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W杯メキシコ大会・予選(1985年)

1985年、続投が決まった森孝慈監督の次の目標は翌1986年のW杯メキシコ大会であった。この大会の1次予選は2月に行われる事となっていた。

1月、2月とフランスのボルドー、スイスのFCチューリヒと続けて試合を行った。

1月12日 ボルドー(フランス)戦→1-2
1月15日 ボルドー(フランス)戦→3-0
2月17日 FCチューリヒ(スイス)戦→0-0

そしてシンガポールにてW杯メキシコ大会・1次予選が開催された。今回からアジア枠2つは東地区・西地区となり、中東の国々とは対戦しなくて良い事になった。
1次予選はホーム&アウェー方式で2回戦総当り、1位のチームが2次予選に進むことになっていた。結果は次の通りで、当時はまだ強敵だった北朝鮮に、2試合とも負けなかった事は大きかった。

2月23日 シンガポール戦→3-1
3月21日 北朝鮮戦→1-0
4月30日 北朝鮮戦→0-0
5月18日 シンガポール戦→5-0

5月には、ジャパンカップから名称変更された第8回キリンカップが開催された。日本代表にとってこの大会は、8月の2次予選の前だけに期待されたが、結果は次の通り、

5月26日 ウェストハム・ユナイテッド(イングランド)戦→2-2
5月30日 読売クラブ戦→0-1
6月02日 サントスFC(ブラジル)戦→1-4
6月04日 マレーシア戦→3-0

8月のアジア予選・2次予選では、香港と対戦した。終わってみれば3-0と相手を圧倒し9月のアウェー戦でも2-1で勝利。木村和司・原博実・水沼貴史らの活躍が光り、いよいよ最終予選に駒を進めることとなった。

8月11日 香港戦→3-0
9月22日 香港戦→2-1

そして10月のアジア予選・最終予選が開始された。これに勝利すれば、日本代表チームは悲願のW杯出場が決まる。
日本代表はこの時、MF柱谷幸一を警告で欠場で欠く事となった為、新たに戸塚哲也・与那城ジョージを加入させて望んだ。しかし結局またも韓国に敗退してしまった。

10月26日 韓国戦→1-2
11月03日 韓国戦→0-1

韓国は1983年にプロリーグを発足させており、1988年にはソウル五輪が控えている事から、徹底的に選手強化を進めていたのである。ここ数年で韓国は、アマチュアチームの日本代表では敵わない相手となっていた。

当時の韓国戦終了後、森孝慈は日本サッカー協会に「プロリーグ創設」の必要性について要望した。その内容については「FAIR PLAYの記憶」で、森孝慈氏がこう語っている。

「技術的な事とか、戦術的な事とかは、そんなに遜色はない。ただ、(日本の選手達に)『絶対に勝つぞ』という勝負に対する執念が、韓国の選手に比べて足りないぞ、と。

だからそこが、どうやったら解決できるか?と考えたら、やっぱりここはプロリーグを作って、日常的に勝負にこだわった試合を行えば、韓国と対等に戦える!という事を強く感じたので、『プロ化という事を、いつになるか判らないけど、必要ですね』という事は、(協会に)言ったんですけどね。


しかしこの時点では「プロ化」に関しての具体的な進展はなかった。

大会終了後、森孝慈監督は辞任、後任に石井義信監督が選出された。
by wataridori21 | 2007-12-26 22:25


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