・京都師範の他に関西学院高等部・神戸一中・堺中学・姫路師範の計8校が出場し、御影師範が優勝した。
この大会は「ア式蹴球」「ラ式蹴球」の2部門で構成、「ラ式」とはラグビーの試合の事で、当時関西ではラグビーも盛んだった為、同時に行われたのである。
ちなみに「日本サッカーのあゆみ」(日本蹴球協会編、講談社出版)によると、試合のラインズマンを野球担当の記者が行った為、オフサイドなしのルールだったという。

さらに東海地方でも1918年2月17日に、新愛知新聞社の主催で「東海蹴球大会」が開催され、第八高等学校・明倫中学・愛知第一師範・愛知三中の4校が出場、第八高等学校が優勝を収めた。この大会は現在の名古屋市鶴舞公園で行われている。


このように1917・1918年と、日本各地で「蹴球大会」が開催されたが、それぞれ主催者は全く違い、特別連携していたわけではなかった。
しかしこれらの大会を観た海外の通信社の特派員は、さも日本国内では全国レベルでサッカー競技が普及していると勘違いをしたという。

「日本サッカーのあゆみ」には当時をこのように書いている(以下、原文のまま抜粋)、

1918(大正7)年の1月と2月に、関東・中京・関西の3地域で盛んに蹴球大会が行われたということは、芝浦の極東大会の影響とはいえ、まったくはじめてのことだった。それはそれぞれ別個に企画され、実施されたのであったが、外国から来ている通信社の特派員の目には、全日本選手権の地方予選がときを同じくして行われたと映ったようである。しかもそれが日本にナショナル・アソシエーションができて、その行事の一環として行われたように、誤った報道となってロンドンに伝わったのである。
ロンドンにあるフットボールの総本家"The Football Association"は非常に喜んで、日本の蹴球がいよいよ盛んになって欲しいとの願いを込め、優勝チームの為にと大銀杯を送ってくれたのだった。1919(大正8)年3月のことである。


もちろん当時の日本にはサッカー協会はなく、全日本選手権も存在していなかった為、関係者は対策に乗り出し、「大日本蹴球協会」の設立や、「ア式蹴球全国優勝大会」(後の天皇杯・全日本サッカー選手権大会)の開催を実現することになる。
by wataridori21 | 2007-09-12 18:38


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