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2007年 12月 09日 ( 8 )

岡野俊一郎(元日本代表選手・コーチ・監督、元日本サッカー協会会長)

1964年の東京五輪、1968年のメキシコ五輪で日本代表コーチを務めたのは、岡野俊一郎。

1949年、東京大学に入学し、同大学サッカー部に入部(当時の東大サッカー部は戦前から名門と謳われていた)。 しかし当時のサッカー部は弱く、彼が入部1年目は関東大学リーグで創部以来初めての最下位に落ち込んだ。

1952年、同大学3年となっていた彼は中心選手として活躍し、翌1953年1月に開催された全日本大学サッカー選手権大会で優勝。関東大学リーグ最下位チームが、3年後には全国優勝チームまで昇りつめたのである。
同年8月、4年で東大サッカー部キャプテンとなっていた彼は、西ドイツ・ドルトムントで開催された国際スポーツ週間(後のユニバーシアード)に日本代表として出場。

1961年、AFCユース選手権で代表監督を歴任。同年、西ドイツにコーチ留学を経験。

1963年、長沼健が日本代表監督に就任すると、同時に彼も日本代表コーチに就任。
1964年、東京五輪でベスト8。
1968年、メキシコ五輪で3位となり、銅メダルを獲得。
1970年、日本代表監督に就任。
1971年、日本代表監督を退任。
1974年、日本蹴球協会(この年に財団法人・日本サッカー協会に名称変更)の理事に就任。
1987年、日本サッカー協会副会長に就任。
1998年、日本サッカー協会会長に就任。
2002年、日本サッカー協会名誉会長に就任。
2005年、日本サッカー殿堂入り。

選手時代から、長沼健とのコンビは有名。
1960年代、財政難だった日本蹴球協会の中で、長沼監督・岡野コーチによる二人三脚で日本代表チームを切り盛りし、岡野コーチは代表チームの海外遠征に当たっての交渉の多くを、自分でこなしていた。
メキシコ五輪での、対戦相手の情報収集での奔走も有名で、語学の堪能さからチームの通訳を一手に引き受けたり、東大時代の人脈の幅広さを生かしての活躍の数々など、戦後の日本サッカーの歴史への貢献度は絶大である。

更に1990年代はIOC(国際オリンピック委員会)の委員を務め、1998年の長野五輪の開催でも活躍した経歴を持ち、2002年のW杯日韓大会では、日本サッカー協会会長の重責を果たした。

選手として国際Aマッチは2試合に出場。
監督としての通算成績は18試合で11勝2分5敗。

ちなみに1968年のメキシコ五輪で、彼は「19番目の選手」として銅メダルを獲得している。
当時のJOC(日本オリンピック委員会)が経費節減の為に、チーム選手を20人から18人に減らした。それを知ったメキシコサッカー協会のアントニオ・ロッカ(後のメキシコ代表監督)が、「18人はキツイぞ。お前もまだやれるだろ、俺が登録しといてやるよ」と、JOCに内緒で19番目の選手として登録をしておいた。その為、試合には出場していなかったが、表彰台で選手として銅メダルを受け取る事となったのである。
by wataridori21 | 2007-12-09 23:19

長沼健(元日本代表選手・監督、元日本サッカー協会会長)

東京五輪、メキシコ五輪でサッカー日本代表監督を務めたのは長沼健。

彼は広島県出身で、広島高等師範付属中学時代の1947年、第26回全国中学校サッカー選手権で優勝を決めるなど、当時の世情からすれば、かなり早くからサッカー選手として頭角を現した経歴を持つ。

1949年に関西学院大学に入学、当時30人しか部員がいなかったサッカー部に入部、翌1950年から3年連続で関西学生リーグ制覇に貢献。

1953年に同大学を卒業後、両親の経営する電気屋を継ぐために中央大学工学部に改めて入学(3年として編入)。同年、国際学生スポーツ週間(後のユニバーシアード大会)の日本代表メンバーに選ばれ、ヨーロッパ遠征に参加。翌1954年には主将に就任し、100人いる部員の試合のメンバー表や下級生の私生活の面倒を見たりと、サッカー部のマネジメントを一手に引き受けた。

1955年に実業団チームの古川電工に入社。5年目の1959年に選手兼監督に就任し、1960年には天皇杯で優勝を飾った(実業団チームが天皇杯で優勝したのは初の快挙だった)。

1963年、日本代表コーチのデットマール・クラマーの推薦で、32歳にしてサッカー日本代表監督に就任。コーチにはその後も盟友となる岡野俊一郎が就任。

1964年、東京五輪でベスト8に進出。
1966年、現役引退。
1968年、メキシコ五輪で3位となり、銅メダルを獲得。
1969年、日本代表監督を岡野俊一郎に譲り、退任。
1972年、再び日本代表監督に復帰、同年に日本蹴球協会の技術委員長に就任。
1974年、日本蹴球協会(同年、財団法人日本サッカー協会に名称変更)の理事に就任。
1976年、日本代表監督を退任し、日本サッカー協会専務理事に就任
1987年、日本サッカー協会副会長に就任。
1994年、日本サッカー協会会長に就任。
1998年、日本サッカー協会名誉会長に就任。
2002年、日本サッカー協会最高顧問に就任。
2005年、日本サッカー殿堂入り。

戦後の日本サッカー界に於いて、指折りの功労者であり、彼抜きには日本サッカーを語れないと言っていい大きな存在。
by wataridori21 | 2007-12-09 22:35

メキシコ五輪におけるデットマール・クラマーの回想と「FIFA FAIRPLAY賞」の受賞

「FAIRPLAYの記憶」で、メキシコ五輪で日本代表がメキシコに勝利した直後の事を、こう話している。

「試合後、疲れがでたと同時にホッとしたんでしょう、選手達は部屋に着くなり、次々と倒れてしまったんです、みんな、倒れてしまったんです。

私はビックリして、平木に電話を掛けました。私は電話口で「パワー、味噌汁!」と叫びました。熱い味噌汁です、分かりますか?血液循環が低下しているんです。

私は選手を毛布で包んで体温が下がらないようにしました。平木はそこで味噌汁を作りました。私達は選手の口に味噌汁を入れてあげました。

彼らは完全に疲労困憊していました。
ドイツではこういうことを「血を全部、出し尽くす」と言います。彼らは本当に、血を全部出し尽くしていました。彼らは助けを必要としていました、彼らは力を全部出し尽くしました。

話していると、涙が出てきます。私はそれまで戦争でしか、そんな事を体験した事はありませんでした。こんな事はスポーツの世界では、めったに起こる事ではありません。

サッカーの選手11人が、完全に疲労困憊して、倒れてしまったのです。あんな事、1度きりの経験でした。

私は何度も優勝していますが、あの経験は、忘れる事が出来ません」



大会終了後、FIFA(国際サッカー連盟)から「FIFA FAIRPLAY賞」を受賞した。日本代表チームは、大会を通して反則がとても少なく、審判への抗議も殆ど無かった為、特別にFIFAが表彰したのである。

この受賞について、長沼健氏は「FAIRPLAYの記憶」で、こう語っている。

「フェアプレー、フェアプレーとは1言も言ってはいないけれど、レフリーにイチャモンだけはつけるな、と。間違っても。

それは簡単な事でね、『通じねえんだ』と。

ソ連のレフリーが来る。ロシア語でね、『何であれがオフサイドですか』って言えるんなら言って良いと。言えねえだろ、と。
訳の分からん、人相の悪いのが来てね、訳の分からん言葉でわめいて、相手がどう思うって、『このクソッタレ野郎』って思うだろう。思ったらその後の日本のプレーに対する判定が、絶対に辛くなる、そう出来てるんだ、人間ってのは。

判定が下ったら、黙って自分のポジションに移動しろ。腹の中じゃ『この野郎』と思って良いから、言葉に出すんじゃないぞ、と。そりゃやかましく言ったですよ。

それを言ったらみんな、よう守ったんですよ。誰か言いそうになったら『言うなー!』ってのがいてね。
で、後で聞いたんだけど、審判団の評判が極めて良かったと。審判だって人間ですから『失敗したかな?』って思う瞬間だってある、ただ『クレームが来る』って身構えますよって、でも何も来ないと。

みて見ろ、日本の側に、目に見えて甘い判定が多かった。人間ってそんなもんですよ。いちいち文句言ってきたら、辛くなるんですよ。

それが今回のFAIRPLAY賞」に繋がったんでしょう。
嬉しかったですよ。そんな賞があるなんて知らなかったけど(笑)」


このメキシコ五輪での銅メダルは、日本サッカー界において永久に語り継がれる出来事と言って間違いない。
by wataridori21 | 2007-12-09 14:45

メキシコ五輪・本戦(1968年)とサッカー日本代表チームの銅メダル獲得

1968年10月、メキシコ五輪が開幕した。

予選リーグの前、日本代表チームのメンバーは次の通り、

監督は長沼健、コーチは岡野俊一郎。
GKは横山謙三、浜崎昌弘
FBは鎌田光夫、宮本征勝、鈴木良三、片山洋、富沢清司、山口芳忠
HBは八重樫茂生、宮本輝紀、小城得達、森孝慈、湯口栄蔵
FWは渡辺正、杉山隆三、松本育夫、桑原楽之、釜本邦茂

予選リーグB組での日本の組み合わせは、ナイジェリア・ブラジル・スペインで行われた。
組み合わせが決まるとコーチの岡野俊一郎は、沢山の知り合いに連絡を取り、対戦相手全ての情報を集めて、チームの特徴から選手の個性まですっかり分析して備えを万全にした。

そしてリーグ戦が始まり、結果は次の通りとなった。

10月14日 ナイジェリア戦→3-1
10月16日 ブラジル戦→1-1
10月18日 スペイン戦→0-0

第3戦のスペイン戦は0-0となっているが、これはわざと点を入れなかったという。実はこの試合前、予選A組で1位通過がフランス、2位通過がメキシコと決まっていた。日本がもしスペインに勝つとB組1位通過となり2位の地元メキシコと当たってしまう。地元の大勢の声援を受けたチームよりもフランスと対戦したいと考え、0-0で勝ち点を抑えて2位通過としたのである。

準々決勝の相手はフランス。10月20日に行われた試合では3-1で勝利、ここでも釜本は2ゴールを挙げ、彼の名声は次第に高くなっていった。

準決勝の相手はハンガリー。10月22日に行われたが、序盤こそ0-0で進んだが、30分に先制ゴールを決められると、その後は一方的な展開となり0-5で大敗となった。

これにより決勝進出は出来なかったが、まだ3位決定戦が残っていた。相手は地元メキシコで、出来れば対戦したくない相手ではあったが、いざ試合が始まると日本ペースでゲームは進み、17分・39分に釜本が続けてゴールを決め、2-0で勝利。

日本代表は、前回の東京五輪ベスト8から4年後、見事に3位となり、銅メダルを獲得した。

「FAIRPLAYの記憶」(フジテレビ製作)で、当時代表監督を務めていた長沼健氏はこう話している。

「(釜本の活躍について)彼は絶頂期だったんじゃないですか?だから彼が得点王になっちゃったり、『杉山・釜本・ゴーン』というのがパターンになって、それを相手も知ってるから防ごうとするけど、それを上回っていましたね。
それから宮本輝とか、ハーフの小城とかの連中も、敵と並んだら杉山に深いパスを出しておいたら絶対に勝つ、という自信があるから…ピンポイント、小城らは出来たから。そんなこんなで、計算が出来た。

クラマーさん仕込みの連中が4年間、体力が落ちないままキャリアを加えていった事が、強みですよね。そのかわり、後進の育成に手が届かなかったツケっていうのは、後になって出てくるんですよね」

by wataridori21 | 2007-12-09 14:01

メキシコ五輪直前の海外遠征(1968年)

メキシコ五輪・本戦への出場が決まった後も、日本代表は数多くの試合を重ねていった。

1967年12月にはソ連のCSKAモスクワと、チェコスロバキアのデュクラ・プラハとの三国対抗戦が開催され2分2敗。スコアは次の通り、

12月02日 CSKA戦→2-2
12月07日 CSKA戦→0-2
12月13日 デュクラ・プラハ戦→1-1
12月17日 デュクラ・プラハ戦→0-2

開けて1968年1月17日、来日した西ドイツ・アマチュア代表と対戦して0-1で敗退。

その後も数多くの国際大会をこなした。スコアは次の通り、

3月26日 メキシコ五輪代表戦→0-4
3月30日 オーストラリア戦→2-2
3月31日 オーストラリア戦→1-3
4月04日 オーストラリア戦→3-1
4月06日 香港リーグ選抜→2-0

5月にはイングランドのアーセナルが来日、この2試合は開始前から大変な話題を集め、東京国立競技場では入場口で混乱して柵が倒れてしまい、入場券を持たないファンが数多く殺到する騒ぎに発展した。

5月23日 アーセナル戦→1-3
5月26日 アーセナル戦→0-1
5月29日 アーセナル戦→0-4

その後日本代表は海外遠征を行い、次の通りの戦績を残した。

7月18日 ロシア共和国選抜戦→0-2
7月21日 ゼニット(ソ連)戦→0-6
7月24日 チェルノモレツ(ソ連)戦→1-2
7月27日 モルドバ(ソ連)戦→2-3
8月01日 チェコスロバキア五輪代表戦→1-3
8月03日 リアス・ヤブロネッツ(チェコ)戦→1-3
8月07日 ゴー・アヘッド(オランダ)戦→2-5

そして西ドイツでは、ブンデスリーガ所属のプロチームであるボルシアMGとの対戦も行われた。同チームはこの年3位となっており、3点差での敗退は止むをえないといえる。

8月13日 ボルシアMG(西ドイツ)戦→1-4
8月15日 レクリングハウゼン選抜(西ドイツ)戦→6-0

そして日本に帰国後の9月13日、日本選抜チームを試合を行い4-3で勝利したあと、五輪開催地・メキシコに飛んだ。

そして10月14日、いよいよメキシコ五輪での第1戦を迎えた。
by wataridori21 | 2007-12-09 12:53

メキシコ五輪・アジア予選(1967年)

1976年9月、メキシコ五輪・アジア予選が開幕した。

このアジア予選は、何と、すべての試合が日本国内で開催された。
これは日本蹴球協会が、この五輪出場権だけは何としても取る、と参加国すべての旅費・滞在費を協会が自腹で負担するという方法で実現したのである。当時の協会は、この大会にすべてを掛けて臨んでいたのだ。

予選の結果は次の通り、とにかく当時の日本の強さが際立った大会だった。

9月27日 フィリピン戦→15-0
9月30日 台湾戦→4-0
10月3日 レバノン戦→3-1
10月7日 韓国戦→3-3
10月10日南ベトナム戦→1-0

フィリピン戦では釜本邦茂が6得点、宮本輝紀が4得点の大活躍を見せ、続く台湾戦でも釜本が3得点で2試合連続ハットトリック達成。
しかしレバノン戦でも快勝したが杉山隆一が左肩脱臼の大怪我を負ってしまった。攻撃の核となる杉山の故障は打撃だったが、韓国戦で当の杉山は痛め止めの注射を打ち出場、3-3で辛くも引き分けに持ち込んだ。

この結果最終戦を前に、予選通過は日本と韓国の2チームに絞られた。
日本と韓国は勝ち点は同じとなっていたが、得失点差で日本が大きくリードしており、たとえ両国が勝利しても韓国は最終戦であるフィリピン戦で大量点を取らなければ日本が予選通過が決まる。その為、最終戦前に韓国のコーチが「フィリピン戦で18点を取って見せる。そして我々が、五輪への切符を手に入れる」と豪語した。その時フィリピンはリーグ戦で全敗し、最下位となっていた。

しかし10月9日の韓国-フィリピン戦では5-0となり、日本は10日の最終戦で勝てば、予選通過が決まる事となった。試合中、フィリピンチームの選手達は自軍のペナルティエリアのライン上に陣取って徹底的にゴールを守る戦法を取ったのである。
当時日本代表コーチを務めていた岡野俊一郎は、9日の韓国-フィリピン戦の試合は、代表チーム合宿所に篭って、観に行かないようにしていた。彼は「韓国は、18点は取るだろう」と予想していたからだ。そこに前半終了後、韓国はその時点でまだ2点しか入れていないという知らせを電話で受け、あわてて試合会場に走っていった。

その時の事を、「FAIRPLAYの記憶」(フジテレビ製作)で、当時代表チームのコーチだった岡野俊一郎氏がこう語っている。

「観にいってよかったですね、一生、2度と見られないサッカーを観ましたよ。フィリピンは90分間、絶対攻めないサッカーをやったんですね。90分間11人がペナルティエリアから出て行かないんですよ。ボールをクリアする、でも選手は誰も取りにいかない。

韓国の選手10人が行く、体に当たる、顔に当たる、入らない。18点入れると言ったのに取ったのは5点なんですよ。嬉しかったですね。これで南ベトナムに勝ちゃいいんですから。

僕はすっ飛んでいってね、フィリピンチームの更衣室に。コーチがパチェコと言うんです、息子がチームのキャプテンです。
『おい、どうしてああいう作戦をやったんだ?』って、そしたらパチェコが言ったの、今でも覚えてますよ。

『お前、昨日のチャン(韓国のコーチ)の発言、知っているか』

『知っているよ、新聞で見た』

『18点入れると言ってみせた。我々は弱くて、最下位が決まっている。だけど我々もナショナルチームだ。相手に、試合前に得点を予告されている、それも大量得点を予告されている。それを許す訳にはいかない。
そう思って選手全部に、自分の気持ちを伝えた。そうしたら選手全員が言った。その通りだ、18点を入れさせないなら、どんな作戦でも取る、て言うんで、あの作戦を取った』

これがパチェコの答えだったですね。
ある意味2つ勉強になったですね。

1つは『11人が結束したら、凄い試合が出来る』という事
もう1つは『試合前の監督・コーチの発言が、その後の試合にどんな影響をもたらすか』という事(笑)」


そして10月10日、3万8千人を集めた国立競技場で行われた南ベトナム戦。
0-0のまま試合は進み、後半50分に手負いの状態だった杉山隆一の執念のゴールで1点先制。試合はそのまま日本が逃げ切り、1-0で勝利。

これにより、日本代表は2大会連続でオリンピック本戦出場が決まったのである。
by wataridori21 | 2007-12-09 11:30

五輪ソ連代表・イギリス選抜との対戦と南米遠征(1967年)

1967年、メキシコ五輪予選の行われるこの年の日本代表の初戦は、五輪のソ連代表チームとの3連戦だった。

今回は地元・日本で行われる事、そのまでの2年あまりの代表強化の成果が試されるシリーズだったが、スコアは次の通り、

2月19日 0-2 (東京国立競技場)
2月22日 1-3 (京都・西京極陸上競技場)
2月26日 0-0 (東京国立競技場)

3戦目、日本代表はフォーメーションを1-4-2-3とし、鎌田光夫をスイーパーに抜擢して臨んだ事が功を奏し0-0の引き分けに持ち込んだ。しかしその為に得点力不足が顕著となり、内容的には勝てる見込みも無い試合でもあった。


5月には、来日してきたイギリスのミドルセックス・ワンダラーズと3試合を行った。同チームはイングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドのアマチュアが集まって結成された選抜チームで、当時のイギリスにおける最強のアマチュア選抜だった。スコアは次の通り、

5月25日 1-3 (東京国立競技場)
5月27日 2-1 (東京・駒沢陸上競技場)
5月30日 1-2 (京都・西京極陸上競技場)

自国での開催とはいえ、イギリス選抜に1勝を挙げた事は、日本代表の力がいよいよ世界のアマチュアサッカー界でも高いレベルになってきている事を証明した画期的な出来事といっていい。


6月には、ブラジルのプロチーム・パルメイラスと3連戦を戦った。パルメイラスは当時のサッカー界では世界トップクラスの強豪で、試合前の時点で日本代表とは実力差が歴然としていたが、いざ蓋を開けると次の結果となった(この試合では元日本代表コーチのデットマール・クラマーがトレーニングコーチを務めていた)。

6月18日 0-2 (東京・駒沢陸上競技場)
6月21日 2-1 (東京・駒沢陸上競技場)
6月25日 0-2 (東京陸上競技場)

第2戦はまさに大金星であり。南米トップクラスのプロチームに競り勝った事は大変な自信に繋がったに違いない。この時の日本代表の1点目は小城得達のPKでの得点(彼は現役を通して、PKにめっぽう強い選手であった)、そして2点目は終了間際和の81分に釜本邦茂が決めている。


7月、今度は日本代表が南米遠征を行った。これはブラジルからの招待によるもので、途中ペルーに立ち寄り、そこでも試合を行っている。この遠征でのスコアは次の通り、

7月28日 ペルー選抜B戦→0-1
7月30日 ペルー選抜B戦→0-0

ブラジルへ移動して4試合を戦い、

8月06日 リネンセ戦→0-2
8月10日 パルメイラス戦→0-1
8月13日 アトレチコス・プロデンチナ戦→0-2
8月15日 フェロビアリオ戦→1-2

6試合で1勝も出来なかったが、いずれも接戦の内容であり、この遠征は、翌年のメキシコ五輪が開催されることもあり現地の環境に慣れる為には貴重な体験であった。実際に代表チームは翌年の大会前にメキシコに飛び合宿を行って、現地の高地対策を行ってから試合に臨んでいる。


ちなみに日本代表は、それまで参加していたムルデカ大会を、今回は欠場している。同時期に南米遠征が重なった為に、JFAは代表Bチームを送ることを決めたが、開催国マレーシアはあくまでA代表の参加にこだわり、やむを得ず欠場を決めた。
また、同年に開催された第4回アジアカップにはB代表が参加している。これが日本代表による初のアジアカップ出場となったが、惜しくも予選通過はならなかった。
by wataridori21 | 2007-12-09 10:07

プロチームとの対戦と第5回アジア競技大会(1966年)

1966年におけるサッカー日本代表の初戦は、スコットランドのスターリング・アルビオンだった。

同チームはサッカーの本場スコットランドのプロチームで、アマチュアの日本代表チームとの対戦は、当時の日本では大変な話題となり、6月26日の東京・駒沢陸上競技場は20250人の超満員を記録する大盛況となった。しかし試合は渡辺正・小城得達らの活躍はあったが、2-4で敗退している。

その後は海外遠征となり、7月のソ連遠征では4試合を戦い2分2敗。

7月13日 ザボロージェ選抜戦→2-2
7月17日 ドネーツク戦→1-1
7月20日 ロシア共和国選抜戦→2-4
7月21日 ソ連五輪代表戦→1-3

そして8月には西ドイツへ飛び、6試合で4勝1敗1分。

8月04日 ザール州選抜戦→2-2
8月06日 FKビルマーゼン戦→1-4
8月09日 VfRハイルブロン/ウニオン・ベッキンネン連合戦→5-3
8月11日 クーゼル選抜戦→9-1
8月13日 ダルムシュタット98戦→2-0
8月17日 西ドイツ五輪選抜戦→2-0

日本に帰国後、11月26日には、香港・東昇混合チーム戦では8-2の大勝。そして第5回アジア競技大会への参加の為に、タイのバンコクに飛んだ。


12月9日に開幕した第5回アジア競技大会では、サッカー競技の人気が大変に高く、主催者側は予選リーグを1部・2部に分けて開催する事とした。

1次予選はインド・イラン・マレーシア、そして日本の4チームで戦い、3連勝で1次リーグ1位で通過した。

12月10日 インド戦→2-1
12月11日 イラン戦→3-1
12月14日 マレーシア戦→1-0

更に2次予選では、シンガポール・タイと対戦し、2連勝で決勝トーナメントに進出する事が決まった。

12月16日 シンガポール戦→5-1
12月17日 タイ戦→5-1

12月18日、決勝トーナメント準決勝で、イランに0-1で敗退。日程からして14日以降は1日の休みを挟んで19日まで毎日試合を行っていただけに、選手の消耗が酷かった事も考えられる。
12月19日、3位決定戦ではシンガポールに2-0で勝利し、3位が確定した。日本サッカーにとって初めての3位入賞を獲得したのである。(1位→ビルマ、2位→イラン)
by wataridori21 | 2007-12-09 00:03