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2007年 12月 24日 ( 7 )

川淵三郎(元日本代表監督・選手、Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長)

1980年11月から1981年3月までサッカー日本代表監督を務めたのは川淵三郎。

彼は大阪府出身で、大阪府立三国丘高等学校から1957年に早稲田大学第二商学部に進学し、同大学ア式蹴球部に入部。

1958年、日本代表選手に選出。以後、主に日本代表のCFとして活躍する。
1961年、早稲田大学を卒業し、古川電工サッカー部に入部。
1964年、東京五輪に出場し、1回戦のアルゼンチン戦で同点ゴールを決める。
1965年、怪我の影響で代表を外れる。
1972年、現役を引退し、古川電工の監督に就任。
1975年、古川電工監督を退任。
1980年、ロサンゼルス五輪の強化部長に就任。更に10月に辞任した渡辺正監督の後任として日本代表監督に就任。

就任直後から若手選手を大量に起用し、下村幸男・渡辺正両監督も若手を数多く起用していた事もあり平均年齢が20歳代前半となった。
代表チームの最年長が26歳の前田秀樹で、19歳の都並敏史・戸塚哲也・風間八宏、さらに18歳の佐々木博和と、極端なまでの若手重視の人選を強行した。その為同年暮れの日本代表シニア(メンバーは元日本代表選手)と対戦して敗退してしまった。

1981年、3月に日本代表監督を退任。

1988年、JSL(日本サッカーリーグ)の総務主事に就任。
1991年、古川電工を退社し、社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)チェアマンに就任。
1994年、日本サッカー協会副会長に就任。
2002年、日本サッカー協会会長に就任。
2006年、FIFA総会で「FIFA功労賞」を受賞。

選手として、国際Aマッチで26試合で8得点。
監督として、国際Aマッチで10試合で3勝2分5敗。

選手時代はFWとして活躍し、日本代表監督としての活躍は短かったが、その後1990年代から続くJリーグの歴史に常に立ち会ってきた人物。彼に対する評価が二分する事もあるが、戦後の日本サッカー界における、偉大な功労者であることは間違いない。
by wataridori21 | 2007-12-24 23:10

渡辺正(元日本代表監督・選手、八幡製鉄サッカー部監督、立教大学サッカー部監督)

1980年5月から10月までサッカー日本代表監督を務めたのは渡辺正(わたなべまさし)。

彼は広島県広島市出身で、広島市立基町高等学校から1953年に八幡製鉄サッカー部(後の新日本製鐵サッカー部)に入部。

1957年、サッカー日本代表メンバーに選出され、10月の中国遠征(監督は高橋英辰)に参加。
1958年、八幡製鉄を一旦やめ、立教大学に入学。同年の東南アジア遠征中の12月28日のマラヤ戦で代表初ゴール。
1962年、立教大学を卒業し、八幡製鉄に復帰。
1964年、東京五輪に出場。
1968年、メキシコ五輪に出場し、この大会で2得点。当時の日本代表は釜本邦茂の得点力に加え、左ウィングの杉山隆一に対する、右ウィングの渡辺は強力な布陣であった。
1969年、八幡製鉄の監督(選手兼任)に就任。
1971年、現役引退。
1975年、八幡製鉄監督を退任。
1979年、下村幸男監督の下で、日本代表コーチに就任。
1980年、下村監督の後任として日本代表監督に就任。ここでは前任の下村監督と同様に、木村和司、風間八宏、田嶋幸三、西村昭宏ら若手を積極的に起用する采配を見せたが、同年10月、くも膜下出血で倒れて、辞任を余儀なくされた。

1984年、病気を克服して、母校の立教大学の監督に就任。
1995年、死去。
2006年、日本サッカー殿堂入り。

戦後の日本サッカー界で、現役時代はFWとして活躍し、実業団チームのコーチ・監督としても実績を残した。それだけに日本代表監督として僅か5ヶ月の采配で病気での辞任は、彼自身、無念だったに違いない。

選手として、国際Aマッチで39試合で12得点
監督として、国際Aマッチで3試合で2勝0分1敗
by wataridori21 | 2007-12-24 22:38

下村幸男(元日本代表監督・選手、東洋工業監督)

1979年3月から1980年3月までサッカー日本代表監督を務めたのは下村幸男。

彼は広島県広島市出身で、広島修道中学校(後の広島修道高等学校)から1952年に東洋工業(後のマツダ)の東洋工業蹴球部に入部。

1954年の全日本選手権(後の天皇杯・全国サッカー選手権大会)で、実業団として初めて決勝進出を果たすが、決勝で慶大BRBに惜しくも敗退。しかし当時のサッカー界は大学チームの全盛時代だっただけに、大変な快挙だった。

1955年、日本代表チームに選出され、メルボルン五輪に出場。同じ年の全日本実業団選手権で準優勝。当時の実業団サッカー界では田辺製薬サッカー部が大変に強く、この時も優勝し6連覇を達成していた。
1956年、全日本実業団選手権の決勝で再び田辺製薬と対戦し、この時は勝利して同チームの初優勝。

1961年、現役を引退。
1962年、東洋工業のコーチに就任し、同年の国体・実業団選手権で2冠を達成。
1964年、東洋工業の監督に就任。
1965年、この年に開幕したJSL(日本サッカーリーグ)では、小沢通宏・石井義信・小城得達・桑原楽之・松本育夫・今西和男・船本幸路らを擁して初代王者に輝く。
1968年、JSL4連覇を達成し、同リーグでの黄金時代を築く。
1971年、東洋工業サッカー部監督を退任。
1972年、創部5年目の藤和不動産サッカー部(後の75年にフジタ工業サッカー部に改称)の監督に就任。
1974年、藤和不動産サッカー部監督を退任。

1979年、二宮寛監督の後を受けて日本代表監督に就任(同時に渡辺正がコーチに就任)。
1980年、日本代表監督を辞任。木村和司・川勝良一ら若手を起用するなどの采配を見せたが、さすがに名将といっても、僅か1年で結果を出す事は難しかった。

1992年、東洋工業から代わったサンフレッチェ広島のスカウトスーパーバイザーに就任。
1994年、サンフレッチェ広島のスーパーバイザーを退任。
2000年、母校の広島・修道中学のコーチに就任。

実業団チームの監督の実績は十分だっただけに、戦力がある程度整った状態になってからの日本代表チームで、采配を出来なかったのが残念である。

監督としての、国際Aマッチでの成績は、14試合で8勝4分2敗
by wataridori21 | 2007-12-24 19:32

二宮寛(元日本代表監督・選手、欧州三菱自動車社長)

1976年から78年までサッカー日本代表監督を務めたのは二宮寛。

彼は兵庫県出身で慶應義塾大学在学の頃から日本代表チームのメンバーに抜擢するなど、早くから将来を嘱望された選手。

1959年の第3回ムルデカ大会では、シンガポール戦でハットトリックを達成するなど、この年は9試合に出場して9得点。
1960年、実業団チームの三菱重工業サッカー部に入部。

1967年、JSL(日本サッカーリーグ)3年目を迎えた三菱重工の監督に就任(同時に森健兒がコーチに就任)。
この時に彼はチームの改革に着手した。それまで同チームは専用グラウンドを持っていなかったが、三菱重工川崎工場内に照明設備付きの専用グランドを新たに建設し、選手全員を同社総務部に転属させ、社業が終わるとすぐに練習が出来るように環境を整えた。これにより日本リーグや天皇杯での、その後のチーム成績は大幅に向上した。

1969年、杉山隆一・森孝慈・落合弘らを擁した布陣で、前年まで日本リーグ4連覇を続けていた東洋工業を退けて初優勝を飾る。

1970年代に入ると一時西ドイツに留学して1FCケルンのバイスバイラー監督に師事し、カウンターアタックの戦法を学び、それを三菱重工の試合運びに応用していった。

1971年、天皇杯で初優勝。
1973年、三菱重工は天皇杯・日本リーグの2冠を達成。
1975年、三菱重工監督を退任。

1976年、当時低迷の一途を辿っていた日本代表チームの監督に就任。彼は就任直後からチーム改革を積極的に進めた。それまでチームの合宿が旅館を利用していたところをホテルに切り替えたり、数多くの選手達の待遇改善を熱心に行った。
更に大幅な若手切り替えを断行し、その中から永井良和、奥寺康彦、金田喜稔らが台頭していった。
その成果が早速あらわれ、同年に開催された第20回ムルデカ大会では、奥寺康彦・釜本邦茂の活躍もあり、見事に準優勝を飾った。

しかし1977年、釜本の代表チームからの引退、10月には期待の若手FW奥寺が西ドイツの1FCケルン(皮肉な事に同チームの監督は二宮自身が師事していたバイスバイラーだった)への移籍が決まってしまい、慢性的な得点力不足に陥った。

1978年7月のムルデカ大会、12月のアジア競技大会で惨敗。
1979年3月、代表監督を辞任。

その後、古巣三菱重工の親会社の系列である三菱自動車に移籍し、やり手のビジネスマンとして活躍、そして何と、欧州三菱自動車・代表取締役にまで昇り詰めた。

2000年に三菱を定年退職し、その後は、自身が起業したコーヒーショップを経営しているという。

三菱自動車での活躍からして、もしサッカー界に留まっていたら、どのような活躍をしていたか想像すると、とても惜しい人材であった。
by wataridori21 | 2007-12-24 17:59

モスクワ五輪・予選とW杯スペイン大会・予選(1980年)

1980年はモスクワ五輪の年で、サッカー競技の予選は、1度は前年に開催されるはずだったものが、同じ年の3月の開催に変更されていた。

五輪予選の直前の試合の相手はハンガリーのウイペシュティ・ドージャ。同チームは当時のハンガリーでは最強クラスのチームで、計6試合を行い、今回は東京・大阪だけでなく岡山・鹿児島でも開催された。

1月27日 ウイペシュティ・ドージャ戦→0-0
1月30日 ウイペシュティ・ドージャ戦→2-4
2月03日 ウイペシュティ・ドージャ戦→2-5
2月06日 ウイペシュティ・ドージャ戦→0-3
2月09日 ウイペシュティ・ドージャ戦→1-4
2月11日 ウイペシュティ・ドージャ戦→1-1

そして3月にモスクワ五輪・予選がマレーシアのクアラルンプールで開催された。
この予選ではアジア6チームが1回戦総当りで戦い、上位2チームが予選通過する事となっていたが、参加チームの中では、韓国もちろん、この時はマレーシアが大幅に代表チームを強化しており、日本は5試合を消化して3勝1敗1分となり、1位マレーシア・2位韓国・3位日本で、惜しくも予選敗退となった。

しかしそれでは終わらず、五輪主催国のソ連が中東のアフガニスタンンに軍事侵攻を強行し、それに対するアメリカ・西ヨーロッパ諸国の五輪参加ボイコット騒動が起こり、それに追随してマレーシア・韓国が参加ボイコットを表明。この為、3位の日本は繰り上げで五輪本戦に出場できる事となったが、やはり日本も参加ボイコットする事になった。

4月に下村幸男監督は五輪予選での敗退の責任を取る形で辞任、後任に渡辺正監督が就任した。
渡辺監督に初陣は5月の第3回ジャパンカップだった。
第1戦のアルゼンチンから来日のアルヘンティノス・ジュニアース戦では3-1と快勝したが、その後は続かずに1勝1分1敗で予選リーグで敗退。決勝はイングランドのミドルスブラとスペインのRCDエスパニョールが対戦してミドルスブラが優勝した。

5月25日 アルヘンティノス・ジュニアース(アルゼンチン)戦→3-1
5月27日 ミドルスプラ(イングランド)戦→1-2
6月01日 RCDエスパニョール(スペイン)戦→0-0(PKを経てエスパニョールが勝利)

6月には中国・広州で広州国際大会が開催された。ここで日本代表は2勝1分2敗の成績を残したが、若手の原博実・長谷川治久らの台頭が目立った大会だった。

6月09日 香港戦→3-1
6月11日 中国戦→0-1
6月13日 SCバカウ戦(ルーマニア)→1-1
6月18日 香港戦→2-0(順位決定戦)
6月20日 広東省(中国)戦→0-1(順位決定戦)

しかし2ヶ月後にW杯・予選を控えた10月、渡辺正監督がクモ膜下出血で入院してしまい、後任監督に川淵三郎強化部長が就任する事となった。

川淵監督の初陣は11月、アメリカから来日のワシントン・ディプロマッツとの対戦だった。同チームは北米サッカーリーグのチームで、スター選手のヨハン・クライフも在籍していた。

11月09日 ワシントン・ディプロマッツ戦→0-1
11月24日 ワシントン・ディプロマッツ戦→1-1

12月にW杯予選直前の試合として、国立競技場にて日本代表シニア戦が行われた。
代表シニアには、釜本邦茂らかつての代表メンバー(JSLでは当時まだ現役)が名を連ねていたが、試合はなんと、代表シニアが3-2で勝ってしまった。

12月14日 日本代表シニア戦→2-3

そしてW杯スペイン大会・予選が、香港にて開催された。
この時の日本代表には、主に20歳代前半の選手を選抜しており、彼らはこの年の国際大会で多くの経験を積んできていた。メンバーは次の通り、

監督・川淵三郎、GK加藤好男・鈴木康仁、DF前田秀樹・須藤茂光・菅又哲男・山本昌邦・坂下博之・越田剛史・都並敏史、MF岡田武史・金田喜稔・副島博志・戸塚哲也・田中慎二・風間八宏・佐々木博和、FW横山正文・長谷川治久・木村和司・原博実。

予選での対戦相手には、前年にFIFAに復帰したばかりの中国が参加していたが、この中国には致命的な敗退を喫してしまうなどして2勝2敗となり、結局今回も最終予選への進出はならなかった。
尚、この予選の決勝では中国と北朝鮮が対戦して中国が勝利し最終予選へ進出、しかし中国が最後の最後で3位となり、ニュージーランドとクウェートが本戦出場を果たしている。

12月22日 シンガポール戦→1-0
12月26日 中国戦→0-1
12月28日 マカオ戦→3-0
12月30日 北朝鮮戦→0-1
by wataridori21 | 2007-12-24 13:02

第2回ジャパンカップと第23回ムルデカ大会(1979年)

1079年3月、日本代表は二宮寛監督から下村幸男監督に交代した。

下村監督の初采配は3月4日の韓国定期戦だった。この定期戦も通算7回目を迎えたが、この時の韓国はFWに身長190cmの金在漢を擁する、当時アジアNo.1チームとなっていた。それ相手に、日本代表は2-1で久しぶりの韓国戦勝利を勝ち取ったた。

3月4日 韓国戦→2-1

5月には第2回ジャパンカップが開催されたが日本代表は予選リーグで敗退。決勝はトッテナム・ホットスパー(イングランド)とダンディー・ユナイテッド(スコットランド)が対戦し、トッテナムが優勝した。トッテナムには前年のW杯優勝のアルゼンチン代表選手だったアルディレスやリカルド・ビシャが参加していた。

5月27日 フィオレンティナ(イタリア)戦→1-1
5月29日 トッテナム・ホットスパー(イングランド)戦→0-2
5月31日 インドネシア代表戦→0-2

6月にはソウルで日韓定期戦が開催された。3月には勝利した日本代表だったが、この時は1-4で惨敗、やはり力の差は歴然だった。

6月16日 韓国戦→1-4

同じ6月下旬から7月にかけて、マレーシアで第23回ムルデカ大会が開催された。日本代表は前回の惨敗を払拭をかけた大会だったが、韓国・マレーシアの2カ国がB代表相手に勝つことも出来ず、7試合で3勝3分け1敗の結果となった。

6月27日 マレーシアA代表戦→1-1
6月29日 タイ戦→2-1
7月01日 ビルマ戦→1-0
7月04日 韓国B代表戦→0-1
7月08日 マレーシアB代表戦→0-0
7月11日 インドネシア戦→0-0
7月13日 シンガポール戦→3-1

帰国後に広島でスペインの強豪バレンシアと対戦して1-2、そして8月にはソ連、そして北朝鮮と遠征を行った。

8月08日 バレンシア戦→1-2
8月11日 アムール・コムソモルスク(ソ連)戦→1-2
8月13日 ウーチ・ウラジオストク(ソ連)戦→0-0
8月15日 エスカ・ハバロフスク(ソ連)戦→2-4
8月19日 陸軍二・八(北朝鮮)戦→0-3
8月21日 海洋(北朝鮮)戦→0-0
8月23日 北朝鮮代表戦→0-0

そして10月にニューヨーク・コスモスが来日してきた。ニューヨーク・コスモスは北米サッカーリーグ所属のチームで、ブラジルのペレが最後に在籍したプロチーム。数年前のペレの引退試合の開催で、1度日本に来日している。今回のチームには、あの「皇帝」フランツ・ベッケンバウアーも所属していた。

10月14日 ニューヨーク・コスモス戦→2-2
by wataridori21 | 2007-12-24 11:50

第1回ジャパンカップと第22回ムルデカ大会と第8回アジア競技大会(1978年)

1978年は、日本を代表するストライカーであったベテラン釜本邦茂・若手ホープ奥寺康彦の2人を前年に同時に失う事となった為、この年の初試合から惨敗の連続となった。

3月にソ連のアムール・ブラゴベシチェンスクが来日してきた。同チームはソ連・極東地方のブラゴベシチェンスク市にある3部リーグのチームで、本来なら楽に勝てる試合であったが、蓋をあければ1分2敗と惨敗。FWにDFの選手を当てるなど、戦力の低下を露呈した結果となってしまった。

3月19日 アムール・ブラゴベシチェンスク戦→0-0
3月21日 アムール・ブラゴベシチェンスク戦→0-1
3月26日 アムール・ブラゴベシチェンスク戦→1-2

5月には日本で第1回ジャパンカップ(後のキリンカップ)が開催された。

ジャパンカップとは、サッカー日本代表チームを強化する事を目的に、海外のA代表や世界の強豪クラブチームを招待して日本代表や日本選抜チームなどと親善試合を行う趣旨で設立された大会である。
この大会は後にキリンカップと名称が変更され、途中に中止となったりしながら、2007年現在で通算27回大会を迎え、その参加チームのレベルも大きく変わっている。

この第1回大会では1FCケルン(西ドイツ)、ボルシア・メルヘングラッドバッハ(西ドイツ)、コベントリーシティー(イングランド)、パルメイラス(ブラジル)、韓国代表、タイ代表、そして日本代表と日本選抜の計8チームが参加。2ブロックに分け1回戦総当りのリーグ戦を行い、それぞれ上位2チームが決勝トーナメントに進出する方式で行われた。

日本は予選リーグで1勝1分1敗で予選敗退となってしまい、準決勝に進むことは出来なかった。決勝戦ではボルシアとコベントリーが対戦し、引き分けで両者優勝で幕を閉じた。

5月21日 コベントリー・シティー戦→0-1
5月23日 タイ代表戦→3-0
5月25日 1FCケルン戦→1-1

7月にはマレーシアで第22回ムルデカ大会が行われた。日本代表は前年は参加していなかったが、第20回大会では準優勝だっただけに期待されたが、奥寺・釜本の2人のいないチームでは劣勢は避けられず、2勝1分4敗の4位となった。

7月13日 イラク戦→0-0
7月15日 インドネシア戦→1-2
7月17日 シリア戦→3-2
7月19日 韓国戦→0-4
7月21日 マレーシア戦→1-4
7月23日 シンガポール戦→1-2
7月26日 タイ戦→4-0

8月には恒例のヨーロッパ遠征を行ったが成績は芳しくなかった。

8月10日 SPVGG1903(西ドイツ)戦→4-2
8月14日 コベントリー・シティー(イングランド)戦→0-2
8月18日 ビンタースラッグ(ベルギー)戦→2-5
8月20日 ヘント(ベルギー)戦→2-3
8月22日 アントワープ(2-2)戦→2-2

帰国後には中国代表、ソ連代表と試合を行ったが、ソ連代表との3連戦でははっきりと格の違いを見せ付けられる結果となった。

9月27日 中国戦→4-0
10月03日 中国戦→3-1

11月09日 ソ連戦→1-4
11月23日 ソ連戦→1-4
11月26日 ソ連戦→0-3

そして12月、タイのバンコクで第8回アジア競技大会が行われた。しかし1次リーグで1勝2敗となり、前回大会同様に決勝トーナメントすら進出できなかった。特に韓国とのレベルの差はこの10年で、大きく拡大してしまった。

12月11日 クウェート戦→0-2
12月13日 バーレーン戦→4-0
12月15日 韓国戦→1-3

尚、この大会が二宮寛監督の代表チームでの最後の采配となった。
by wataridori21 | 2007-12-24 10:57