極東選手権の終了とベルリン五輪への参加(1936年)

極東選手権は1934年の第10回大会を最後に終了した。

第10回大会終了後に開かれた極東体育協会の会議で、再び日本が満州国の大会参加を要請した為に会議は混乱し中国が退席、その為極東体育協会自体が解散してしまった。
当時の日本は、1932年5月15日に犬養毅首相が海軍将校らに暗殺され(5・15事件)、1933年には満州国成立の問題がもとで国際連盟を脱退するなど、混迷を深めていた。この世情が極東選手権の終了に繋がってしまったわけだが、もし世情がもっと良くて極東選手権が存続していたなら、日本や東アジアのサッカー界の歴史は、その後大きく変わっていたかも知れない。

極東選手権の終了により、日本代表チームの活躍の場がなくなってしまった。その為、大日本蹴球協会(JFA)は、より大舞台での活躍を、と今度はオリンピック出場を目指すこととなった。

これより2年前の1932年にアメリカで開催されたロサンゼルスオリンピックではサッカー競技は開催されなかった。これは開催地アメリカではサッカーが盛んではなかった事もあるが、本来アマチュアの祭典である五輪への出場チームにプロが参加出来るか出来ないかで、FIFA(国際サッカー連盟)とIOC(国際オリンピック連盟)との間で議論となり、結局この時はサッカー競技開催を見送ることになったからである。

そして今回(1936年)のベルリンオリンピックではサッカー競技が行われることが決まった為、JFAは参加を決めた。
日本代表チームは、当時国内最強を誇っていた早稲田大学蹴球部を主体に構成されることとなり、そこに1935年の全日本総合蹴球選手権大会(現在の天皇杯・全日本サッカー選手権大会。この時は朝鮮のサッカーチームも参加出来た)で優勝した京城蹴球団などから2人の朝鮮人選手、さらに数人の補強選手を加えて結成された。

そして1936年7月、ベルリン五輪を迎えた。
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by wataridori21 | 2007-11-06 00:21


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