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ベルリン五輪開催と3バックシステムの確立

ベルリン五輪は当時の世情が大きく関係していた大会だった。

当時のドイツは、20世紀でもっとも有名な独裁政権であるナチス・ドイツが実権を握っていた。第1次世界大戦後の不況を抜け出し、世界初の高速道路の建設やフォルクスワーゲン(国民車)の開発と大規模な経済政策が打ち出され、ドイツ国民の失業率が大幅に改善、国内経済は活況を呈していた(実際はいろいろ複雑な裏事情があるが、このブログの趣旨から離れるのでここでは書かない)。

そして国の威信をかけて、1936年に開催されたのがベルリン五輪だった。

ユダヤ人への迫害、秘密警察による言論統制など、恐怖政治の典型といえる政権下での大会だったが、初の聖火リレーやテレビ中継、記録映画(この映画はその後、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞している)など、その後のオリンピックの定番となる企画を作り出した、今にしてみれば五輪の歴史上、多くの実績を作り出している。ちなみに競泳では、あの「前畑ガンバレ!」の前畑秀子が日本人女性初の金メダルを獲得した、日本で馴染みのある大会でもあった。

さて、サッカー日本代表チームに話は戻る。

チームはドイツに入国後、本大会前に地元ドイツのクラブチームと練習試合をおこなっている。3試合がおこなわれ、ワッカー戦は1-3、ミネルヴァ戦は3-4、ブラウヴァイス戦は2-3で3連敗で終わった。結果からみると惨敗ではあったが、この3連戦では思わぬ収穫があった。3バックシステムの確立である。
当時のサッカーのルールで、1925年にオフサイドラインの改定があったのだが、前年までオフサイドラインは「GKから数えて3人目」となっていたのをこの年から「GKから数えて2人目」となった。その為、ディフェンスラインをどうするか?オフサイドトラップの扱いは?と、各国のサッカーチームは新たにシステムを再構築する必要に迫られた。

日本チームも、1926年にルール改定を知り、それから10年間試行錯誤を続けたが、五輪前まで2バックシステムのまま試合を重ねてきた。そして本大会前の練習試合で相手チームの3バックシステムを取っているのを見た。相手のCF(センターフォワード)をマークする為に、CH(センターハーフ)がバックラインに組み込まれる形であったという。

当時五輪でフルバックとして参加した堀江忠男はこう話す(以下、激動の昭和スポーツ史・サッカー編、ベースボールマガジン社発行、から抜粋)。

「2フルバックでやっていて、何か釈然としないものがありました。ところが、ドイツでの練習ゲームで、相手のシステムを見たとき、自分たちが感じていて答えの出なかったものが、わかったんです。『ああ、これが、そうなのか』と。私たちはすぐに日本代表にも3FBを採用しました。CHをやっていた種田(おいた)をバックラインまで引かせたわけですが、彼は無難にその役目を果たしました」

こうして、まさに「タナボタ」から「3バックシステム」を身につけた日本は8月4日、当時優勝候補に挙げられていたスウェーデンを相手に、見事な大金星を勝ち取ったのである。
by wataridori21 | 2007-11-08 00:00


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