イズリントン・コリンシャンズの来日

1937年、7月に盧溝橋事件が起きると、8月に上海事件、華北派兵、そして12月に南京占領と、次第に日本政府の軍国主義化が顕著になっていった。

その中で、大日本蹴球協会は翌1938年4月に、イングランドのチームで当時世界一周の大遠征を行っていたイズリントン・コリンシャンズを日本に迎え入れて親善試合を行った。

イズリントン・コリンシャンズは、当時では初のフットボールチームによる世界一周の大遠征を企画し、ロンドンを出発して、オランダ・スイス・イタリア・エジプト・インド・マレー・香港・フィリピン、そして上海と渡ってきた。そして同チームは日本にも来日の希望を申し入れてきたのである。

来日希望に対し、蹴球協会とともに厚生省も動いた。

実は厚生省は、この年(1938年1月1日)に内務省から独立する形で設立されている。そして、同省に設置された体力局長の初代局長に就任したのが、大日本蹴球協会設立の際に初代理事を務めた武井群嗣であった。
武井局長は、蹴球協会の深尾隆太郎会長と連携してイズリントン・コリンシャンズの受け入れを実現させた。当時日英間では、満州事変などで険悪な関係にあり、前年の盧溝橋事件や南京問題で、さらに関係は冷え込んでいただけに、この来日受け入れは異例中の異例といっていいだろう。
この時にはまだ1940年開催予定だった東京五輪が返上される前で、五輪開催予定の2年前ということもあり、イズリントン・コリンシャンズは来日前に、協会に書信を送った(以下、「日本サッカーの歩み」(日本蹴球協会発行)から抜粋)、

「私どもは、スポーツには国境はない、政治的問題は混入すべきものではない、と確信しております。
われわれはスポーツマン精神により誠意を披露し、信念を吐露して親善の実績をあげたいと熱望しているものであります。したがって、われわれは代表チームの選に入ることができたならば、オリンピック東京大会には欣然と馳せ参ずることを誓います。旅行日程が変わって美しい日本魂に触れ得る時間は少ないのでありますが、この間において、我らの宿願とする1試合をご予定下さい」


1938年4月7日、東京・明治神宮外苑競技場にて、日本代表チームとイズリントン・コリンシャンズの試合が開催された。
日本代表は、監督は竹腰重丸が務め、GK津田幸男、FB吉田義臣・菊池宏、HB森孝雄・種田孝一・金容植、FW篠崎三郎・播磨幸太郎・二宮洋一・加茂健・加茂正午のメンバーで望んだ。

試合結果は日本代表チームのワンサイドゲームだった。39分に二宮洋一が先制、47分に加茂正午、58分に加茂健、88分に再び加茂正午が決め、4-0で終わった。

もちろん相手チームは母国を離れて5ヶ月の長期遠征を経ての来日で体力の消耗は十分に予想されたし、実力差でこのスコアになったのかは判断できないが、少なくとも本場イングランドのチームを相手に勝利した事は大変な偉業であったことは間違いない。

しかし、この数ヵ月後、東京五輪が戦争の影響で返上されてしまい、その後、1945年の太平洋戦争終了まで、東アジア以外のサッカーチームと対戦する事は無くなった。
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by wataridori21 | 2007-11-10 21:21


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