終戦と東西対抗戦(1946年)、「日本蹴球協会」の設立(1947年)

1945年に太平洋戦争が終結し、日本は連合国軍による占領時代に入った。

各方面に散っていった日本兵は、終戦を聞くと、続々と日本に復員してきた。その中にはもちろん元サッカー選手も多く混じっていた。

「激動の昭和スポーツ史・サッカー編」(日本蹴球協会編)では、戦前・戦後の名選手・二宮洋一(後の日本代表監督)が当時をこう振り返っている(以下、原文のまま抜粋)、

「戦争が終り、神戸の実家に戻ったら、オフクロが私のスパイクを出してくれました。戦争中、油袋に包んで土の中に保存してくれていたんです。そこで、関西にいた仲間達に、試合をやろうと呼びかけました。西宮の芝生のサッカー場をただで借りたんです。そうしたら、帰還してる連中はみんな集まって来ました。それもスパイクを持ってです」

翌1946年1月23日には、戦時中に各種競技団体を統合して設立していた財団法人・大日本体育会を、各種競技の団体に再び独立させた。そして、もともと「大日本蹴球協会」の名だった協会を「日本蹴球協会」と名称を新たにして再出発したのである。しかしこの年はまだまだ世情は敗戦後の混乱期だったので、協会は、関東蹴球協会と関西蹴球協会の2つに分けて設立させた。そして全体を統括する3代目の協会長に高橋隆太郎(後のプロ野球・高橋ユニオンズ(1954~56年)のオーナー)が就任した、1947年の事である。

同じ1946年1月30日には、西宮で、おそらく戦後初のサッカー試合、神戸一中と明星商業が行われ、5-0で神戸一中が勝利している。

さらに同1946年4月3日には明治神宮外苑野球場(この年はナイルキニック・スタジアムと呼ばれていた)にて、東西対抗試合が開催された。東西対抗は戦前からある大会で、関東・関西の代表が対戦して優勝チームを決める大会で、この年は2-0で東軍が勝利している。

この東西対抗戦では、当時の天皇陛下も競技場に訪れ、ロイヤルボックスから熱心に観戦されていたという。そして試合が終わると、陛下は階段からグラウンドに下りて、選手達に向ってこう話したという(以下、「日本サッカーの歩み」(日本蹴球協会編)から抜粋)、

本日はよい試合を見せてもらいありがとう。戦後日本の復興はスポーツ精神の振興によるもの多大と思う。どうか、しっかりやって欲しい。今日は有難う」

その時に居合わせた選手達は、それまで敗戦時の玉音放送でしかお聞きした事のない天皇陛下のお言葉だったため、選手全員とても感激したという。

そしてこの後、全日本選手権の復活や、インドで誕生したアジア大会への参加と、次第に本格的なスポーツ大会の復興が続くことになる
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by wataridori21 | 2007-11-15 22:26


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